IE……というかスタイルシート及びRUBYタグに対応したブラウザでの閲覧を激しく推奨します。


2004/02/13

Recurring Nightmare 第1話「Invasion Plans」


「―――――!」
 聞く人間とていない夜の闇に、空気を劈くような悲鳴が響いた。
 だが、実際には空気が裂けることはなく、闇が晴れることもない。誰も、その悲鳴には気付かない。
 ゆえに、その悲鳴が意味するのは恐怖と絶望であり、悲鳴をあげさせた者の歓喜でしかない。

 そこは都市部からそう離れていない公園であったが、悲鳴をあげた若い女以外は誰1人――段ボールやビニールで造った住居で暮らすホームレスすら――いなかった。
 今日、その時に限って、というわけではない。
 11年前に団地であったそこで多数の死傷者を出した火災が起きて以来、人の寄りつかない土地になった。
 悪い雰囲気を通り越して怨念すら感じさせる空気をその土地は発しており、余程鈍感な人間でない限り――そして特に用がない限り――申し訳程度にベンチが置かれたその公園を訪れることがないのだった。

 一度悲鳴をあげたきり、既に声を張り上げる気力すら失った女は、尻餅をついたまま立ち上がることも出来ずに、ずるずると後ずさる。

 繰り返すが、そこには恐怖に震える1人の女以外、人間は誰もいない。
 つまり、女が恐怖しているのは、暴漢や強盗といった可愛らしい者達とは一線を画した、もっと別のモノである。

「いゃ、ぃゃぁぁ……」
 女が掠れた声で拒絶しているのは、蟲だった。
 その数、1匹や2匹ではない。
 優に百を超える蟲の群れが、女の視界内の地面をびっしりと埋め尽くし、今なお木から落ち、地から湧き、目の前のエサへと這い寄っていた。

 震えながらずるずると後じさるが、到底そんなことで逃げ切れるわけがない。
 とうとう蟲は女の足に、手に、脇腹に吸いつき、その肉を喰らい始めた。
「ゃ―――――!」
 精神は助けを呼ぶ力、呼べるという希望などとうに失っていたが、その激痛と不快感に、女の身体は再び大声を上げさせる。
 死を前にした恐怖が、夥しい蟲の群れを見た嫌悪が、そして、そんな直接的な理由でなく、それらはもっと生物として、自然でまっとうな世界を生きる者として異常な「何か」であると悟った本能が、この状況を許容してはならないと叫ぶのだ。

 ――だが、無駄である。
 悲鳴を聞く者はいないし、彼女には抵抗する力もない。何より、普通の生物では対抗しようのない何かであるからこそ、その本能が危機意識を抱くのだから。
 ゆえに、彼女に出来るのは、ずるずると後ずさることだけである。

 そも、何故こんなことになってしまったのか。
 思えば、今日は朝からついていなかった。
 毎朝見ているテレビ番組の占いコーナーで最低の運勢を予告され、「黄色い物を身につけると運が良くなるよ」なんて言葉を聞いてはて、そんなのあったかしらとタンスの中をひっくり返していたらいつもの通勤で乗っている電車に3本も乗り遅れてしまった(ついでに、黄色い服もアクセサリーも見つからなかった)。
 結果、当然のように遅刻して、上司はおろか仲の良い同僚にまでバカと言われた。
 その日の仕事は調子の出ないままで、つまらないミスを繰り返し、その同僚は「アンタはほんとにバカだねえ」なんて手伝いながら笑っていた。
 うん、今日は普段の平均より5回も多くバカって言われてる。
 なんて厄日だ、と思いながらの帰宅途中、今日最後の――そして最大の――災厄に見舞われてしまった。
 最初は、走って逃げた。
 しかし、行く先々で目の前に現れる「何か」を避けて走るうち、寂れた公園へと追い詰められ、逃げ道がないことを悟ってしまったのだった。

 ――そして、既に足が動かない状態でずるずると後ずさる現在に至る。
 蟲は、足に喰らいつき、その吻で開けた穴から次々と入り込んでゆく。
 他にも、皮膚の外側をずるずると粘液の音を立てながら這いずってゆく蟲がいる。
 既に動かない手にも穴を開け、やはり同じようにずるずると入り込み、ずるずると這い上がる。

 気付いてはいけない。理解してはいけない。

 女は、一生懸命にずるずると後ずさる。
 とにかく、後ろに下がり続ける限り、まだ生きていられるのだ。喰われてはいけない致命的な部分に喰いつこうとする蟲を回避し続けられる。そうに違いない。ずるずると音がしているのはわたしがずるずると後ろに進んでいるからでずるずると入ってくる黒いのはわたしがずるずるしてればこれ以上来ないことはバカでもずるずると分かるのだ。

 ――その、手も足も動かなければ後退はできないんじゃない、なんて。
 そんな難しいこと、バカのわたしに分かる訳ないじゃない――


 全て終わったその場所には、一片の食べ残しもなかった。
 地面を覆い尽くさんばかりだった蟲も、今はもういない。
 いるのは、干からびたように深い皺を刻んだ、小柄な老人が1人だけである。
 誰が気付くだろう。この老人こそが、先ほどまで若い女を捕食していた蟲の大群なのだと。
 蟲を集めて肉体を構成し、定期的に代わりの人間の肉体を取り入れることで生き長らえている「人でないもの」なのだと。

 食事を終えて呵々と笑うその老人の顔には、しかし満足げな表情はなかった。
 喰った女の身体に不満があった訳ではない。その捕食の手際が特別に悪かったのでもない。ましてや、肉の味になど初めから関心がない。
 問題は、得た新しい肉体の感触である。
 500年の昔、最初に他人を「喰った」時、その肉体の鮮度は50年も保ったというのに、今では得た瞬間に腐敗が始まり、食事を必要とする間隔はもうすぐ1ヶ月を切ろうとしている。身体の交換が済んだばかりでも、新しい獲物を捜しに行きたくなる衝動を抑えなければならなくなっていたのだった。
 老人が笑うのは、今度も生き延びることが出来たという喜び故、そして同時に表情が昏いのは、今度もこの腐敗への恐怖から逃れられなかったという落胆故である。
 老人は、今夜もまた、ここでしばらく時間を潰し、その恐怖と衝動に耐える覚悟を決めてから、夜が明ける少し前に住処である屋敷へと戻るつもりでいる。
 そうでなければ、屋敷に住む孫達をその手にかけ、喰ってしまうかもしれない。
 好々爺を気取るようなことはしないが、この老人もまた彼なりに孫を愛している。彼が子孫に求めた資質もなく、人から阿呆に見えていようと、過大な期待さえ抱かなければそれなりに可愛いのだ。その孫が可愛がっている義妹もまた、自分が喰うわけにもいくまい。

 ――だが、そんな痩せ我慢もいつまで保つのか。
 計算外であった。
 年々、腐敗が速くなっているのは自覚していたが、さすがにここまでとは予想できていなかった。いかに魂に合わせて肉体が作り替えられるとはいえ、栄養と魔力を与え続けられる肉体自体の活力が、もっと長期にわたる活動を可能にすると考えていた。
 いよいよという時になって、老人は自分がその衝動に耐える、或いは耐えられなくなる前に自ら命を絶つ、というようなことを考えない人間であることを自覚している。というより、自分の生きたいという衝動に勝る価値を他の物に見出すという発想自体を、この老人は既に失っている。自らの血脈は全て己が願望を叶える道具の1つであり、生きるために必要とあればどれだけ愛着があろうと躊躇なく使い捨てるだろう。

 否、この老人を動かしている物は既に「生きたい」という渇望ですらない。
 「死にたくない」という恐怖、そして今では理由も定まらぬ「死ぬわけにはいかない」という狂気じみた強迫観念だけである。
 とにかく、次だ。前回もまた届かなかったが、次回こそは辿り着かなければならぬ。次回こそは――

「――しかし、その肉体もまたすぐに死ぬ。そのペースじゃもう滅びは避けられない。……本当は分かってるんだろう?」
 そこに、一言も発してはいない筈の老人の心の言葉に応えるように、女の声が響いた。

「!?」
 慌てて振り返る。
 老いさらばえ、朽ちゆくのみの肉体を抱えていても、気配を察知する感覚は人より敏感である。死なないことだけを求めて生きてきたその魂は、そういう神経だけは腐ることを許さない。
 が、その能力の網に引っかかることもなく、まるでその瞬間そこに現れたかのように、しかしそれでいてずっとそこにいたかのような自然さで、若い女がベンチに脚を組んで座っていた。
 自らの豊満な身体を誇示するように胸元の大きく開いた紫のスーツを着た、奇妙と言えば奇妙な風貌の女だった。眼鏡の奥に光る赤い瞳と整った唇が、貼り付いたような笑みを形作ってこちらを見据えていた。

「おや、これは失礼。食事中に声をかけるのもどうかと思ったのでね。頃合いを見計らっていたのだけど」
 ひょっとして気付いておられなかったのかな、等と白々しい言葉を吐く。。
「……ふん。見知らぬ他人の食事を黙って見物している方が無礼であろうが。して何用か、人に非ざる者よ」
 言い返しはするがさほど礼儀など気にしてはいない様子で、老人は訊ねる。そう、気にするべき事はもっと他にある。
 気付かなかった。食料を追い詰めていた時からいたというのはさすがに嘘だと思いたいが、確信はない。分かるのは、抑えられながらも僅かに漏れる魔力の強烈な濃度であり、傍にいるだけで自身の命が危ういだろう危険な相手だということだけである。

「いやいや、そう殺気立たないでくれよ魔術師殿。僕はただ、役に立ちに来ただけなんだからさ」
 女は深く腰掛けていたベンチからひょいと身軽に立ち上がり、両手を広げて降参の形を示す。が、そう簡単に信じるわけにもいかない。
「ワシの役に立つとな。この滅びは避けられぬと言うたのはお主ではなかったか。まさかそれを止める方法を持ってきたとでも」
「然り。魔術師殿が思っているほど、それは難しい事じゃない」
 期待などなく、少し意地の悪いことを言ってやろうという程度の言葉だったのだが、存外のことを女は即答してきた。まるで、こちらの台詞が分かっていたかのように。

「ふむ?」
「その肉体の腐敗は魂の腐敗だ。何度同じ事を繰り返そうと、時間による摩耗、そして精神の損傷からは逃れられない。魂がそういう形である限り、得た新しい肉体もまたその魂に合わせて作り替えられてゆく」
「……分かり切ったことを。だからこそワシは――」
 激昂する老魔術師を、まあまあと手振りで抑えて、女は続ける。
「解決する方法はいくつかある。まず1つ目。魔術師殿が行っているように、腐敗に耐えられなくなる前に新しい身体を手に入れる。確かに、この方法自体に間違いはない。通常、魂よりも肉体の腐敗の方が速いからね。だが、それだけしかしないんじゃ先細りだ」

 齢500を超える魔術師を相手にして、女は得意げに解説を始める。熱心な学徒に対する教師のように。
 そう、女を見る老魔術師の目は少しずつだが熱心さを増していた。女の言いたいことが理解できた。否、女がこれから語ろうとする方法論は初めから分かっている。ここ200年ほどかけて進めてきた計画も、それを実現するための物なのだから。それをおそらくは知っていて――そうに違いない――なお、方法を提示しようというのだ。
 つまり、あるのだ。魂の物質化という完全な魔法儀式を経ずとも、この恐怖から逃れるすべが。

「あるのさ。単体で魂の永遠なんて実現しなくても、魔力の澱みをなくし、循環させ、魂の活力を半永久的に保証する魔導書どうぐさえ手に入れれば、それは可能なんだ」
 これこそがとっておきの方法だとばかりに、女は笑みをますます大きくして語る。

「……魔導書だと?」
 しかし、女の演説じみた台詞に熱が篭もるのに反して、老魔術師は己の熱意が冷めるのを感じた。
 魔導書。よりにもよってそんなもので自分を担ごうなどと考えたのか。
「ふん。教本如きにそんな魔力があるものか。アレは確かに一人前の魔術師である証にはなるが、それだけじゃ。あくまで術者の補助を行う物に過ぎん」
 500年の経験は、魔術師が目指す目標の1つであり、そして強力な魔導具であり、さらには力不足の術者が触れれば「喰われ」て自滅するしかない禁断の存在すらただの「教本」だと言い放つ。
 それはそうだろう。時間は普通の人間に比べて限りないほどにあったのだ。当然、魔導書の5冊や10冊は手に入れている。その中には、強力な魔導書として魔術師達の間で世界的に有名な《ソロモンの小さき鍵の書》や《エノクの書》の写本も含まれる。
 だが、そのどれもが彼にとっては多少役に立つ道具であり、また多少の知識欲を満たしてくれる程度の物でしかなかった。今更、「魔導書さえ手に入れればなんとかなる」等と希望を持てる筈もない。

 しかし、女にはその冷たい視線に堪えた様子はない。むしろ笑みが大きくなり、今や唇は亀裂のように顔を走る線となっている。
「――っくく、あはははは! 教本と来たか。成程、教本ね。確かに教本だ。ああ、そうだね、らはこの僕にすら色んな事を教えてくれる」
 女は、笑っている。その亀裂のような唇に嘲りを浮かべ、灼えるような赤い瞳に憎悪を示し、そしてよく通る楽器のような美しい声に深い深い愛情が溢れていた。

「ぬ――!?」
 老魔術師は、その姿にはっきりと畏怖していた。
 意味が分からない。己はそんなにも妙なことを口走ったのか。それに、この女は何を言っているのか。そして、一体何に感じ入ってそんな恍惚とした貌を浮かべているというのか。

「く、はは。御免よ。つい、笑い過ぎて話を中断してしまった。つまりはね、僕が言っている魔導書と、魔術師殿が想像しているソレでは、大きな開きがあるという事さ」
 女は目に涙すら浮かべながら、少しずつ調子を取り戻しつつ語る。
「断言してもいい。魔術師殿は最高位の魔導書達がどれほどの物なのかを知らない」
 最高位と、女は言った。
 つまり、自分がそれまで魔導書だと認識していた物の力はそれに比べれば数段劣るということ。
「――む。つまり、それがあれば」
「そう。魔術師殿の念願、魂の摩耗と腐敗を防ぐ秘術も可能になるということさ」

 欲しい。
 その話を聞いて、老魔術師がまず最初に想ったことがそれである。
 真偽のほどは未だ定かではない。いや、話自体に嘘はないように思える。問題は、何故それを話したのか、そして、どうやってそれを手に入れるのか、である。今まで不死の探求をしてきて、手に入ることがなかったのだ。いざ手に入れようとしたところで、成果が上がるとは思えない。
 しかし。
 そう、しかしだ、この女は「役に立ちに来た」と言ったのだ。それは、その入手法を意味しているのではあるまいか――

「然り」
 三度、女は老魔術師の心を読み、応えた。
「ああ、約束しよう。僕の頼みを少しばかり聞いてくれれば――なに、ちょっとした人捜しさ――必ず、必ずや間桐臓硯殿を窮極の魔導書に巡り逢わせてあげよう」


 老魔術師、間桐臓硯は依頼を承諾し、去っていった。
 公園に残っているのは今度こそ1人だけ。
 臓硯は優秀には違いないが、1人では魔術師としてやや不足であろう。ましてや、「彼」の対抗馬になど論外である。
「――だけど」
 そう、だけれども。
運命ドラマ一端を握るものしゅつえんしゃであることに、そんなことは問題じゃないんだ」
 それに、ぎりぎりまで彼女の関与を「彼ら」に感付かれる訳にはいかない。
 女は、夜空ほしを見上げて謡うように呟く。
「祝福してあげたいんだ」
 そう、それはまさに祝福。彼女にしかできない愛し方、彼女だけが持つ憎悪。
「だって、僕を追いかけてきたんだ。ヒトとして戦い、戦い抜いて、ヒトを超えて、ヒトを棄てて、神すら屠り、遂に、とうとう、この僕をすら脅かそうとしているんだ」
 女の貌に、再びあの恍惚とした笑みが浮かぶ。嘲笑と憎悪と、そして深い深い愛情が溢れた、混沌の媚笑。
「ああ、愛しい、いとしいよ大十字九郎君。君は今どこにいる? これから僕が調える舞台は気に入ってくれるだろうか? 早く君が憤る姿が見たい。僕が見つけた正義の味方やくしゃはどうだろう? 早く早く君の驚く顔が視たい。そして僕らが創る戦場は? ああ、早く早く早く君が絶望よろこぶところが魅たい!」

 女――ナイアの哄笑は、いつまでも続いていた。


Next「Erratic Portal」
戻る