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2004/05/08

Recurring Nightmare 第9話「Spellbook」

   1


 たすけて、たすけてと呼ぶ声は、一体誰があげているものか。
 災厄に見舞われた、昨日まで住宅地だった筈の焼け野原で、当たり前の生活を送っていた住人達か。

 ――それが始まり。

 悪夢に見舞われた、数時間前まで平和だった筈の学校で、当たり前の日常を謳歌していた学生達か。

 ――そうして、10年間、胸の裡で燻っていた火は身を焼きはじめ。

 それとも、暴虐に見舞われた、数分前まで絢爛だった筈の古城で、当たり前だと思っていた家族を奪われた少女か。

 ――それは同時に、己の歩みを進める原動力にもなった。

 だが、窓から緑の巨人を目撃した瞬間、そんな小さな火は当たり前のように吹き消され、起こった同じ悲劇に為す術もなかった。
 それでも、たすけてという声は消えない。
 遠くには、確かにあるかなしかの救いを求めて伸ばす、か細い手が見える。ならば、自分はそれを救わなければならない。
 ならない、筈だ。
 しかし、よく見ると足がない。緑の巨人に切り落とされてしまったらしい。
 仕方がないので、近くにあった鉄の塊を足にすることにした。
 救いを求める手を目指し、がしゃん、がしゃんとひた走る。

 ――が、やはりその火は弱く、速度を上げるどころかまっとうに進むことすらままならない。

 そこは病院だった。
 がしゃん、がしゃんと重い音をたてる自分の足が遅いばかりに、名前も知らない人々は、嘲るようにニヤニヤと笑う糞餓鬼によってバラバラに分解されてしまった。
 とりあえず、まだバラバラにならずに残っていた糞餓鬼を踏み潰すことにした。
 けれど、踏んづけはしたが簡単に潰れてはくれなかった。
 そいつが足の裏に貼り付いたせいで、左右のバランスが余計に悪くなった。

 ――そしてまた足枷が増えた。

 そこは山あいの小さな町だった。
 頭の悪そうな筋肉ダルマが暴れているが、がしゃん、が、がしゃんと進む足はとてもバランスが悪く、ちょっとよろめいた時に殴られて転んでしまい、家を数件押し潰した。
 おいしいね、なんて家族が語らう団らんの食卓には、突然降ってきた重い鉄塊によって、なんだか良く分からないピンク色のメニューが追加されてしまった。
 そのさまを見て、さっき踏んづけてやった糞餓鬼が足の裏でケタケタと笑っていたので、どがしゃん、どがしゃんと足踏みしてやったら、今度こそ潰れてくれた。すっきり。
 しかし、糞餓鬼にかまけていたせいで筋肉ダルマは逃がしてしまった。次は殺そう。

 ――見えない足枷は貼り付いたように離れず、ずるずると地を引きずってしまう。

 気にせず、伸ばされた手に向かってがしゃん、が、がしゃん、ずるずると走る。
 ああ、正義の味方の足音はうるさい。
 うるさいから、みんなはこんな近所迷惑な奴に助けてもらおうなんて思わずに死んでいくのか。
 けれど、それも仕方のないことだ。
 いつも聞いている自分だってこの音がうるさくて仕方ないのだから、突然聞かされた方にとっては騒音公害みたいなもので、嫌われるのは仕方がない。
 それでもいい。何故なら、駆け抜けるその果てには、正義の味方を待ってたすけて、たすけてと伸ばされている小さな手があるのだから。
 だから今は、がしゃん、が、がしゃん、ずるずると走る。

 ――見えない癖に足枷は、どうしてたすけてくれなかったの、なんて耳障りな音をたてている。

 がしゃん、が、がしゃん、ずるずる、どうしてたすけてくれなかったのと走って、やっとのことで手に追いついた。
 もう大丈夫だよ、と言ってあげたいが、あいにく口は開くようにできていないので、冷たい金属の手で、その小さな手を握る。
 温もりが伝わらないもどかしさを押し殺して、正義の味方がやってきたからもう苦しまなくても良いんだよ、と伝わるように祈って、本当に精一杯に手を握る。

 空に向けて手を伸ばしていた少年は、内側から突き破って出てきた無数の剣に全身を貫かれ、とっくの昔に死んでいた。



 コクピットの扉を押し開けると、入ってきた風の冷たさに背筋がぞくりとした。
「あ、起きたのね。よく眠れた?」
 外に出ると、下から神足えりが声をかけてくる。
「ん、ああ」
 士郎はそれに生返事をしながら、膝をつき、身をかがめたデモンベインから滑り落ちないように注意して腕を伝い降りる。
(ここは……森? 山の中、か?)
 鬱蒼と茂る、というほど密集してはいないが、どちらを見ても緑しかない。都会の喧噪はその気配すらなく、静寂の中に、ただ流れる風に木々が揺れる音だけが響く。
 しかし、日が高いから既に昼過ぎだとは思えるが、空気は肌に剣山でも押しつけられているようだ。注意して見れば、吐く息も白い。
「神足、ここは?」
 地面に降り立ち、疑問をそのまま口に出す。
 ヴァルナにデモンベインを運んでもらいながら、移動中にコクピットで眠りこんでしまっていたらしい、ということは理解できるのだが。
 えりは人差し指を顎にあてて少しだけ考え込むポーズをとり、
「正確な場所は分からないけど、長野か、岐阜あたりだと思うわ」
 と答えてきた。
「ああ、そりゃ3月でも寒い訳だ……って神足、それはほとんど進んでないってことじゃないか? てっきり俺はもう国外に出たのかと」
 納得しかけるが、遅れてその意味を理解し、ぎょっとする。
 やはり疲労が激しかったせいだろう。それとも夢見の悪さのせいか。頭がまだ本調子でないようだ。
(……夢?)
 ふと、何かが引っかかる。
 はて、自分は夢なんか見ただろうか?

 ――がしゃん、と。

「――!」
 背筋を走った悪寒を、慌ててぶるぶると身を震わせて追い出す。
「ごめんなさい。デモンベインも重かったし、私もヴァルナもほとんど力が残ってなかったから……どうしたの?」
 そのさまを訝しんで、えりが説明を途中で切って歩いてくる。と、目を丸くして声をあげた。
「凄い汗じゃない! 風邪ひいちゃうわよ」
 そのまま慌てて駆けていき、地面に置かれたスポーツバッグを漁りはじめた。
「え……」
 言われて額に手をやってみると、確かにぬるりとした冷たい感触がある。
 ああ、悪寒はこのせいか、と思わず笑いを漏らす。何故、身体がこんなにも震えているのかと不思議に思っていたところではあったのだ。
 えりはスポーツバッグから大きめのタオルを取り出してきて渡してくれた。
「あ、悪い」
 気にしないで、とは言いつつも、眉間に皺が寄っている。
(驚かれたり叱られたり、心配されたりばっかりだな、ほんとに)
 何年も変わっていない事実に1人恥じ入る。神足えりとは協力関係なのだから、自分も何か役に立たなければならないのだが。
 汗を拭きながら、話を続ける。
「で、ここに落ち着いたのか」
「ええ。デモンベインを置けて、見つかっても人を巻き込まない場所って日本は少ないから」
 尤もな話だ。
 人口密度の高い日本では確かに人目に全く付かない場所といえば、海の底か山奥くらいしかない。ただでさえ穴だらけの精密機械を海中に入れるのは流石にぞっとしないから、消去法で山という訳だ。
 それも、万が一戦闘が始まっても人的被害を出さないという条件で絞り込んでだ。山林とはいえ、背の高い木がそれほど多くない以上、50メートルもの鋼鉄の巨人は、どれほど身体を曲げてもかなりの部分が露出してしまうだろう。
「今は、ヴァルナに定期的に飛んでもらってるの。見つかりそうな時は一緒に消えてもらうから」
 上を見上げている士郎の言いたいことが分かったのだろう。えりは説明を補足する。

(姿隠しの魔術……か)
 周囲の光を屈折させて周囲からの視覚的な認識を妨げるそれは、それなりに高等な魔術に属する。
 光を屈折させる、という事象そのものよりも、狂いなく向こう側を透けさせる技術の正確さが重要になるからだ。魔術研究機関の最高峰、時計塔の学徒になった士郎も見る機会はそう多くない。
 それを難なくこなすというネクロノーム。もともと魔術師としての適性が高いとはいえない士郎と比べずとも、その能力の高さが伺えた。

「そっか、凄いんだな。前の戦いの時も思ったけど」
 そっちは何ができる、と聞いて、水を使うほとんど、と答えが返ってきた時は驚いた。膨大な魔力で力任せに黒雲と霧を使い、結界じみた闇の牢獄を作り上げてみせた時は感動を通り越して呆れたほどだ。
 そのおかげで勝てたのだから、まさにネクロノーム様々というしかない。士郎1人がサポート抜きでアンチクロスの鬼械神と向き合った場合、相手がたとえ1機であっても間違いなく負けていただろう。
 しかも、飛行能力を持つヴァルナには、必ず勝利するという必要すらなかった。あの場で決着を急いだのは、ひとえにデモンベインがあったからだ。

(……参った。ほとんど命の恩人も同然じゃないか)
 思わず、拳骨で自分の頭を叩く。協力関係と言いながら、完全に自分が負担になっているではないか。
 思えば病院でも、異変にいち早く気付いたえりが駆け出したから、あの対応ができた。下手をすれば、もっと多くの犠牲者を出すか、自分もあの中にいたかもしれないのだ。

 ――バラバラにされて。

「え?」
 そこまで考えたところで、脳裏を何かが走った。
(……あの、中、に)
「あ……」
 くらり、と頭が揺れるのを辛うじて抑える。
「どうしたの、大丈夫?」
 心配げなえりの声も、よく聞こえない。

 ――とりあえず。
 その中で自分は、何を思った……?

「すまん、すぐ戻る。タオル、サンキュ」
 放り投げるようにしてタオルを返し、辛うじて意味が伝わる単語の羅列を残して走り出すのがやっとだった。



 しばらく走ったのち、えりがついてきていないことを確認した瞬間、耐えきれずに木に手をついて寄りかかり、吐いた。
「おえぇぇっ。げほっ、ごほっ」
 半日以上眠っていただけあって胃の中には何もないが、それでも裡に抱えた不快感を吐き出そうと身体はえずく。
 もうよせ、無理をしたって絶対に出てきてはくれないんだと言っても、そんなことはおかまいなしに逆流した胃酸が喉を焼く。
 ただの夢だということは理解している。
 病院の現場はもうどうしようもない状態だったし、さらなる事態の悪化を防ぐためにはあのアンチクロス達も排除するしかなかった。交渉の余地など無いことは見ただけで分かったし、しかもあの襲撃が自分らのせいなら、なおのこと避けて通れる道ではない。
 家を押し潰したのだって、寝静まった夜中ならともかく、あれは昼間のことで、しかも病院の騒ぎが起こったりデモンベインが降ってきたりで既に付近の住人は避難していた筈だ。
(それとも、そんなこと)
 ただの言い訳でしかないということなのか。
 自分の手で無関係な人間の人命は奪っておらずとも、物的被害は計り知れず、敵とはいえ生きた人間の命を奪うことは自身にも傷を付ける。何より、衛宮士郎はあの場の人間のほとんどを救えていない。
 一体、何をハイになっていた?
 敵をブッ潰す? 一番弱い衛宮士郎がか。
 デモンベインは魔を断つ剣? 自分の物でもない癖に。
 悲劇を未然に防いだことなんか一度もない癖に、何を当たり前のように勝利宣言していやがった?

 ――どうしてたすけてくれなかったの。

「黙れ!」
 声ではなく、そんな幻聴を聞かせる自分自身を怒鳴りつける。
 死者に無茶な恨み言を言わせることで、己の無力を仕方のないことだとでも弁護するつもりか。
 そんなことで失敗は贖えないし、自分自身だって騙せない。何より、これほど犠牲となった人々を穢す行為もない。
 たとえ衛宮士郎の責任が軽くとも、救いたかったという思いは消えないのだから。

 胃の蠕動はようやく止まり、息は楽になったが、代わりにズキズキと頭を締め付けるような痛みが生まれてきた。それとも、気分が悪かったせいで気付かなかっただけで、ずっと前から痛んでいたのだろうか。
(……けど、なんで、俺は)
 ここまで追い詰められているというのか。
 救えなかった。そのことに後悔はある。
 しかし、眠る前まではまだ大丈夫だった。耐えていける自信もあった。
 ある意味で死は衛宮士郎に馴染みの深いものだ。死体への嫌悪で嘔吐するようなこと、今まで一度もなかったというのに。

 ――無限の剣に貫かれ。

「――!」
 すんでのところで、再び喉へせり上がってきた熱い物を呑み下す。
 本当は分かっている。犠牲も失敗も哀しいことだが、それだけではない。
 紙屑のように当たり前の死を迎えている衛宮士郎を使って、デモンベインまでも穢してしまった。無垢なる刃に、自らの願望や後悔を投影しようなんて、ひどく愚かなことを。
 そして夢の中で、怨嗟の声や後悔を引き摺って走りながら、自分でないものになりつつある自分に、僅かな違和感すらも持とうとしていなかったことが、何よりも恐ろしい。
「オヤ……ジ……は」
 正義の味方になりたかったと、そして同時に正義の味方なんてただの掃除屋だとも語った、しかし士郎にとってはまさに理想の正義の味方だった父、衛宮切嗣も、こんな夢を見たのだろうか。
 今回の犠牲は仕方ないものだと自分に言い訳して、けれど「それ以上」にはならなかったからやらないよりはマシだとほんの少しだけ誇り、そんなことを繰り返すうちにやっぱり自分は犠牲を踏み越えることに何も感じない人間なのではないかと疑って、こうして嘔吐したことが。

 がく、と足から力が抜ける。
 撒き散らされた吐瀉物の上に崩れ落ちるのは辛うじて避け、後ろに倒れて仰向けに寝た。
 と、同時にどさり、と何かが落ちる音がした。
「なんだ?」
 見ると、横にあったのは一冊の本。
「――!」
 思わず、息を呑む。
 そこにあるのは、衛宮士郎と契約した魔導書《ネクロノミコン新釈》。
「俺がコクピットから、ここまで」
 持ってきていたというのか。
 改めて右手の感触を確かめれば、指の筋肉が強ばっており、また魔導書の表紙にもそれらしき跡があった。かなりの力を篭めて掴んでいたらしい。
 気付かなかった。
 目覚めてコクピットハッチを開く時も、えりと話している時も、木に寄りかかって吐いている時も。
 ただ無意識に、手の一部であるかのように。

「――は。つまりは、これが」
 魔導書にと、いうことか。
 無意識に目を逸らしたいと思っていることを突きつけ、主である魔術師を喰い、己が魂にでもしようというのか。
 原本が強力であるとはいえ入門書ガイドブックも同然の不完全な魔導書でこの有様。自分の魔術適性の無さにはほとほと呆れるばかりだ。
「――次は、もっと上手くやる」
 決意を口にしながら、士郎は立ち上がる。
 あれ以上の行動はなかったなんて言い訳はしない。そんな自分自身すら騙せない妄想では、付け入る隙を生むだけだ。
 契約の破棄もしてやらない。これからの戦いを生き抜くには、この魔導書がどうしても必要になるからだ。
 次はもっと上手に、もっと理想に近い方法と手順で、もっとたくさんの人を救ってみせる。心を壊して喰われてなんかやらない。
「次は、もっと上手くやる」
 呪詛じみたその言葉を、もう一度呟く。
 締め付けるような頭痛は、多少和らいでくれた。身体の震えは既に止まっている。
 士郎は、ぱん、と両手で頬を叩いて気合を入れ直し、本を拾ってから、えりとデモンベインの待つ場所へと帰ることにした。


   2


 広間に、カツカツという靴音だけが響く。
 アウグストゥスはその不機嫌さを隠すこともなく、息を荒げ、歯を軋らせながら同じ場所を行ったり来たりしていた。
 端に控えているコスモ・マトリックス信者達はその怒りの矛先が己に向くことを恐れてか、息を潜めて物音1つ立てることはなく、その静寂が余計に靴音の主の怒りを際立たせていた。
 彼らの判断は、ある意味では間違っていないだろう。
 アウグストゥスはカリグラやクラウディウスほど短気な男ではないが、普段、神父然とした格好や態度から伺わせている余裕には、半分以上虚勢が含まれる。
 わざわざ捌け口を求めて暴走するタイプではないにせよ、真理ではなく我欲を追求するアンチクロスに、顔も覚えるつもりのない手駒に対して敢えて自制するという発想もまた、ない。
 決まってこういう時はウェスパシアヌスが宥め役になるのだが、その彼を含むその他のアンチクロスも今は城外である。デモンベインが未だ手元に無いとはいえ、計画が本格的に動き出した現状、やらねばならないことはいくらでもある。
 尤も、手駒は手駒であるから、多ければ多いに越したことはない。実際のところそれをストレスの解消などというくだらない目的で数を減らそうと考えるほど、我を失っている訳でもないのだが。

 そうした何とも言えない緊張感が空気を凍らせている中、ギィ、という重い音とともに正面の扉が開き、1人の老人が現れた。
「荒れておるようじゃの」
 老魔術師、間桐臓硯は、城へ入った瞬間に一瞬だけ眉をひそめ、その場の空気を理解したようであったが、しかしさほど気にした風もなく、飄々とした態度で声をかける。
(貴様には都合が良いのかもしれんがな)
 反射的にそう答えそうになるが、アウグストゥスも魔術師を相手に無様な八つ当たりをするほど愚かではない。
 ふん、と鼻を鳴らしたのち、感情を抑えて言葉を返す。
「出撃した2人のうち、1人が倒され、もう1人も行方不明。これで何も感じない方がどうかしている」
 だが、それに対しても臓硯は呵々と笑いながら、仲間思いで結構じゃの、と言い捨てて、壁際に控えているコスモ・マトリックスの信者となにやら話し始める。
(……む?)
 普段ならば睨みつけているところではあるが、今回は違和感が先に立った。
 確かに臓硯にはどこか人を食ったような態度で他人を煙に巻くところがあり、必要最低限の情報しか与えず使われてきたアンチクロスとしては内心穏やかならぬものがある。
 しかし、こうも露骨に嫌味を言うタイプではないと感じていたのだが。
 そも、臓硯が権力構造という点においてアンチクロスに力を偏らせたくないのは確かだが、よくよく考えずとも、現時点ではまだ重要な戦力だった筈だ。いずれ排除しなければならないネロという強敵もいる。
 にも関わらず、何故、こうも機嫌が良いのか。

 そんなアウグストゥスの疑念に気付いているのかいないのか、数名の信者に指示を与えて退出させた臓硯が再び戻ってきた。
「カリグラ殿の行方は追わせておるよ。ついでと言ってはなんじゃが、衛宮の小倅はワシに任せては貰えんかの」
 やはりだ。以前ならばアウグストゥスに権力を掌握されることを恐れ、城を離れることなどほとんどなかったというのに、今になって自分から動くというこの自信は一体なんなのか。
「例のテロリスト指定のことか? 数年前、もっと酷い厳戒態勢の中でネクロノーム達がまんまと逃げ延びて行方をくらましたことを知らないとでも?」
 そんな嫌味にも、臓硯は余裕を崩さない。
「アレは彼奴のための策ではないからの。衛宮切嗣の息子がその程度で折れることもあるまいよ」
 そして、その言動はますます意味が不明なものになりつつある。
 衛宮士郎をテロリストとして扱うことが、衛宮士郎を陥れる策でなくてなんだというのか。それに……
「衛宮……切嗣だと?」
 流石に、その名は聞き捨てならないものがある。
 その名はまっとうな魔術師として知られてはいない。魔術師全体で言えば、知名度はむしろ低い方だろう。
 だが、彼らのような者、つまり邪神と関わる者や己の目的の為に他者を巻き込む、いわゆる一般的な意味での悪とされる魔術師達の間では決して忘れてはならない名でもあった。

 衛宮切嗣。
 その名を畏怖と恐怖と共に知る者は、その男の一切を信用してはならないと語る。
 住居、行動範囲、自身の持つ能力など、たとえ仇に知られることがあっても衛宮切嗣にだけは知られてはならない。恋人や家族の存在など論外である。
 冷徹かつ冷酷な男であり、敵の弱点を突くということに一切の躊躇が無く、またそのための状況作りが非常に巧みで、大変な戦上手であったらしい。
 味方と思わせて騙し討ちにする、敵の家族を人質にする、住処ごと吹き飛ばす……
 そんな悪魔のような男が狙うのは、同じく、そして似て非なる悪魔のような魔術師。手段を選ばず、犠牲に頓着しない点を同じくしながら、それでいて犠牲を減らす為に戦う矛盾に満ちた男。
 十数年前に消息を絶つまでは、一部の魔術師や邪教徒にとっては恐怖の代名詞だった、対魔術師戦を得意し、自身も強力な魔術師。

 顔色を変えたアウグストゥスが面白いのか、臓硯の笑みはさらに大きくなる。
「知っておったか。いや、《神》を持ち去った魔術師としてその息子の名を聞いた時にはワシも驚いた。運命の悪戯とでも呼ぶべきかの」
「何を悠長な。魔術師狩りも同然の男が鬼械神を手に入れ、しかもネクロノームと組んだということが――」
「まあ待たれよ。じゃからワシがどうにかすると言うておる。それに切嗣は既にこの世にはおらぬし、息子の方はもっと甘い。あそこまで非情にはなれんよ」
 言葉を遮られ、アウグストゥスは思わず唸る。
 少し前までは対等、いやアウグストゥスに威圧されまいと必死な姿すら見せていた臓硯が、今では完全に会話の主導権を握っている。
「異論がないならやらせてもらうが、よいか?」
「……やけに積極的に動くのだな」
 是非を問いながらも、その答えを聞くことなく退出しようとする臓硯の背中に疑問を投げかけてみる。
 返事はないかとも思われたが、臓硯は振り返ることなく肩を震わせて呵々と笑い、簡単な言葉を返してきた。
「なに、ワシはカリグラ殿やクラウディウス殿には恩があるでな。せめて何かしてやらねばバチが当たるというものよ」
 そのまま広間の扉をくぐり、外へと消えてゆく。

「は。成程」
 それで、合点がいった。あれは要するに――
「浮かれて、はしゃいでいるのか」
 つまりは、そういうことなのだった。

   3


 片膝をつき、身をかがめて眠る鋼鉄の巨人。
 士郎はその巨人の立てた右足の上に胡座をかいて座り、右手に本を開き、左手は眼前のひび割れた巨大な盾にあてたまま目を閉じていた。
「――同調、開始」
 その唇が微かに動き、誰に聞こえるともない声が漏れる。
「創造理念、鑑定」
 その姿、その声は神像に祈りを捧げる神官か、はたまた麻酔で眠る患者に向き合う医師か。
 身じろぎ1つせず囁き続ける士郎は、己と巨人、否、己以外には何者も存在しないかのように言葉を続ける。
「基本骨子、解明」
 風も吹かないそこで、士郎の右手に収められた本がパラパラと独りでにめくれてゆく。
「構成材質、複製」
 ところどころが赤く染まった本を士郎は特に抑えることもなく、ただ巨大な鋼鉄の盾にあてた左手に力を篭める。
 めくれるページによって起きた風が前髪を揺らすが、これにも頓着しない。
「製作技術、模倣」
 それらの言葉にどれほどの意味があったのか。
 端から聞けば全て「トレース・オン」となる声も、4度、5度と続けるに従ってだんだんと熱が篭もり、目に見えて全身を強ばらせ、汗をだらだらと流し始める。
 それでも、士郎は息を乱すことはない。或いは、己が緊張しているという事実にすら気付いていないのかもしれない。
 全身を流れる滝のような汗を拭うこともなく、ただ己の為すべき事に専心する。
「破損部位、想定――っ、く、仮定終了オールカット……!」
 しかし、それでも目指す目的には届かない。
 声に僅かな苛立ちを滲ませながら、集中の時間を無理矢理に終了させる。すると同時に、それまでめくれ続けた本も止まり、ばたんと背表紙を見せながら足下に落ちた。
 が、士郎はそれに構う余裕もなく、上に覆い被さるように俯せに倒れ、荒い息を吐く。
「……駄目、か」
 分かり切ったことでは、あるのだが。



「お疲れ様。大丈夫?」
 ややあってからデモンベインの足から降りた士郎に、えりからの労いの言葉がかかった。
 すぐ下でずっと見ていたのか、厚めのジャンバーを着ていても少し震えているのが分かる。
「ん……ああ、俺はね。神足こそ、寒いだろ? ヴァルナのコクピットで休んでろよ」
 自身の疲労が未だ抜けきっていないにも関わらず心配してくれるえりに、突っぱねるような返事を返している。そのことに軽い自己嫌悪を覚えながらも、渋い表情が出てしまうのを止められない。
 疲労はまだ残っていたが、まさか眠る気にもなれず、1時間おきに魔術を行使しているのだが、士郎はその成功率が気に入らないのだ。
 「強化」と「投影」の応用で修理を試みるのは今ので5回を数えるが、デモンベインの構造、特に破損部分はやはり想像もできない。根幹をなすパーツに関しては勿論のこと、唯一、士郎の守備範囲に引っかかっている筈の脚部シールドも同様だ。
 衛宮士郎の魔術は、近代兵器には手も足も出ない。
「良いのよ、気にしないで。はい、タオルとお水。どう、なんとかなりそう?」
「あ、悪い。また手間かけた」
 礼を言いながら受け取り、タオルで首筋や額の汗を拭く。
 本当は着替えたいのだが、荷物は旅客機の墜落で失い、財布すら持っていないのだ。
 現在の士郎の所有物といえば、病院から脱出する際に着ていた、ところどころ血で染まったトレーナーにズボン、そして飛行機の中でもポケットの奥に突っ込んでいたためになくさずに済んだ赤い宝石のペンダントくらいだ。贅沢は言えない。
「……いや、やっぱり駄目だ。せめてこの盾だけでもと思ったんだけどな」
 どうしたものかと考え込んでしまいたいところではあるのだが、こちらの気晴らしの為に話しかけてくれているのが分かるので、話を続けることにする。
 実際、何をやっても無駄だろうということは既に理解している。それでも続けているのはほとんど意地のようなものだったから、ありがたいといえばありがたいのだが。
「そのうち、頭が茹だっちゃうわよ」
 そんな冗談にも、苦笑を返すしかない。
 分かったことといえば、デモンベインが皇餓やロードビヤーキーと違い、純粋な魔術情報体ではなく、特殊な合金で作られた科学と錬金術の産物てあるということくらいか。
 裏を返せば人の手によるメンテナンスが可能だということでもあるが、それも専門の知識と技術、そして設備あっての話だ。幻想を糧に式を編む士郎との相性はむしろ悪いとさえ言えた。

「ねえ」
 うわの空で返事をしていたのがやはり気になったのか、えりは身を乗り出してきた。
 軽く睨むように目を細めながら疑問を投げかけてくる。
「デモンベインのこと、知ってたの?」
「む?」
 問われた士郎も今度こそ思考をそれまでの内容から引き剥がすが、意図の分からない言葉に首を捻る。
「いや、デモンベインとはあの海岸が初めてだぞ。そもそも鬼械神のこと自体、知らなかったからな」
「そう? それにしては、なんだか随分思い入れがあるように見えるんだけど」
「……ああ」
 そういうことか、と納得する。
 確かに、今の自分はデモンベインばかり見ている気がする。
 焦っても意味はないと理解はしているのだが、やはり魔導書に精神を喰われるというのは不気味で恐ろしい。無理をしない程度に使いながら、なんとか戦いを有利に進められる機能を回復させたいのだが、その意気込みが空回りして悪循環に陥っているのがえりには心配なのだろう。
 尤も、もともと士郎は使える筈の道具が使われていないのが我慢ならないたちではあった。ひび割れた盾や溶けた装甲を見ていると、余計になんとかしなくてはならない気がしてくるのだ。
 或いは、それは士郎が「剣」に憧れやすい性質をしているからかもしれない。
 武装もなく、形も人型だが、その在り方はまさしく「剣」であると、訳もなく理解できる。士郎自身も己の起源を「剣」に置くものであるが、その性質は生み出す者であり、使いこなす器を有しているという訳ではない。士郎の戦闘法は言ってしまえば作った武器を重量に任せて振り回すか、武器自身に欠けている人間パーツとして使ってもらうようなもので、そこには極めた担い手がいない。
 憧れる「正義の味方」の1人に違いない魔を断つ剣が、自分のせいでその性能を十分に発揮できないことが純粋に悔しいのかもしれなかった。

 しかし、そんなことを今話しても詮のないことであるし、何より余計な心配をかけたくもないので、言葉を選びながらそれらしいことを答えることにする。
「いつ止まられても困るしな。あいつらといつ戦いになるか分からないし」
 全くの嘘という訳でもない。
 えりや他のメンバーはどうか知らないが、士郎自身は短期決戦のつもりである。の魔術師が話し合いの通じる相手ではないことは、とっくに知っている。
 なら、敵がデモンベインをどう使うつもりであろうと、1日でも長く放置する訳にはいかない。
 問題は本拠地が未だ知れないことであるが、それについては1つ考えがある。

「なあ、提案があるんだが」
 話すちょうど良いタイミングではある。あまり時間をおいても混乱させるだけだ。暗くなる前に作戦会議はやっておくべきだろう。
 士郎の様子から意図を察したのか、えりも表情を引き締める。
「ええ、何?」
 考えていたこと。
 えり達、ネクロノームの乗り手の従来の戦い方、敵が行動を起こして、そこへ向かう、という方式ではどうしても被害が防げない。
 それは士郎の知る掃除屋と同じで、手遅れになるのを辛うじて防ぐことにはなっても、悲劇を防いだことにはならないのだ。
 幸い、敵の当面の目的ははっきりしているのだ。利用しない手はない。
「デモンベインを、敵に発見させようと思うんだ」


   4


 もうすぐ、夜の帳が降りる。
 そうしてやって来る己の時間がひどく待ち遠しい。暗い森へと幽かに射し込む朱い陽光が目に痛いが、それすらも今は祝福の光輝、歓びを喚ぶ合図だ。
 夜をこんなにも楽しみに待ったのはどれほどぶりだろう。
 その衝動的な食欲を抑える狂おしいまでの自制の時間は終わりを告げ、今はただ祭の日の子供のように胸を高鳴らせて、間桐臓硯は夜を待つ。
 今夜だ。
 今夜の実験が上手く行けば、きっと自分はこの焦燥から逃れられる。
 細心の注意を払っていくつかの保険もかけてはいるが、何にせよ彼にとり今夜が正念場であることには変わりない。
 他のアンチクロスが出払った後でアウグストゥスに敵の危険性を煽ることで、自分が出ることも承諾させた。
 そうでなければ、大事な計画の核の1つであり、いずれ大導師に対抗するための切り札を使うと気付けばすぐにでも止めに来ただろう。
 今回は、その時の為のでもある。

 待ち遠しいことだ。これはこれで狂おしい時間ではある。
 それも当然か。食欲という生命に密着した衝動ではなくとも、長年の悲願を果たすという窮極の快楽を待つ時間なのだ。希望を失いかけていた1年前までならともかく、それが形になりつつあるのだ、これ以上何年もお預けを喰らえば、真実狂ってしまうに違いない。

 ――ふと、脳裏に疑念がよぎる。
 はて、己の悲願とは本当に不死のことだったろうか?

 しかし、そんな疑問もすぐ傍からかかる声、そして自身の狂気に呑まれてゆく。
「細かいことは気にしちゃ駄目だよ、臓硯殿。どのみち、不老不死を手に入れてしまえば次の望みだって叶えられるだろう? なにせ無限の時間があるのだから」
 見れば、長身の女が立っていた。
 いつものことだが、近寄ってくる気配は感じなかった。尤も、転移してきたと言われても驚きはしない。まこと、不気味と言うしかない異形だった。
「お主には感謝しておるよ。ここまで上手くゆくとは思ってもみなんだ。これこそまさに命の恩人とでもいうべきかの」
 そんな感慨をおくびにも出さず、臓硯は下手な冗談を言って呵々と笑う。
 ナイアと名乗った正体不明の女は、そんな臓硯の隠した感情を知ってか知らずか、笑顔を浮かべて言葉を返す。
「いやいや、流石はかつて令呪を創り上げたというマキリの当主様だ。僕も力を貸した甲斐があったというものさ」
 その邪悪な笑みは、いつ見ても落ち着かない。
 クラウディウスほど露骨ではないが、この女の笑顔にはいつも嘲りがある。直接の話し相手だけではなく、自身やそこにはいない誰かに対するものも含まれる、無限大の嘲笑。それでいて、褒め言葉には真実、賞賛の響きがあるのだから恐ろしい。
 この女は既に狂っているのではないか。臓硯はそう思うこともある。
 間違ってはいないだろう。
 ナイアの提示した計画は間違いなく狂気の沙汰であるし、特に敵に関して語る時に見え隠れする感情、執着心は愛すら感じさせるほどの深い憎悪であり、まさに狂気と呼ぶに相応しいだけの何かがある。
 だが、その狂気をもってなお、女は理知的であり、真理の全てを見通してきたかのような言葉で正解を臓硯に告げる。臓硯はそうして短期間のうちにコスモ・マトリックスの残党を掌握し、今はアンチクロスとも肩を並べようとしている。
 それが、恐ろしいといえばたまらなく恐ろしい。

「しかし、未だに完全には信じ切れておらぬのじゃがの。衛宮の小倅は本当に夜になれば姿を現すか?」
 実験台にはちょうど良いだろう、というナイアの言葉には賛同するが、はてさてそんなに都合よく敵の居場所が分かるものか。
 ナイアは腕を組みながら、君の気持ちは分かるとでも言いたげに深く頷きながらも、いつものように自信たっぷりの様子で太鼓判を押す。
「間違いないよ。正義の味方は自分のせいで誰かが傷付くなんて耐えられないんだ。適当に暴れ回っておびき出されるのが嫌なら、やることは1つしかないだろう?」
「ふむ」
 全くもって愚かとしかいいようがないが、長年張り付かせた監視役を通して伝わる衛宮士郎の性格は、確かにそういうところがある。
 ナイアがそこまで把握していることに疑問が湧かないでもなかったが、今更問うたところで詮なきことではある。

「……そろそろじゃの」
 日はいよいよ傾き、いくつか星が見え始めている。
 つまりは、悲願が達成するか否か、もうすぐその趨勢を決める一大実験が始まるということだ。
 と、歩み去ろうとする臓硯の背に、ナイアは、ああそうだ、と思い出したように声をかけた。
「封印はぎりぎりまで解かないことをお勧めするよ。そして掌握は迅速に。今の大導師殿は少々のおいたなら見逃してくれるけど、今から使おうとするモノは、気付かれればちょっと厄介になる。できれば初回でものにすることだね」
 言われるまでもないことだ。臓硯はいつものように呵々と笑い、
「忠告、感謝するぞ。では、今度こそ征くとしようかの」
 そうして、それまでずっと静かに控えていた者に、今日初めて声をかける。
「は……い」
 澄んだ美しい女の声が、主の命に応えた。


   5


 カリグラは太陽が沈みゆく中、それに頓着することもなく、闇の中、木々をかき分けてふらふらと歩いていた。
「う……く、グゥッ」
 途中、何度もよろめき、呻き声をあげながらも、しかし決して歩む速度をゆるめることはない。
 人目など気にする必要もない場所ではあるが、そこに行き着くまでに姿を見た者は、ひどく驚いたことだろう。
 その格好も奇異だったが、何より全身が赤かった。
 頭や胴は言うに及ばず、手足の端まで、それが元来の模様であるかのように赤黒い斑点が付いている。既に乾いて臭いもないが、それが血の跡であることは誰の目にも明らかであった。
 特に背中の染みは最も大きく、人によってはそれだけで致命傷にもなり得たかもしれないほど。
 未だ傷が癒えていないことは疑う余地もないのだが、しかしカリグラはふらふらと夢遊病者のように歩き続ける。怪しい足取りながら、子供が走るよりも余程速い。

 実のところ、そこがどこなのか、そしてどこを目指しているのかも、彼にはよく分かっていない。
 ただ、執着心と癒着した神経と直感を最大限に働かせ、覚えのある気配、ほんの僅かな魔力の残滓を道しるべにして、砂糖の匂いに惹かれる蟻のように辿っているだけである。
「衛宮……士郎……」
 今の心にあるのはその名と、背中から腹に貫通した2つの深い刺し傷。
 そして、
「クラウ……ディウス……!」
 喪った相棒の名である。
 城へ帰る気も起きない。帰還命令を伝達してきた五月蠅い塵もいたが、どう対応したかよく覚えていない。
 実際、どうでもいいことではある。赤い服がより赤く染まっただけのことだ。
 頭がぼうっとして働かない。元々頭を使うことは苦手であるし、血が足りていないのだから当然ではあるが、どうやら熱も出ているらしかった。
 しかし、それでもカリグラは歩き続ける。

 ――ケッ、足引っ張るんじゃねえぞ筋肉ダルマ!
 ――あン? ひょっとしてビビってんのかよ?
 ――馬鹿はテメエだカリグラ!

 思い出される言葉は憎まれ口、否、罵声しかない。
 いつも、その少年の挑発に乗ってはすぐに手を出し、互いに喧嘩などというレベルではない、殺し合いさながらの暴走をしては、作った瓦礫の山の中で互いに疲れ果てて倒れていた。
 程度の問題でなく、それをじゃれ合い、という言葉で表すのは不正確だろう。
 事実、彼らは互いが鬱陶しかった。言動の1つ1つが気に入らず、衝突は常に殺意に満ちていた。彼らの魔術属性に対応する神々の如く、敵対していたとすら言って良い。
 あの憎らしい奴をこの手で殺せたら、どれほど気持ちが良いだろうと、そう、考えていたというのに。
「衛宮……士郎……!」
 何故、弓引く鋼鉄の神が、
「神足……えり……!」
 槍持つ真鍮の異形が目蓋に灼き付いて離れないのか。
 何故、その憎い相手を殺した者達に対して、これほどの殺意が溢れてくるのか。
「おでが……おでが、この手デ、殺しテやる……!」
 確かに標的へと近付く歓喜の中で、カリグラは憎悪の咆吼をあげる。

 その手には、1冊の本があった。
 表題を《水神クタアト》。
 神を喚ぶことすら可能にする、最高位の魔導書の一は、何か蝋のようなもので左手に貼り付いている。復讐の為の力を手放さぬという、主の決意を表すものか。
 否、そうではない。
 それは書である。表紙を手に貼り付ければ、読み辛くなるだけでメリットはない。どれほど狂気に侵されようと、魔術師が魔導書をそんな風には扱わない。
 現実は逆である。
 カリグラの貼り付いているのだ。
 蝋のように溶け始めた左手がその魔導書に半ば食い込み、掴んでいるように見えているだけなのだった。
 アンチクロス、カリグラの左手と魔導書《水神クタアト》は、既に融合が始まっていた。

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