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1
草馬美空は、いつも騒々しい夢を見ている。
日常が騒がしいのだから夢くらいは静かなものが良いと常々思っているのだが、あまりに騒がしすぎて、既に平々凡々とした長閑な日常を夢想するだに「それは私達らしくない」等と自ら否定してしまうほどに意識が侵食されてしまっているのか、2年前に予備校に通うため東京にやってきてからこっち、毎夜の夢ですら意味もなくどんちゃん騒ぎである。
美空は、その原因の九分九厘までが一緒に東京へ来た彼女の恋人、八雲辰人にあると確信している。
トラブルメーカーと呼ばれる人種がいることは知っていたが、現実に傍にいてみると、ここまで他人と違うものかと驚かされる。
いや、Makerという言葉は、この場合正確ではないかもしれない。
当人が意図せずトラブルを起こしてしまう、なんて可愛いものではない。ほとんどの場合、彼の行く先々には捨て置けないほど極大化したトラブルが既に起こっているのだから、
とはいえ、そうでない場合――つまり、辰人本人にもその責任の一端がある場合のことだ――も、割合はともかく絶対数で言えば少なくないのも確かだ。
さらに言えば、そのケースのトラブルは、彼の
辰人は、草馬美空というちゃんとした恋人がいるにも関わらず、年齢の上下を問わず――と、美空は半ば本気で思っている――美人と見れば声をかける。しかも、どういう訳だかその成功率も馬鹿にならない。特別、見た目が際立って良い訳でも話術に長けているのでもないのだが、気が付くと彼のペースに巻き込まれている、というのがまわりの女性陣によるコメントである。
それだけでも度し難いというのに、辰人の問題はさらに続きがある。
彼に関わる女性達は、かなりの割合で尋常でないトラブルを潜在的に、または現在進行形で抱えているのだ。
そう、辰人の女絡みの問題とは、二股三股がけによる修羅場なんてものではなく、トラブルを抱えた女性をまるで予知しているかの如く選んでナンパする才能のことである。
2年前、高校を卒業する少し前までは、そんな特殊な悪運持ちでもなかったらしい。
その頃、辰人と美空、そして数人の近しい友人達は、彼女らがこれまで経験した中でも最大のトラブルの最中にいた。
辰人には、ある《神》が憑いている。
比喩ではない。八雲辰人は、霊的存在をその身に降ろし、その力をある程度自分の意のままにする能力を持っており、その能力を持つが故に、その《神》に選ばれた。
そのことが原因で、幾度もその周囲ではトラブルが起こり、最後にはその《神》に支配されかかるという危機に陥った。
紆余曲折あって、《神》を再び黙らせることには成功したものの、どうもその時に、辰人の運気に何やら悪戯をしたらしく、それ以来、そういったオカルト絡みのトラブルに巻き込まれる毎日である。
そして、今夜の美空の夢も、
辰人は、またも美空以外の女性と話している。
これは、いつものことだ。この手の夢は、いつもそんな光景から始まるし、現実でもよく見る光景だから、そのこと自体に驚きはしない。ただ、後でどうやって問いつめてやろうかしらと歯噛みするだけである。美空に見られていたと知らずに「そんな女知らない」等と宣った時が彼の最期だ、とそのたびに心に決めるのだが、幸いにしてというべきか、概ね、彼の口からはそれどころではない内容が飛び出てくるので、今のところそういう事態にはなっていない。
普段と違うところといえば、いつもなら最近出会った女性が夢に出るのだが、今回は見たことのない相手であることだった。そういうことも稀にはある。
長身の、眼鏡をかけた女性だった。
仕草の1つ1つに妙に艶があり、また、大きく開いたスーツの胸元が酷く扇情的だった。
年齢はよく分からない。同い年くらいのようにも見えるし、ずっと年上のようにも思える。
そういう女を相手に、辰人はいつもの調子で笑いながら話しかけていた。
次の場面。
やはりというか、辰人は戦っていた。己の裡に眠らせている《神》を目覚めさせて、普通の人間では太刀打ちできない敵に立ち向かっている。
夢であるから、連続性がないのも仕方ないことであるが、なんとなく、いつもの現実の展開、その過程をほんの少し省略しただけのような気もする。
「辰人!」
美空は、そんなことを思ってくすりと笑い、側に寄るべく、恋人の名を呼びながら走り出した。戦闘であるなら、彼女も手伝えることがあるからだ。
そして、その敵を倒し、ハッピーエンド。次のトラブルが降りかかるまでの、束の間の平穏を2人で目一杯楽しむのだ――
――それが、いつもの夢、その結末の筈だった。
「え?」
今回は、その結末だけが違った。
辰人の腕、折れたところすら見たことのない《神》の腕が、容易く切断されて落ちる。空を飛び、時として空間すら渡る彼が、そいつには追いつくことも出来ない。
「なん――で」
訳が分からない。
そんな夢、見る筈がない。
辰人がこういった人ならざるモノとの戦闘で敗北したことなどないし、考えた事もない。怖れるとしたら、美空自身が畏怖している自分の力で、恋人である辰人を殺してしまうような事態であり、その2人が共に戦ってなお歯が立たない相手など、想像できるはずがないのだ。
「辰人ぉ!」
自然、声が裏返る。
だが、既に遅い。両腕は切り落とされ、全身に穴が開いて大量の血が止めどなく流れ出している。
「いやああああああああああああ!」
目の前で最愛の人にとどめを刺される瞬間、美空は悲鳴をあげながら確かに見た。
戦っている辰人と敵の向こう側、女が立っている。
夢の最初で見た、辰人と話していた女だ。女は、その
「いやああああああああああああ!」
夢の内容というより、自分の悲鳴で跳び起きた、という方が正確かもしれない。
すぐ隣には、驚いた表情でこちらを見ている恋人の顔があった。
「え……ぁ……辰人?」
そこは、2人が借りているアパートの一室。借りる当初は2部屋のつもりだったのが、いつの間にか同棲することになっていた。家賃がどうのこうのと理由を並べ立てながら、かねてより2人をくっつけようと画策していた双方の家族から強引に説得されたのを、美空は今でも覚えている。
「どうしたんだよ。魘されるなんて珍しいじゃねえか」
心配そうに声をかけてくる辰人だが、頭が混乱してまともに返事が出来ない。
「お、おい?」
だから、彼が驚いているもう一つの理由にも、最初は気が付かなかった。
「え……なに?」
「いや、刀が……」
見れば、美空はその左手に、鞘に収まった一口の日本刀を握りしめていた。
「あれ……無意識に出しちゃってたのかな」
《邪気祓う剣》。
それは、辰人の《神を降ろす器》と呼ばれる降霊能力と同時に美空に授けられた、退魔の剣である。
厳密には形を持った武器ではなく、美空の能力の一部であり、彼女が必要と判断した時に、その最も得意な武器である日本刀の形を持って現れる。
「よっぽど怖い夢、見てたんだな」
あの無敵の美空ちゃんがねえ、とからかいながらも、頭を撫でる辰人の手はどこまでも優しくて。
美空も、夢の内容を話す気にもなれず、ただしがみつくようにして恋人の腕の中に倒れ込むことしかできなかった。
話せば、おそらくはこの甘い時間も終わりを告げる。
ただの夢、そう言いきれない何かを美空は確かに感じている。まさか予知夢だとまでは思わない――思いたくもない――が、これは確信に近い。そして、辰人はそのことに気付いていない。
珍しいことだ。いつもなら辰人の方が危険と魔の気配には敏感だというのに。
だが、話してしまえば、流石に気付くだろう。何かある、と。
そして、走り出すのだ。騒々しい「日常」へ。
いつもなら、それを止めようとは思わない。むしろ積極的に手助けをしたいと考えている。早く解決すれば、その分早く、次のこんな甘やかな時間が帰ってくるのだから。
しかし、今回は何かが違う。
本能で感じている危機感の度合いが違う。
或いは、その「次」は来ないのではないか。
必死に否定しながらも、そんな恐怖が美空の心を占める。
「ねえ、どっか旅行に行こう?」
口から漏れたのは、そんな言葉。
「ほら、最近バタバタして忙しかったし。たまには、2人きりで羽を伸ばそうよ」
逃げたい。いや、そうじゃない。
しかし、ここからは離れなければならない。
あの女の手の届かないどこか――予感が正しければ、そんなところがあるとは思えないが――へ行って、力の限り辰人を守ろう。
未だ震えの止まらぬまま、美空はとにかくそのことだけを誓った。
2
目を閉じたまま、青年は周囲の気配に集中する。
空気の流れはない。そも、流れるべき空気があるのかも分からない。
どちらが上なのか。どちらが下なのか。右は。左は。前は、後ろは。いや、それ以前に自分の身体に前なんてあったっけ……?
(集中しろ)
雑念を排除する。
そのあるかなしかの錯覚に拘って真に方角を見失えば、この空間では自滅が待っていることを、青年はよく知っている。
何故なら、ここは《門》の内側。
狂気の空間。
狭間の世界。
彼らが
(どこに……いる)
この状況で襲われれば滅ぶしかないにせよ、今はろくに動けぬ神々など、この際問題ではない。
怖れるべきは、ただ1柱の神。否、一であるとともに無限であるから、怖ろしいのか。
大いなる使者。
昏き者。
闇の魔神。
無貌の者。
千の貌を持つ者。
這い寄る混沌。
奴が在る限り、
人を堕落させ破滅させるのみならず、旧支配者すら嘲笑い、時として利用する真なる異形。
アザトースの宇宙をこの世に再び取り戻さんとする、外なる神々の尖兵。
(いる筈だ)
気配は感じない。そも、異形の気配しかないこの宇宙で、異形の気配なぞ感じられる訳がない。それでも。
(判るんだ)
奴だけは特別だ。
追いついたのは最近だ。しかし、行く先々に奴の臭いがあった。人々の破滅があり、世界の腐敗があった。私はここにいるぞと、時と世界を渡る彼らをからかうように先手を打っては行方をくらましていた。
「っははははははは! 流石は、流石は大十字九郎君だ。ここにも僕がいることなんかお見通しって訳だ」
目を開くと、青年と向き合うようにして――ただし、上下は逆に――女が現れていた。
その姿は、初めて遭った時と同じく、紫のスーツと眼鏡が特徴的な美女。
だが九郎と呼ばれた青年は、その形に惑わされることはない。その女こそは、数多の神々を世界から追放し、封印し、処刑してきた彼らをしてなお、滅ぼすことの叶わない混沌の化身なのだから。
「今回は俺の負けだ。ああ、今は負けでいい。だがいつか必ず勝つ」
九郎は負け惜しみとも取れる言葉を、しかしただ静かに、予言のように言い放つ。
事実、完敗ともいえない。こうして敗れたとはいえ、再び利用されようとしていた少女を救い、別世界へと逃がすことには成功した。あの廃墟の世界もまた、《神剣》によってこの神の存在を否定した以上、少なくともあの世界には二度と干渉できまい。比喩でなく無限と言っていい並行宇宙の1つから否定されたことが大したダメージになるとも思えないが、やらないよりはマシだ。
尤も、今にして思えば、九郎達が現れた時点で、ナイアは少女を囮に使う事を決めた節がある。《神剣》の消費で力のほとんどを失った相棒達と離れ、少女を保護するため単独で降りた九郎の隙を突くが如くして、ナイアはその世界に残る彼女の最後の力で巨大な罠を発動させたのだから。即ち、無数の《門》を。
「いやいや、常に僕の予想を超えてやって来る君達は、いつだって僕に勝っているさ。何故なら、僕を滅ぼすことなど絶対に不可能だと君達は理解した上で、その刹那の勝利を永遠に紡いでゆこうと決意したのだから」
ナイアは、彼女にしては珍しいというべきか、苦笑を浮かべてそんな言葉を返す。
永遠の仇敵と呼ぶにはあまりに穏やかなその会話は、しかし深い憎悪に満ちて。
「だからね、次もどうなるかは分からない。僕の勝ちかもしれないし、君達の勝ちかもしれない。尤も、次に僕が勝っちゃったらもうその次は無いんだけどね」
九郎の目を挑戦的に見つめながらそんなことを言い、くすりと嗤う。
その意図を瞬時に理解し、九郎の静かな瞳に怒りが宿る。
「手前ェ……」
「あっははははははははは! 察しが良いなあ九郎君は。さあさあ、僕と君、
「一緒に――するなっ!」
怒声とともに異形の笑顔めがけて腕を振るう。左手の甲に固定されたバルザイの偃月刀の留め金が外れ、バネ仕掛けのように手先を向いて敵を襲う。
しかし、その時にはナイアの姿は目の前にはなく。
「せっかちだなあ。君の出番はもう少し後なんだからさ、もう少し
ただ聲だけが響く。
「そうかい」
再び、気配に集中する。
ナイアは、九郎の出番はまだ後だといった。つまり、《門》の出口まではまだあるという意味だろう。
ならば、劇場公開前にここで総監督を切り刻んでやる――!
3
「ククッ」
「え、どうしたの? 辰人」
隣の席で笑い声を漏らした恋人に、美空は少しびっくりして聞き返した。
「突然、笑い出したりして。思い出し笑い?」
「は? 俺、笑ってたか?」
しかし、彼の方にはどうも心当たりがないようだ。どうも無意識に笑っていたらしい。
「もう、気持ち悪いよ辰人ぉ」
「いや気持ち悪いってお前……」
決めつけられたのが気に入らないのか、憮然としてぶつぶつと文句を言う辰人。しかし笑っていなかったと断言する自信もないのか、声に力はない。そのさまに、今度はくすくすと美空が笑う。
反論に意味はないと悟ったのか、辰人はふん、と鼻を鳴らしながら腕を組んで再びバスの窓へと目を移してしまった。
窓の外、意外にも綺麗に舗装された道路の周り、木のまばらな林や荒野の先には、巨大な岩が見えた。
(っつか、突然旅行に行こうってのも驚いたが、なんで海外、しかもエアーズロック・ツアーなんだろな)
「いかにも不機嫌です」というポーズを取るのも馬鹿馬鹿しくなって、結局元の姿勢――窓枠に肘をついて手に顎を乗せる――に戻しながら、辰人は心の中で首を捻る。
オーストラリア大陸のほぼ中央にある、高さ350メートル、周囲10キロにも及ぶ巨大な一枚岩は、同国の重要な観光資源の1つである。
2億年以上前に創られたとされるそれは、40キロほど離れた平原にある巨岩群とともにアボリジニの聖地とされ、時間帯、つまり太陽光の角度によって変わる岩肌の色が神秘的で、今では訪れる観光客の間で頂上登山が流行っている――
(なんだかねえ?)
出発前に読んだ旅行誌の情報を思い出しながら、いまいちピンと来ない神秘性とやらに思いを馳せてみる。
「神様の腰掛けなんて異名もあるらしいけど、都子はどう思うよ?」
後ろの席に座って、いつも持っている分厚い本を読んでいる――こいつもこいつで旅行を楽しんでいるのかどうかよく分からない――少女に声をかけてみる。
「どの辺が腰なんだろうね?」
「あー、いや、そういうことじゃなくてな……」
どんな神様を想像したのか、面倒そうに目を上げて答える少女はやはりというか、とんちんかんな台詞で疲れさせてくれる。いつもといえば、いつもの光景かもしれない。
元はといえば2人きりの旅行の予定だったのだが、気がつくとこの都子という少女も混ざっていた。チケットを用意した覚えはないのだが――事実飛行機には乗っていなかったと記憶している――、ふと見たときには隣にいた。曰く「都子は《書》を必要な者がいる場所には自動的にいる」ものなんだそうだ。
八雲辰人にはある《神》が憑いている。
無貌の神とも呼ばれるそれは、本来ならば憑依された時点で人間の人格など吹き飛んでしまうほどの強大な神であるが、辰人に備わった降霊能力により、半ば
尤も、それは決して神を屈服させた事を意味するのではない。
2年前、辰人、そして美空にとっても1つの区切りとなる事件の最後。その神との再契約の際、神は言った。
あと数千年もすれば、我が何もしなくても同胞の復活は成る、と。
同胞にとってみれば瞬きするほどの時間ではあるが、あらゆる時間と世界を識る彼にしてみればそれは退屈以外の何物でもないのだ、とも。
その言葉尻を捕まえるようにして、半ば屁理屈に近い論理ながらも「ならば俺に制御を任せれば退屈はさせない」と約束した結果、騒がしくも最悪ではない、今の日常があるのだが……
しかし、都子に言わせると、それはおかしいらしい。
何故なら、八雲辰人に憑く無貌の神こそが、その同胞を解放する使命を帯びた、敵の封印から逃れた唯一自由な神なのだから。
辰人はそのことについて、己の裡に眠る神に再三訊ねたのだが、明確な回答は得られなかった。眠りを妨げられ面倒臭そうに答える――宿主の真似のつもりだろう。腹が立つことに実に似ている――神によれば、どこかにあるという敵の武器を捜して破壊するため、彼が持つ千の貌から切り離した者が動いているのだとか。
もともと、触れること自体に多大な危険を伴う神である。詳細な回答を強制することも出来ず、別世界の話なら自分が気にすることでもないか、との判断で今に至っている。
「♪〜」
隣の美空は何がそんなに嬉しいのか、鼻歌など歌っている。
様子がおかしい、ということには辰人も気付いているのだが、とんとそんな心当たりがない。
隣人の機嫌が異様に良い、というのは精神衛生上、実のところかなり悪い。
自分の知らないところで何が起こっているのか、とか、何か酷い勘違いでもしているのではないか、とも考えるが、何も分からない。挙げ句、某国のマフィアは暗殺対象にまず豪華な贈り物をするらしい、等といった嘘なんだか本当なんだかよく分からない話まで思い出す始末である。
この手の状態の人間は往々にして、何か良いことがあったはずなのに相手が気付いていない、という事実だけでへそを曲げる。ので、迂闊に理由を聞くことも出来ず、旅行に関してもよく分からないまま承諾してしまった。
(旅行はまあ良いとして……なんでこっち?)
そして、当初の疑問に戻る。
(オーストラリア行きっつったらこう、カンガルー島とかエアー半島とか、もちっと女の子が喜びそうなところってありそうなもんだが)
或いは、それが理由かもしれない。
美空は、辰人の女性との関わりを過剰に警戒し、恐れている。嫉妬深いと言えばそれまでだが、かなりの割合で――女好きであることはまあ、否定しないが――冤罪を主張したいところだ。
つまり、理由は分からないがとにかく旅行には行きたい、がしかし、その先で若い女性に出くわしては台無しだ。だから、
(が、甘い)
いくら自分にとって魅力的でなかろうが、観光名所というのはそれなりに幅広い客層を誇る故の呼び名であり、当然、その中には旅行好きの若者も含まれる。まあ確かに、チェーン伝いに登らねばならないような半ばロッククライミングじみた登山は女性向きではないだろうが、単に見に来るだけの観光ならば老若男女を問うことはない。
先ほどのやりとりがおかしかったのか、このツアーで知り合ったロレッタという中国からの観光客女性が、反対側の席からちらちらとこちらを見ていた。
なんとなく目が合ってしまい、手を振ってみる。向こうも少し驚いた顔をした後、にっこりと笑って手を振り返してきた。
「――ッ!?」
そして当然の如く、美空に足を踏まれた。
顔色を伺うように、隣の恋人に顔を向けてみる。彼女は鬼女のような目でひと睨みして、しかしそれだけで先ほどのような機嫌の良い顔に戻り、こちらの肩に寄りかかるようにして再び鼻歌を歌い始めてしまった。
(……やっぱり怖ぇ)
苦笑しながら、心の中で溜め息をつく。
尤も、こういうのもたまには悪くない。出発する前、何か悪い夢を見たと泣きついてきた美空が行ったように、このところ――2年くらい――何かと忙しかった。何とか今年合格したにせよ、あまりのトラブルの多さに勉強の時間も上手く取れず、まさか2浪するとは当初思ってもいなかったし。
だから、訳は分からないにせよ、とりあえずこの旅行の間はその辺のことを忘れて楽しむことにしよう――
4
九郎はゆっくりと《門》の出口へ流されてゆくのを感じながら、ただ敵の気配を追い続ける。
「――はっ!」
背後の気配に、振り向くより迅く偃月刀を一閃する。
確かな手応え。見れば、神父のような礼服の黒人が、胴を両断されて消えてゆくところだった。
「アウグストゥス? ――いや、ナイ神父ってことか!」
斬った敵には、確かに混沌の気配があった。ただし、弱い。今まで幾千幾万幾億と踏み潰してきた旧支配者の眷属程度の化身を斬ったとて、これから征く世界で悪夢を振り撒こうとしている邪悪は何の痛痒も感じまい。
気がつけば、周囲には無数の敵がいた。
男がいる。女がいる。人が、獣が、異形が、大が、小が、ある者は九郎をまっすぐに見据え、ある者は横目でちらちらと覗き見、ある者は遥か高みから見下ろし、ある者は奈落から見上げ、嘲笑い、憎しみ、そして親しみ、愛する表情で九郎を中心に無数に存在していた。
「そういきり立たないでくれよ。始まる前から舞台をぶち壊しにしようってのは反則だろう?」
そのどれが発しているとも知れぬからかうような聲は、責めるような言葉とは裏腹に、明らかに状況を楽しんでいる。
「野郎ぉっ!」
叫びながら、手甲に固定した偃月刀を外し、その刃を扇のように開く。
刃の表面に刻印された《火》の魔術文字に魔力を込めながら、当たるを幸いと狙いを付けることもなくそのままブーメランのように投げつけた。
投げられた偃月刀は、まず、すぐ傍へと迫っていた黒い男を両断し、その勢いを殺すことなく軌道上の化身を切り裂いてゆく。
「フォマルハウトより来たれ――クトゥグア!」
その結果を見ることなく早口で呪文を紡ぎ、後ろから不意打ちをかけようとする黒い翼の三つ眼、その中心にある額の眼に、赤と黒で装飾された自動拳銃を突きつけ、容赦なく引き金を引く。
激しい銃声が連続で響く。が、そちらにばかりも構ってはいられない。
再び、目の前に化身が迫る。柔毛に覆われた獣が、その鋭い鉤爪を突き立てんと九郎の眼を狙う。
「く――んぬぅっ!」
首を捻り、顔を逸らしてそれを躱す。そのすれ違いざまに、空いた左手で手刀を作り、魔力を走らせながら喉を突く。
「――――!」
獣は緑の眼に苦悶を浮かべながら、身体に流された魔力の爆発によって消し飛んでゆく。
「はあ――はあ――」
息が上がっていることを自覚する。
《神剣》の消費は当然ながら、彼をもまた蝕んでいる。神の否定を実行するために招喚される完全な形の《黄金の神剣》は、その世界からの対象の完全抹消――正確には追放だが――の代償として、使い手の魔力の大半を奪い、その招喚を行える唯一の鬼械神もまた崩壊させる。
本来なら、その魔力の回復と再生を行ってから《門》を開き、次なる戦場へと向かうのだが、今回は完全なる不覚というしかない。
尤も、この程度の戦力差は今までにも何度となく経験した。
九郎が宿敵との決闘を終え、神々との戦争を始めたときは絶望的という言葉すら生温いほどの状況であり、死ぬ手前どころかその一歩先に足を踏み入れたことも一度や二度ではない。
彼の伴侶たる魔導書は言う。
人に名を知られ、神話の代名詞にもされる神クトゥルーは、旧支配者を遠く幽かに伺うだけの、ただの生物に過ぎぬと。
その事実を肌で実感しながら、それでも絶望だけはすまいと戦い続け、幾百、幾千という敗北の果てに、今の地球がある。
「なろぉぉぉっ!」
戻ってきたバルザイの偃月刀を再び投擲しながら、右手の自動拳銃《クトゥグア》を連射する。
炎の魔力を持つ弾丸は空間を埋め尽くすかと思えるほどの化身を貫通しながら次々と屠り、隙間を空けるが、この数の差を埋めることはできない。
舌打ちして、弾倉に残った弾の一発を取り出し、指で触れる。
「フングルイ ムグルウナフ クトゥグア フォマルハウト ンガア・グア ナフルフタグン イア! クトゥグア!」
刻むべき魔術刻印をイメージしながら、再びクトゥグアの招喚呪文、ただし今度は全文を詠唱する。そうして作られた特殊な弾丸を再び装填しなおし、正面に向けて発射する。
「行っ……けぇぇッ!」
撃ち出されたのは、四つ足の焔の獣だった。
姿は見えないが今も何処かで繋がっている魔導書の記述に従い実体を結び、駆け抜けるようにして炎の魔力を運び、かつての神話の如く混沌の空間を焼き尽くす。旧支配者との戦いの中でようやく生身で使えるようになった、九郎の奥の手の1つである。
が。
「――っ、なに!?」
灼かれて溶けてゆく化身の中で何体か、10に1か、それとも50に1か。全身を漆黒に染めた翼ある人型、のっぺらぼうの如く顔に何もない化身が、障壁を張って炎を禦いでいる。そして――
「ぐああぁぁぁっっ」
撒き散らされた炎の魔力を、空間をねじ曲げて跳ね返してきた。
神獣弾1発分の威力をまるまる返された訳ではないから致命傷ではないが、大きなダメージには違いない。
「っはははははは! だからそう慌てないでくれと言ったじゃないか。さあ、もうすぐ皆さんお待ちかねの開演の時間だ――」
やはり何処からともなく、聲が届く。
「うる……さいっ!」
気力だけで叫びを返しながら、手に引き戻した偃月刀を先ほどの黒い化身へと振り下ろす。魔術返しに特化した化身なのか、物理的な衝撃には呆気ないほどに弱く、大した抵抗も出来ず霧散した。
しかし、数の差は一向に埋まらない。
(こんなことをしていても駄目だ)
そう、意味がない。有限の魔術師の身で無限の混沌に効率無視の総力戦を挑んでは駄目だ。
《門》の出口が近い。奴が言ったのはこのことか。
九郎は再び、目を閉じる。
気配だけでは化身の攻撃を躱しきれず、身体には無数の小さな傷が出来てゆく。しかし、そんなものに構っていては駄目なのだ。
もっと静かに――もっと鋭く――もっと深く――
呪文のように自らに言い聞かせながら、気配を探ってゆく。
全て混沌の化身。しかし、その力にはそれぞれバラつきがある。意味と用途に特化した役割を演ずるだけの力しか与えられないため、全ての化身が等価ではない。ならば、その中にもっとも本体に近いもの、もっとも大きな干渉を行うべくして創られた化身が、何処かにいる筈なのだ。
(――――いた)
化身の群れなど紙屑に思えるほどの強大な魔力。九郎が今感じられる限り最も本命に近い、最強の混沌の気配が《門》のすぐ外にいる――!
「ナイアルラトホテップ――!」
雄叫びをあげながら、九郎はすぐ近くまでやって来ていた《門》の出口へ飛び込んだ。
5
「《門》が開くよ、辰人」
バスから降りた直後に都子の声が後ろからかかったとき、辰人は心底ぎょっとした。
「なんだって!?」
怒鳴りつけるように聞き返すが、都子には動揺の気配すらない。それはそれで面白くないが、言われた内容はそれどころではない。
「そういう兆候があるなら早く言えよ!」
「言ったでしょ。都子は《書》を必要とする力ある者のところに来るの。都子がついてきたってことは辰人にサポートが必要ということ」
何を当たり前のことを、という顔でいつかも聞いた解説を繰り返す。
「それにね、勘違いしているかもしれないけど、辰人の運気は生きている限り辰人自身について回るの。起こる事件そのものは辰人に関係ない必然でも、辰人がそういう運命を背負っている限り、全ての行動がそこへと繋がっていくの」
いつも表情の分かり難い瞳に、哀れむような、心配するような光を浮かべてそう続ける。
「――チッ。どこだ。どこで開く」
そんな目を見せられてはこれ以上文句を言う訳にも行かず、話を続けることにする。旅行中に騒がしい日常を思い出すのは不本意だが、しかし放置も出来ないだろう。無貌の神は《門》を嫌っているし、人間から見てもろくな事にならない。さっさと片付けて旅行の続きを楽しむに限る。
「ん、あっち」
都子の指さした先は、エアーズロックの頂上。
しかし、確か頂上は登山が流行っているとパンフレットにあった。力を解放して《門》を破壊するだけなら問題はあるまいが、そのうちの誰かと結びついて事件を起こした場合、他の人間をフォローできるか分からない。
「観光客はどうすりゃいい」
「……いないみたい。ここ何時間かだけど、嫌な結界が張られてる」
言われてみれば、同じバスに乗っていた観光客もバスガイドさえも、エアーズロックに近付くことに躊躇しているように見える。何故、近付きたくないのか自分でも理由が分からないようで、しきりに首を捻っている者もいる。
「事件は発生済みってか。ま、巻き込む奴がいないのは助かるけどな」
答えながら、少しずつ、己の裡に眠る《神》の力を引き出してゆく。人目があるから変異はしないが、ロッククライミングは面倒だ。近付いてからは飛行すべきだろう。
「美空!」
やはり《門》の出現に気付いたのか、少し離れたところで顔を青くしている美空に声をかける。
「ちょっと野暮用だ。すぐに戻るからさ」
「え、待って、辰人――」
何故か酷く慌てた様子で引き留めてくるが、「あとで聞く」と言葉を残して走り出した。
美空の言葉を聞かず、辰人は走り出してしまった。
「待って、行っちゃ駄目――!」
続けての叫び声も、聞こえたかどうか。力を解放しながら走っているらしく、見る間に辰人の姿が小さくなってゆく。
「待って、待って――」
慌てて美空も走り出す。しかし、あまりにも出遅れた。
彼は2年前の事件以来、裡に眠る《神》が多少協力的になったと言っていた。もともと鬼や海神の落とし子すら苦もなく屠るその力を、より引き出せるようになった辰人の身体能力は既に人を超越するどころの話ではない。
「フゥ――」
このままでは追いつけないと判断し、彼女もまた身の裡に宿る力を解放する。かつて地球を支配していた忌まわしき海神を海底へと封じたという伝説のある《山の神》の力。魔と戦うための力と身体能力、そして《邪気祓う剣》を。
左手にずしりと重みが加わる。かつては重いだけだった、しかし今はともに背負う人がいるという、幸福の重さ。
通常、片手に物を持てばその重量からバランスとフォームを崩し、走る速度は落ちるのだが、同時に飛躍的に向上した身体能力はそれを問題としない。まるでその手は空であるかのように走り続け、その速度は5倍を上回る。
だが、それでも追いつけない。
辰人を行かせてはならないのに。行かせれば、間違いなく起こってはならないことが起こるのに。
「辰人……辰人ぉ……」
想像するだけで涙で視界が滲む。
もっと速く――障害物など片端から斬り捨てて、愛する者の許へ我が身を導け――!
辰人のように肉体を変異させた結果の能力ではなく、神力による補強を行っただけの筋肉がみしみしと嫌な音を立てて、止まれ、これ以上は無理だ、速度を落とせと訴える。
が、無視する。今間に合わないなら、次にこの足を使うことなど無いのだから。
ようやくというべきか、エアーズロックの麓へと到着する。見る人間が見れば幻覚としか思わないだろう速度だったが、美空にしてみればそれこそ夢の中を走るようなもどかしさだ。
登山用のチェーンなど捜していては間に合わない。走る勢いを殺すことなく、崖とも言えるほどの岩肌を直接走り出す。つま先を抉りこむようにして蹴って上昇し、崩れたバランスを刀を岩肌に突き刺すことで調整する。
「辰人……」
酷使する身体に朦朧とする意識の中、うわごとのように恋人の名を呟く。
速く――速く――速く――!
そうして美空は、まるで空を飛ぶようにして350メートルの岩を登り切り、頂上へと辿り着いた。
そこでは、強大な魔力を放つ何者かが、美空の最愛の男を殺そうとしている。
「辰人ぉ――――!!」
美空は悲鳴をあげる身体に鞭を打つように叫びながら駆け寄って、彼女の持つ神殺しの刃、《邪気祓う剣》をその敵へと突き刺した。
「ナイアルラトホテップ――!」
雄叫びと共に現界へと実体化した九郎は、《門》のすぐ外にいる最大の力を持つ混沌の化身へとバルザイの偃月刀を振り下ろした。
化身は、東洋人の青年の姿をしていた。日本人かもしれない。
突然、出現した九郎に驚いたのか、慌てて飛び退く青年。だが、あまり足場が良いとはいえないところでの戦闘に慣れない化身なのか、バランスを崩して致命的な隙を見せていた。
「その首、貰った――!」
容赦なく、追撃をかける。奴もまた黒く硬質化した手を突き出して反撃しようとしているが、遅い。そして偃月刀は狙いを外すことなく、その無防備な首へと――
「――な、人間?」
目を見開いて驚愕する。
そいつは、確かに混沌だった。九郎の追う神だった。
しかし、邪悪ではなかった。
信じられないことに、無貌の神の力をその身に宿しながら、それに呑まれることなく、当たり前の人間を意識を残して存在していた。
「――――ッ!」
ぎりぎりのところで刃を止める。相手もこちらの何かに気付いたのか、必殺の腕を止める。
「おい――」
それは、どちらの声だったのか。しかし、それに気付く暇も続きを紡ぐ暇もなく、
「辰人ぉ――――!!」
一瞬の気の緩み、その致命的な隙を突かれた。
「ガ――――ハッ」
《門》から現れた青年の胸から、刃が生えている。鋭い日本刀のそれは、身体ごと背中にぶつかってきた美空の体重に押され、根本まで突き刺さっている。
人間として、間違いなく致命傷である。
ましてや、美空の刀はただの武器ではない。完全ではないにせよ、神を世界から否定することを目的として創られた《神剣》の一種である。
「ア――――る」
それは誰に対して、何を言うべくして発せられた声なのか。
何かを掴もうとするかのように伸ばされた手は、しかし再び握り締められることはなく、
だらりと力無く下ろされ、ずるりと刀を滑り落ちるように前のめりに倒れていった。
そして、
「――なんだ!?」
周囲に光が溢れ出した。
エアーズロック頂上に発生した光の柱は、周囲に張られた結界によって外に漏れることはなく、結果として白いドームを作り出した。
それを見ながら笑い続ける女がいる。
「あははははははは! あっはははははははははははははは!」
目に涙すら浮かべて、これは傑作だと腹を抱えて笑い続ける。
「こんなに上手くいくとは思わなかった。君ならそうなんじゃないかとは思ったけど、やっぱり刃を止めてしまうんだね、九郎君は」
その貌には、いつにも増して嘲笑と憎悪と愛情の色が深い。全てを識り、何もかもが退屈だと言った混沌、その化身の1人は、こんな面白いことがあるかと感情を爆発させている。
「九郎君、君は《門》のルールを識っているかな?」
笑い声を止めて、しかし亀裂のように広がった笑みはそのままに、誰に語るともなく話し始める。
「《門》から現れた魂は、その存在する力を失った場合、その《門》へと帰還する。かの地でその性質を利用して行われる《聖杯戦争》のようにね」
眩しげに北を向く。沈みゆく太陽ではなく、まっすぐ北にある島国へ向けて。
「では、現れることは許容するが、そこから外の世界へと出ることは許さない「閉じられた門」があったら、どうなると思う?」
再び、白いドームへと目を移す。
それはその結界に充満する魂の色なのか、どこまでも白く、美しい。
「そう、それが君の今の状態だ。かつて《旧支配者》のほとんどが世界間移動能力を失って動物へと成り下がったように、君もまた今や、結界に封じられた只の魔力に過ぎない」
ナイアは大きく手を広げ、世界中の人間達に届けとばかりに物語の開幕を宣言する。
「さあ、もうすぐ日は落ちる。役者達の第1日目はこうして終わる。或る者は辛くも邪悪を撃退し、或る者は守るべき者を奪われ、或る者はたった今戦場へと旅立った。救いの神は立つのもやっと、或いは奪われ悪の手に。そして或いは地の底に」
酷く哀しそうな調子で、少しずつ声を落としながら、ここにはいない観客を煽るように訥々と語る。
しかし、そこから一転して力強い言葉を紡ぐ。
「だが哀しむことはない。それは皆、何も分からず巻き込まれたからだ。これからは理解し、模索し、踏破する反撃の時。何故なら、皆全て、選ばれた主人公達なのだから」
亀裂のような笑みをますます深くして、3つ眼の異形の演説は力を増してゆく。
「これから、これからだ。役者が揃ったこれからこそが始まりだ。神々と人間が紡ぐ第2の宇宙狂騒曲がこれからようやく始まるんだ。その物語が神話になるか、御伽噺になるか。まだ誰にも解らない。だから始めよう、創めよう、あのフルートの音に合わせて踊るように、夢見るように、何か起こるか解らない物語をはじめよう!」
太陽が沈む。世界は、邪悪に侵される断末魔のように赤い。
白いドームは、その光を浴びてなお、ただ白く輝いていた。