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1
「良い? 衛宮くん」
衛宮士郎の魔術の師、遠坂凛は、顔の横で人差し指を立てた、独特のポーズで説明を始める。
講義中、彼女が弟子を姓で呼ぶということは、言ったことを決して忘れるな、ということ。
士郎にしても、彼女が魔術師として重要な話をしようとしているのは目を見ただけで理解できたから、表情を引き締めることで続きを促す。
「現状、魔術研究期間としてこの魔術協会と世界を二分する勢力、それがマサチューセッツ州アーカムにある、ミスカトニック大学よ」
そこは既に聞いた話だ。
アーカム。ある意味では神秘の街、そして同時に怪異の街とも揶揄される古い土地。過去、セイレムの魔女が潜んでいたとも言われ、異界への門すら存在するという。
北の森、そして焼け地、西の丘陵地帯、東の漁村、数々の怪事件やその忌まわしい記憶を残す地の中心ともいえる街であると同時に、この100年のうちに奇跡の発展を遂げた文明の中心地の1つでもある。
大金脈を掘り当てたある冒険家にして事業家の起こしたその奇跡は、そのまま古代の妄執のような迷信を振り祓うかに見えたが、いつの間にか紛れ込んでいた不純物もまたその繁栄の英気を吸収したのか、気が付けばいたるところに影を落とし、街は超高層ビルの建ち並ぶ近代的大都市にして、映画さながらの犯罪や怪異渦巻く混沌の都市ともなっていた。
アーカムシティが大黄金時代にして大暗黒時代にして大混乱時代を迎えていると言われる所以である。
そのアーカムに存在する最も大きな大学、ミスカトニック大学は、一般に考古学科の毎年の募集人数における推薦枠がやや多めであるとされ、また卒業率が他の学科に比べ非常に低いことでも知られる。
脱落者を大量に出す、その考古学科推薦枠としてカウントされる一部は、実のところ非公開の別の学科なのはある種の裏社会では有名な話だ。
知る人ぞ知るミスカトニックの秘密、それは陰秘学科。
ロンドン魔術協会本部、通称時計塔が芸術学部の一部として魔術師を保護、養成するのと同じく、ミスカトニックもまた一般に知られることなく魔術師による研究機関を擁している。
「協会みたく、世界中に支部がある訳じゃない。けど財力はあるし、影響を受けた機関や企業も少なくはないわ。協会系とは魔術に対するスタンスからして違うけど、そこを出た魔術師の実力も折り紙付きよ」
凛は復習を兼ねてか、細かい説明を補足しながら、その巨大な魔術師集団について語る。つまり、その事実を踏まえた上で、これから語ることを胸に刻みつけろということなのだろう。
「それで士郎。できれば、そのミスカトニック系の魔術とは関わりを持たないで」
そしていよいよ本題に入る。
が、それだけでは唐突すぎて意味が分からない。より正確に言うなら、その発言の意図、理由が汲み取れない。
凛は魔術師ではなく、魔術と言った。魔術と関わるなというのだから当然魔術師とも関わるべきではないだろうが、その順番には何か意味があるのだろうか。
「? なんでさ」
思わず、いつもの口癖が出た。
凛は言葉を選んでいるのだろう、悩ましげに眉間に皺を寄せている。
なんとなく話したくなさそうな雰囲気に、士郎の頭には疑問符が浮かぶ。が、やはりある程度説明しなければ言うことは聞くまいと判断したのか、凛の話は続く。
「詳細は省くけど、私達と彼らの魔術は色々違うの。私達が主に自己を棄てて
しかしその自我とて、元はといえば根源から流れ出したものだ。突き詰めればいずれ
士郎の答えた内容は、そのようなものだった筈だ。
思えば、賢しげな口を利いたものだ。不肖の弟子から突然飛び出した釈迦への説法に、師としては苦笑するしかなかったろう。
「――そうね。けど、人間が使うことの出来る時間は限られているわ。自我を継承することは実質出来ないのと同じだから、どれほど修行して位階を登っても、それで手に入れた一番の成果を後継者に渡せないのよ。だから、根源を目指すという一点において、その方法は効率的とはいえない」
凛は気分を害することもせず、いや、士郎の台詞は初めから予想していたのだろう。その舌に淀みはない。
「それに、魔術を扱う意味からして違うのよ。協会系の魔術師はもう、目指す理由とか辿り着いた後のことなんかどうでもよくなりつつあって、ただ目指すことだけが目的なのよ。だから、そのために自己を切り捨てることにも抵抗がない」
魔術師がまずすべきことは、無駄を覚悟すること。
己の代では決して到達しないことなど百も承知で、次の理論者、次の次の実践者、次の次の次の哲人へと受け継がせることだけを目的に魔術の研究を進めるためには、自我や我欲などに拘っていては絶望か子孫の離反を早めるだけだろう。
そういう意味では確かに、受け継がせることが可能な物を中心に据えて追求するのが、魔術師としてより効率的ではある。
「対するミスカトニック系……とも限らないけど、まあとにかく他系統の魔術師が欲しいのは、起こせる事象規模の拡大、自我の延長線としての魔術なの。万物の根源がどうでも良いって訳じゃないけど、根源へと至るほどに万能になれば、その時にはもう目的は達成しているわけ」
つまり、何かがしたい、という動機があって、その手段の1つとして魔術を修得するということか。その「何か」が仮に宇宙の真理の探求であったとしても、それが知的好奇心という我欲から発生したものである限り、自分の手で辿り着けないならば後継者がどうなろうと関係ない。
または、単に手足の延長線のような感覚で、即物的な欲求を満たす為の便利な道具という扱いで魔術を見ている者も、このカテゴリに含まれるだろう。
実際のところ、利便性という点において魔術は一般的なイメージほど優れてはおらず、素直に文明の利器を買い揃えた方が良い場合も多いのだが、それでも才能次第では個人の持ちうるものとしては破格の能力を得ることが出来る。
「……ああ」
士郎にも何故、彼女が言いにくそうにしているのかようやく理解出来てきた。
それは、つまり。
「駄目よ。ミスカトニックの魔術を学ぼうなんて思っちゃ、絶対に駄目だからね」
2年の付き合いだが、その信頼と理解は深い。当然、士郎の言わんとすることも凛には予測出来ている。柳眉を逆立てこちらの鼻先に指を押しつけながら、脅しつけるようにして釘を刺してくる。
「ええ、きっとその性質だけを取れば、貴方とはとても相性が良いでしょうね。でも駄目よ。あっちのやり方は危険性が桁違いなんだから。特に魔導書に触るのだけは論外よ」
魔導書。
その神秘に関する凛による解説はこうだ。
入念に検閲・削除されてから大量に出版されているものは魔術の歴史教本程度の意味合いしかないが、その記述、そして執筆者の念によっては強力な魔力を持つという。中には意志を持つに至ったものまであり、所有者を自ら選び、触れた者が相応しくなかったり、或いは力を使い果たせばその魂を喰らって糧にするとも。
また、その記述内容は正気を疑う、否、
実際、古書の収集が趣味のごく平凡な人物が、ある本を手に入れたのをきっかけに豹変し、何らかの怪事件を起こしたのち自滅する、という物語は古今東西に事欠かないし、そのうちの何割、或いは何分かは事実を元にしているとも言われている。
「彼らはその魔導書の主になることを1つの通過儀礼、そしてステータスにしてるの。優秀な外部の魔力タンクと魔術回路を手に入れ、同時に大事な自我を破壊される危険性と恐怖に耐えてみせたという証だから」
自我を侵される。魂を喰われる。
それは確かに恐ろしいことだ。もし、今までの思い出や何かを美しいと思う感性を失って、そのことにも気付かなかったり、気付いても無頓着になってしまったり。或いは自分の意志が全くの別物になってしまうということもあるかもしれない。
そうしてその魔導書を効率よく使用する為だけの魔術師という名の部品にされて、当初の理想や目的を自分の手で穢してしまうのは、たまらなく恐ろしいことだ。
「だから、良い? 確かに士郎はやれる
良い? 悲惨な英雄になんかなったら許さないんだから――
「良い? 衛宮君」
士郎は、スピーカーから流れてきたえりの声に、目を開いた。
「ん、ああ」
応えながら、《ネクロノミコン新釈》をコクピット前部のバイク型装置に設置する。
デモンベインを起動することで、ヴァルナのかけた魔術迷彩は無効化され、簡単な魔力探知にも発見されることになる。
それはつまり、敵の捜索に対し、自ら名乗りをあげるということ。
殺し合いを前提とした戦いはこれが初めてではない。慣れることはないだろうが、それでも感傷は、敵よりももっと身近なものへの恐怖からのものだろうと思える。
自分は眠っていたのだろうか。見たのは悪夢ではなかったから、眠ってはいなかったのだろう……と考えるほど、未だ士郎は冒されてはいなかったが、確信はない。
最後の凛の厳しい表情がどこか泣きそうに見えたのは、夢想ゆえの都合の良さか、それとも事実か。
「……」
答えを出せないまま、士郎は光を放ちながら装置と接続してゆく《ネクロノミコン新釈》を茫洋と見つめる。
魔導書と衛宮士郎の特性は、これ以上ないほどにマッチする。それは凛のお墨付きだ。
無ければ勝てない、しかし使えば使うほど制御の難度は高まり、また傷だらけのデモンベインの電子機器としての摩耗は激しいどころの話ではないだろう。黙っていても埃や砂が大量に入り込んでいるはずだ。
数少ないリソースを効率よく使い、敵を迎え撃たねばならない。
士郎は何故か、他の誰よりも先に本命の敵に発見され、襲撃されることを確信していた。
「ねえ衛宮君、やっぱり先に合流した方が――」
「――いや、やろう。神足達は見つかるなよ」
言葉を遮ってまで言い返す意味があったか、といえば、それは無かっただろう。
今、作戦を実行するべきだと考える理由は、いくつかある。
あの敵ならば、こちらが戦力を整えている間に適当な街でも占拠して人質に取り、デモンベインを要求することも考えられる。或いは見せしめの類を出すことにも、やはり躊躇はすまい。敵としても真正面から襲ってデモンベインを奪えそうな今こそが、戦力を削れる好機なのだ。
また、1日でも長く放置することで、敵によって別のところで事件が起こされるのも我慢がならない、というのもある。
(あと……なんだ?)
妙な感覚があるのだ。
えりにも上手く説明できていないが、魔導書の侵食を意識してから感じ始めた頭痛が、警告とも呼びかけともつかない声のようなものを聴かせるのだ。今はまだはっきりとは意味も意図も感じ取れないが、判るのは今夜、何かが来るのは確実だということ。そのために、可能な限り万全でいなければならないと感じるのだ。
えりの渋々といった返事を聞きながら、士郎はデモンベインのエンジン、
陽が、沈む。
2
ふらふらと進むカリグラの足は、彼本来の速度には到底及ばないにせよ、だんだんと力を増し、転ぶ回数も少なくなりつつあった。
それでも木にぶつかり、石に躓き、そして自身の足をもつれさせて、無様に顔を地面に叩きつけては、無言で起きあがることが全くなくなった訳ではない。
「え゛みや゛……ジロヴ……」
この声は呼びかけか、それとも怨嗟か、呪詛か。
とても人間の喉から発したとも思えないような、腹の底で煮え立った胃液が泡を弾けさせたかのように濁った聲は、止めどなく髑髏の仮面の口から漏れ出てくる。
「おお……ォォオオオ……!」
もっと意味のあることを吐いていたような記憶もあるのだが、内容は既に定かでない。ただ、やけに鋭敏になった嗅覚が、その食欲のような不思議な感覚に憑かれたように両足に力を与え続ける。
早く早くと、早く奴に逢いたいだろうとカリグラへ語りかける。
(――!)
走った悪寒に、ぶるりと、身体を震わせる。
太陽が沈み、より一層厳しくなった冷気が針のように傷を突き刺したためか、それとも、もっと別の何かへの恐怖か。
「グらウデぃうズ……!」
ふと、思い出す。
そう、そうだ。自分は仇を討つために向かっているのだ。
憎い友を自分より先に殺した忌々しい敵を殺してやらないと、可哀想というものじゃないか?
――誰が?
「ウゥゥォォォオオオ!」
再び走った悪寒を否定するように雄叫びをあげ、がむしゃらに右腕を振り回す。
生物はおろかコンクリートすら粉砕する破壊の腕は、生意気にも行く手を塞いだ木々を粉砕した。木はやたら大きな音を立てて横に倒れていったが、無論カリグラは頓着しない。
視界に映る障害物がなくなり、安心して進もうとしたが、破片に躓いて結局転んでしまった。
そも、破壊する必要などあったのか。
木はさほど密集しているとはいえない。わざわざ魔術を使わずとも、いくらでも避けて通る道はあったのだが。
だが、カリグラにはそんなことは見えてもいないのか、それともただまっすぐに進めないことが赦せないのか、意味もなく障害物を片端から粉微塵にして歩き続ける。
とにかく、衛宮士郎だ。1秒でも早く奴の元へ早く辿り着かないと、壊れてしまう。
――誰が?
今度は、自身の頭をガン! と地響きでも起こしそうな勢いで殴りつけた。
一切の手加減をしていない、岩すら砕く拳はしかし、そのこめかみから一筋の血を流させたのみで、拳にもまた影響は見られない。
苦痛も感じないのか、カリグラは歩みを緩めることも血を拭うこともない。
尤も、今のカリグラは傷を気にすることに意味があるような状態でもない。全身の服についたまだら模様の半分は返り血であるが、背中と腹に咲いた赤い大輪の花は、間違いなく彼本人のものなのだから、小さな傷など今更ではある。
「エミヤ……!」
頭から流した血によって多少意識がはっきりしたためだろうか。少しだけ、明瞭な発音がなされた。
その名こそ、これから向かう標的の名、今の彼の目的。
捜しているのは他にもなかったか?
そんな疑問が幽かに脳裏を掠めるが、余分な思考は長く続かない。
そう、意味がないのだ、狙うのは魔術師。そうでなければ、壊れた時に代替にならないではないか。
――だから、誰の話をしている?
「黙レ!」
既に誰が、誰に対して怒鳴りつけているのかも分からない声に、その刹那だけのことであったが、空気すらも凍り付いた。
比喩ではない。
事実、カリグラの金切り声とともに、周囲を漂っていた水分は一瞬のうちに固形化、結晶化して地面に落ち、ガシャンと音を立てて割れ、その直後、何事もなかったかのように消滅した。
無意味な魔術行使が堪えたのか、カリグラの足も止まった。
が、やはり思考にかかった靄に衝き動かされ、その停止も休息たり得ない。
「カリグラ殿」
気付いたのはいつのことだろうか。その進む先に、黒い塊がわだかまっていた。
否、違う。
魔術師カリグラは既にその正体を識っている筈だ。その情報を絞り出せ。
黒いのは何だ。一帯にわだかまる臭気は何だ。カサカサと鳴る耳障りな音は何だ。
その声の発生源は何だ――?
「ゾウケン……カ」
僅かに理性を取り戻したらしきカリグラの声に、黒い一帯の中心にいる黒い塊は、深く頷いたようだった。
しかし、カリグラの記憶とその黒には、いくつかの相違点があった。
声はどこか遠く、また、感じる魔力も小さい。もともとあるのか無いのか分からない虫の息のような息遣いも、そこにはない。
言うなれば、存在感が薄いのだ。
臓硯に気付いた後も無意識に歩き続けたせいか。カリグラはいつの間にか黒く地面を覆った絨毯に足を踏み入れていた。
ぐしゃ、と嫌な感触が一瞬、伝わってきたが、すぐになくなる。
初めてカリグラは自分の意志で歩みを止め、足をどけてみたが、そのすぐ下にあったのは踏み潰された蟲の死骸ではなく、ただ黒い色をした草と、その合間から覗く黒い地面だけであった。
「投影体ダな」
その高等魔術の原理を識り、看破したのは、一体
何にせよ臓硯らしきものは再び深く頷いて、言葉を紡ぎ始めた。
「敵は準備万端、お主を待ち構えておるよ。仇を前に逸る気持ちは解るが、もう少し待つつもりはないかの?」
それはつまり、待てば戦力の補強があるということか。
臓硯にしては、珍しい申し出といえる。むしろ、適当に争わせておいて漁夫の利を得ようとするタイプだったとカリグラは記憶していたはずなのだが。
疑惑の視線に気付いたのかそうでないのか、臓硯は呵々といかにも彼らしい笑い声を響かせた。
「なに、カリグラ殿には先日大変な世話になったからの。クラウディウス殿のことは残念じゃったが、礼をせねばなるまいと思うたまでよ」
それは嘘だ。
やはり、魔術師としてカリグラの奥底、僅かに存在する論理的な思考、或いは直感が臓硯の言葉を否定する。
こいつはそんなタマではない。
性格の問題ではなく、もっと根本的に臓硯には他者に対する関心が欠けている。
彼らアンチクロスとてそれは共通することではあったが、臓硯は特に、生死に関してはもっとシンプルな思考をしていた。
少なくとも、誰かを手伝ったり、救おうなどと考える人物ではなかった筈なのだが……
「疑ってくれても構わんよ。ワシは本当に貴殿には感謝しておるんじゃ。その恩人がみすみす死にに行こうとしておるのはやはり寝覚めが悪いからの」
いつ起きていつ寝ているのかも不明な蟲爺が、寝覚めが悪いと来たものだ。
(余裕……か?)
そう、考えられるとするなら、何らかの理由で自分を脅かす原因が取り除かれ、或いは取り除かれつつあり、結果として他者をどう動かすかという思考に回す余力が生まれたというところか。
意味もなく核心に近付いたと思える思考に、カリグラは大いに満足した。
はて、魔術師カリグラは、こんなにも冷静だったろうか?
そんな疑問が、ふと湧き上がる。
いや、そもそもそんな疑問を抱くこと自体がカリグラとしておかしいのだ。カリグラは、自身の思考に疑いを持つことはない。
実のところ、高い思考能力は持っているのだ。最高位に近い魔導書を制御し、鬼械神をも招喚せしめるほどの適性を持っていたがゆえの、アンチクロスである。ただ、その強力な魔導書を制御する以外のことに回す余力を持っていなかっただけで。
そういう意味で、1つのこと以外に頭が回らなくなる性格は、彼には純粋な魔術適性以上に幸運に働いたとも言えるだろう。
では、この冷静なカリグラは一体誰だ……?
「グゥ……!」
自身を否定する可能性を考えたのがいけなかったのか。
再びカリグラの脳は何かにかき乱され、冷静な誰かが消えてゆく。
そうだ。殺すのではなかったか。憎き魔術師を。
破壊するのではなかったか。青き鬼械神を。
腕を引きちぎり胴を引き裂いて腑を引き摺り出し、頭を踏み潰してその血を浴びて、己が存続の糧にするのではなかったか。
「違ウ!」
「ム――!?」
混濁する意識に抵抗する腕が何かを叩き消したようだったが、カリグラの意識には既にその記憶さえない。
ぐしゃりぐしゃりと何かを踏み潰しながら、再び前へと歩き出す。
目指す先には、つい先ほど強烈な魔力を発し始めた、傷付きながらも力強く屹立する、青き巨神。
やれやれとでも言いたげな溜め息のような声を背に、左
3
『SHIYYYRRRRUUUUU……SHIROO……シロウ…………』
思考に没頭していたせいもあるだろう。士郎はその呼びかけが誰へのものなのか、すぐには分からなかった。
水の中から無理矢理発音して人を呼ぶような泡だった声は、何度か試しているうちに少しずつ明瞭になっていき、10秒もする頃には自分が呼ばれていることがはっきりと分かった。
聞いた感触ではそれほど年老いてはいない、張りのある男性の声だ。記憶の中の父と同じか、少し若いくらいだろうか。
「え、あ、悪い。ちょっとぼけっとしてたみたいだ」
それが誰の声か上手く思い出せないながらも、反射的に声を返しながらスクリーンを見れば、デモンベインの自己診断プログラムは既に終了していた。
機体を表す緑のグラフィックは色分けされてその7割ほどが赤く染まり、隣の画面ではおそらく数百行に渡るだろうエラーメッセージの最後に「Mar.25 20:45」と表示されていた。
(まだ、3日しか経っていないんだな)
起動するたびに増えてゆく気がするエラーに少しうんざりしながら、戦いが始まった日を思い出す。既に一月くらいは経ったような感覚だったが、それほどに多くの経験をした訳でもない。
経験したことといえば、ただ人が死んで、掃除をしただけ。そして、ゴミを出す元を断とうと決意しただけだ。
『士郎、疲れているなら、実行を延ばしても構わないが』
その声の主にはこちらの状態が分かるのか、再度の呼びかけが入る。その声は――
「あ、ヴァルナか。いや、大丈夫だ、やれるさ」
えりのパートナーである水属性のネクロノーム、ヴァルナに言葉を返す。
機械的な合成音声とは思えないほどの正確な発音、明らかな人の暖かみを感じるその声に、反射的に強がりを言ってしまったのは士郎の悪癖ではある。自分の心配をされることが、本質的に苦手な人間なのだ。
「けど珍しいな。神足じゃなくてヴァルナが話しかけてくるのは」
スピーカーからは人間の息遣いが感じられない。ネクロノームのコクピットはかなり狭かった筈だから、えりはそこにいないか、ヴァルナが専用の回線を開いているということか。
珍しい、というのも正確ではない。
ヴァルナと会ったのは昨日の戦闘が初めてで、その日はすぐに眠ってしまった。今日とて、作戦を詰める時に少しだけ話したに過ぎない。ヴァルナに直接話しかけられたのは、これが初めてだ。
『衛宮士郎。おそらく君は現在、病院の事件の――』
「分かってる。だから、今なんだ」
皆まで言わせることなく、語調を強くして言い放つ。
言われるまでもないことだ。えりから5機のネクロノームの世界からの扱いを簡単に聞いた上で、自分が敵の立場なら、と考えれば、そんなことはすぐに予測がついた。
だから、そのことに関して感じることはない。ただ、謝らなければならない人達が少しばかりいるだけだ。
『我々が世界の敵とされているのは、誤解というよりも高度に政治的な判断が働いているからだ。その我々と関わる君に、釈明や減刑の機会が与えられる可能性は、低い』
それも、理解できる話。
「そうだな。身動きが出来なくなる前に、奴らを倒そう」
『……』
しばし、沈黙があった。伝わってくる逡巡の気配に、士郎は少し感心する。
高度な人工知能だとは聞いていたが、ほとんど完全に人間だ。《古きもの》の名は《ネクロノミコン新釈》にも記述があるが、どれほどの超科学が栄えていたというのだろう。ひょっとして魔法など存在しなかったのではあるまいか。
『何故だ?』
ややあって発されたのは、疑問の言葉だった。
『海岸でも、病院でも、死んでいたのは君には縁もゆかりもない人間だろう。君が我々の戦争に参加する意味は何だ?』
「それは――」
お互い様だろう、と答えたいところだったが、呑み込む。少し考えてみれば、確かに彼らと士郎は違う。
衛宮士郎は、純粋に戦力として弱いのだ。
ネクロノーム達は古代の善神――《ネクロノミコン新釈》においてその存在は否定されているが――の代行者とでもいうべき「邪神狩り」であり、またそれに十分な能力を持っている。おそらくはアンチクロス以外の鬼械神を持つ魔術師とも互角以上に渡り合ってきた筈だ。
対する士郎は戦闘センスが優れている訳でも魔術師として優秀な訳でもなく、デモンベインもまたその機能のほとんどが使えない。
やれる見込みのないことを何故やるのかと、割に合わないのだからこのまま逃げてしまえと、そう諭しているのだろう。
「家業を継ぐ、てとこかな」
『家業?』
あまり他人に語りたい話でもないのだが、もともと、口の立つ人間でもない。
変なことを言って止められては敵わないので、正直に語ることにした。
「尊敬してた父親がね、正義の味方だったんだ。それで、俺もそうなりたいなって」
その裏の悲劇も挫折も影すら見せることなく、ただ当たり前のことのように話す。
これも強がりだということは理解していたが、嘘でも自分自身に胸を張ることが出来なくなった時こそ、文字通り衛宮士郎の終わりだろう。一歩も前に進むことが出来なくなり、そして魂は魔導書に喰われる。
ヴァルナは、そうか、と肯定とも否定ともつかない短い返事だけを返した。
『……すまない』
再び沈黙したのちの言葉。しかし、藪から棒とはまさにこのことだ。
士郎がヴァルナにされたことなど、何もない。前回の戦闘で1機仕留め損なったことを言っているのだろうか?
「なんだ突然。俺は何もされてないし、むしろこっちが負担になってるくらいだ」
『そうではない』
戦力不足を否定しないあたりは、魔術機としての冷静さか、それとも性格か。
士郎の苦笑をよそに、ヴァルナは話を続ける。
『えりは、人を殺すのはいけないことだと、わたしに教えてくれた』
「……ああ」
確かに、神足えりにはたとえ機械相手にでもそんなことを諭しそうな雰囲気がある。
基本的には戦闘に向かない、普通の少女なのだろう。今回は状況が世界規模であるらしいからやむなく分散しているだけで、本来は単独で行動させられるような人間ではない筈だ。
『人が死ねば、えりは深く哀しみ、傷付く。しかし、それでも抹殺しなければ被害が増えるような者がいることも、えりは理解している』
そうだろう。
でなければ、きっと躊躇なくロードビヤーキーを撃墜した士郎はもっと責められるか、避けられていた。
むしろ――
(ああ、なるほどな)
まるで高所で遊んでいて今にも落ちそうな子供を見ているかのように、おろおろと世話を焼きたがるえりを思い出し、ようやく納得した。
何を言われるか分からない以上、確かに、えりがいる場では話し辛いことだろう。ヴァルナの見せる細やかな配慮に内心舌を巻きながら、士郎は言葉を返す。
「それは神足やヴァルナが気にすることじゃない。俺は1人でもあいつらと戦ったし、そしてとっくに死んでた」
それだけは、断言できる事実なのだ。
衛宮士郎の駆るデモンベインは、ティトゥスにも、カリグラにも、クラウディウスにも、1対1で勝つことは出来なかった。おそらく他のアンチクロスも同様だろう。
そんな自分が協力を乞うのだから、それくらいはやらなければ申し訳が立たない。そして何より、
(これ以上気を遣われたら、こっちがどうにかなりそうだしな)
自分が殺せないものを代わりに殺させてしまった、と負い目に思われることで、自身の穢れを他者にも肯定されることで、その重みでいつか潰れてしまうのが怖かった。
ヴァルナは再び、すまない、と繰り返した。
ヴァルナとの会話は、長くはなかった。
現状のこと、仲間のこと、そして意味のないことを少しだけ話したのち、デモンベインのスクリーンには1つの魔力反応を示す光点が瞬き始めた。
「……来たか」
ポケットの中で、赤い宝石が動いたような気がした。
(遠坂は、大丈夫だよな)
今まで考えなかった訳ではない。ただ、心配する必要がなかっただけ。
向こうからの供給はなくなって久しいが、今でもリンクは繋がってはいる。居場所も意志も分からないが、そのリンクが存在していることが、無事だけは伝えてくるし、伝えている筈だ。
また彼女には、衛宮士郎などとは比べものにならない最強の護衛がついている。たとえ何があろうと、そう、たとえ1度や2度失敗することがあろうと、必ず最後には主を守り通すと確信していた。
あの惨事の中、この宝石だけは失わなかったことが、無事な再会を約束してくれているようで、少しだけ嬉しい。
「神足達は、フォロー頼む」
承諾の言葉を聞きながら、士郎は撃鉄をイメージする。
銃口はこめかみに。そこにあるのは幻想による人間、衛宮士郎の死。
そして犠牲と損害を効率よく減らすために、自分自身をも駒として扱い上手く立ち回る、冷静で計算高い最強の衛宮士郎を創り上げるのだ。
「――
そのための自己変革を口にして、撃鉄をハンマーで叩き落とした。
漲る魔力と同時に、悲鳴をあげ始める肉体。頭痛も酷くなったような気がするが、それと相反するように、思考はどこまでもクリアに。
1つ深呼吸をして、スクリーンを睨み据える。
その先に立つのは、鬼械神、クラーケン。
4
「投降する気はないか? カリグラ」
初めての、そして二度と無いだろう圧倒的な優位に立ち、士郎は呼びかける。
デモンベインの損傷はそのまま。いや、外見はそのままでも、中身の回路がメンテナンス抜きの連戦にあげている悲鳴は、既に絶叫と呼べるほど。
対するクラーケンは、前回の戦闘で落とされた腕も再生し、無傷にして魔力も十分。
しかし、それでも士郎は圧倒的に有利なのだ。
「アンチクロスの目的と、本拠地の場所を言うなら、俺達は命までは取らない」
何故なら、今回は2対1。
対峙するデモンベインとクラーケンの上空には、魔術迷彩で隠れたヴァルナが待機している。
そして何より。
「アンタに勝ち目はない。これだけの矢をクラーケンは躱しきれない筈だ。それでも、無意味な殺し合いを望むか、カリグラ」
デモンベインの周囲には、10を超える数の刀。
ティトゥスの駆る鬼械神、皇餓の持つ巨大な刀が宙に浮かび、騎兵を待ち構える
しかし、そんなもの見えてもいないとばかりに、クラーケンは歩みを止めることなく、木を踏み潰し、地に穴を穿ちながら、地響きとともに近付いてくる。
「――く、カリグラ!」
士郎の声が上擦ったのは、戦いへの緊張か、それともクラーケンの姿に威圧されたからか。
いずれにせよ、クラーケンの攻撃もある意味で飛び道具のようなものだ。一定以上近寄ってくれば、仕掛けなければこちらが危ない。
「――ネ」
「……なに?」
クラーケンが、何かを呟いた。
聞き取れない。しかし、一瞬、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
それは己が魂を吐き出すかのような、深い感情が紡ぐ言葉。
「――ス――ネ」
だんだんと、暴れるクラーケンから発せられる言葉が明瞭になる。
いや、単に声が大きくなっているだけなのかもしれない。カリグラはずっと、同じ言葉を繰り返し呟きながら距離を詰めてくる。
「クラウディウスを殺したエミヤは死ネェェェええ!」
その感情……憎悪の雄叫びとともに、クラーケンの両腕がデモンベインに迫った。
「な――」
その瞬発力、速度ともに、真なる皇餓の二刀もかくや。前回のクラーケンとはまるで違う。
反射的に用意した刀のうち2本を飛ばして相殺したが、タイミングが合わず、傷を付けることは叶わなかった。
しかし、反応が遅れた理由はそれだけではなかった。
「は。そうだよな、俺はアンタの仲間を殺したんだった」
こみ上げた物を飲み下しながら、言葉だけは吐き捨てる。
一体、何を調子の良い交渉など持ちかけようとしていたのか。
自身にとって明確な悪だからといって、感情のない「悪」という名の機械だとでも思っていたか。
投降させて情報を吐かせる? 冗談だろう、仮にそんな言質をとったとして、お前はそんなものが信じられるというのか。赦せるというのか。
奴らとはもう、行くところまで行くしかないと悟ったのはつい昨日のことではないか!
――踏み潰した糞餓鬼が、足の裏でケタケタと嗤う。
「くそっ」
脳裏の邪魔な映像を捻じ伏せ、クラーケンの追い打ちを刀で相殺しながら戦術を組み立て、通信を開く。
「なに?」
「ヴァルナは、あのレベルの魔術師の思考は読めるか?」
『……難しい。抵抗力を失い、魔導書との契約をなくせば、時間をかけて走査することは可能かもしれないが』
自信なさげに返ってきた答えは、しかし期待に十分応えてくれるものだった。
士郎には、そういう切り札の心当たりもある。
「それでいこう。――悪い、前言撤回だカリグラ、俺はやっぱりお前を救えそうにない」
そうして、戦いが始まった。
「投影、開始」
両手に生み出すのは、皇餓の巨大な二刀。
衛宮士郎はおろか、鬼械神が扱うとしても巨大な印象があるそれらが、今の士郎がペナルティを負うことなく投影できる唯一の武器である。
伸ばされてくるクラーケンの鉤爪の射程を考えながら、士郎はデモンベインを横へ走らせた。
攻撃方法が変わることはないが、速度が変われば当然威力も変わる。皇餓の斬撃にも匹敵する今のクラーケンの攻撃は、直撃すれば装甲が万全ではないデモンベインを貫通することなど、わけもないだろう。
2機の距離が開いた瞬間、ヴァルナが放った氷の槍が3本、同時に天空より飛来する。
しかし、読んでいたかのように正確なタイミングでクラーケン前面に展開された巨大な光の防禦陣は、うち2本を跡形もなく消滅させ、貫通した1本も溶けてクラーケンには傷を付けられない。
だが、そこへ畳み掛けられるのがあらかじめ用意された、宙に浮く
「同調、開始!」
先手を打たれ数は減ったが、士郎の号令に応えて飛ぶ刀、実に6本。ヴァルナの氷槍に防禦陣を突破されたこの瞬間、クラーケンに防ぐ手立てはない。
「ウゥゥゥオオオ!」
「な――!?」
しかし、そんなものでは足りないとでも言うのか。
雄叫びをあげながら無造作に振り回しているとしか思えない腕は、恐るべき正確さで4本を打ち落とし、残りの2本も刺さりはしたが、致命打にはなり得ない。
舌を打つ。
これもまた、大量に投影を行うペナルティではある。10本以上を急ごしらえでは、どうしても骨子の想定が甘くなる。武器に最も必要な重量バランスと硬度が損なわれれば、下がった投影精度以上に威力は失われてしまう。
前回ほどに時間があれば別だが、その準備に必要とするあそこまでの大魔術に、今度はヴァルナやえりが音を上げるだろう。
「だったら――」
尤も、だから不利だ、ということでもない。
今回は数の差もあり、またクラーケンの反応速度は異常だが、基本戦術も思考の癖も変わっていない。
多少難度が変わろうと、一度経験した戦闘であることには違いないのだ。
「正面から叩き伏せる!」
素早く思考を奔らせ、士郎はデモンベインを無造作とも思える動きで踏み込ませた。
流石、と言ってしまえば皮肉になるだろう。クラーケンは、士郎が用意した「致命的な隙」へと正確に左の鉤爪を撃ち込んできた。
「ぐ――んぬぅっ!」
急な挙動に呻きながらも、あらかじめ決めていた動きで右の刀を振るい、切り払う。そうすることで、新たな「隙」が生まれる。衝撃に押され、辛うじてバランスを取ったように見える――半分以上は演技でもないが――前に出過ぎた左脚だ。
そこへつられたように、クラーケンの右手、ダイヤモンドをも砕かんばかりの第2撃が迫る。
「いつまでも――」
ただでさえ半分ほどの大きさに割れてしまっていたヒヒイロカネ製の脚部シールドは、その一撃でついに完膚無きまでに破壊された。
しかし、それで済ますためにわざわざ下段を狙わせた訳ではない。
「――同じ手にっ!」
士郎は攻撃を受けて浮き上がったデモンベインの左足で、伸びきったクラーケンの右腕を踏みつけた。
地響きとともに山肌を削っていた腕はデモンベインの超重量によって一瞬、動きが止まる。
「ヌ――」
無論、士郎は、引っ張って上に乗ったもののバランスを崩す、などという子供の悪戯のような手に引っかかるために、シールドを犠牲にしてまで腕を踏みつけた訳ではない。
次の瞬間には裂帛の気合とともに、二刀が振り下ろされている。
それで、クラーケンの右腕は半ばから断たれ、武器としての機能を失った。
「凄い……」
ヴァルナのコクピットで、えりは思わず呟いた。
眼下では、傷だらけのデモンベインは思った以上に善戦していた。
明らかに前回の戦闘よりも強くなっているクラーケンを相手に、一歩も退くことなく攻撃を捌き、或いは跳んで躱し、自身の攻撃は防禦陣に阻まれて未だ通らないながらも、少しずつ間合いを狭めていた。
クラーケンがデモンベインの躱しやすい場所を狙って攻撃しているかのような錯覚を受けるほど、クラーケンは無駄な攻撃を繰り返している。或いは有効打を与えたように見えても、気が付くとデモンベインに有利な状況になっている。
前回のただがむしゃらに斬りかかっていただけの衛宮士郎は消え、彼は今、見事に戦場を支配していた。
(……けど)
それは鬼械神、ひいては魔導書の扱いに習熟してきたということ。
聞けば、その魔導書もデモンベインの中にあったものだという。
どんな夢を見たのか知らないが、昼間、突き破らんばかりに魔導書を強く掴んで土気色の顔を見せた士郎は、この戦闘力のために一体何を失ったのかと考えてしまうのは、過剰な心配だろうか。
『まだ、デモンベインが気になっているのか?』
見透かしたような――いや、実際深く理解しているのだろう――ヴァルナの言葉に、えりはこくんと頷く。
「だって、おかしいじゃない。彼、なんだか躁鬱が激しすぎるわ。病院で会った時はそんな感じでもなかったのに」
まるでデモンベインに、共に戦うための自分を無理矢理作らされているよう――
そこまで考えてしまえば、確かに行きすぎだろう。しかし、デモンベインに関われば関わるほど士郎が異常な事態に巻き込まれていきつつあったのは確かなのだ。
『彼は、父の跡を継いで正義の味方になるのだそうだ』
「……たまたま、正義の味方になりたい人が鬼械神を拾ったの? なんだかかえって胡散臭いわ」
ヴァルナのフォローともただの独り言ともつかない台詞に、えりは顔をしかめてそんな感想を吐く。
何かが引っかかった気もするが、さほど情報を多く持つ訳でもないえりに、そこから推理を働かせる事などできよう筈もない。
(けど、ヴァルナ)
作戦開始前に何やら士郎と内緒話をしているかと思えば、そんなことを話していたのかと呆れてしまう。ヴァルナがだんだんと情緒豊かになってゆくのは、嬉しいといえば嬉しいのだが。
それはともかく、士郎の異常についてはいずれ追求せねばならない。
えりは口を尖らせて呟く。
「デモンベインに乗ってからよきっと。魔術師って無茶するとあんなに
その褐色の肌をした長身の青年が駆る青き鬼械神は、要所要所でヴァルナの氷槍による援護を受けながら、今やクラーケンを圧倒しつつあった。
感傷といえば、それは確かに意味のない感傷だろう。
魔導書と自身の魔術回路を循環する魔力、その中でも特に前回の戦闘でやった、高ランクな宝具の無茶な連続投影が、自分の身体の色を知っている人物のそれへと近付けてゆくことに気付き、ああ、もう負けられないなと、そう思っただけのことではある。
ともかくそんなもので強くなどなる訳もなく、今でも1つ読み違えれば即死は免れまい。
「グゥ――!」
腕を切り払われた衝撃であげるカリグラの呻きに、焦りが影を見せる。
デモンベインはその速度も攻撃の威力も、前回と変わっていない。むしろ条件は悪化してすらいる始末だ。
だが、戦う者の成長とは、力が変わることでも、速さが変わることでもない。
それらは生物としての成長、或いは機械としての変化であり、結果として戦力に反映されるが、戦士の成長とはいえない。
成長した戦士は、動きが変わるのだ。
その瞬間に正解を選び取る技術だけでは、戦闘には勝ち得ない。
思考の全てを未来に向け、時としてミスをも布石にして敵の動きを制限、誘導し、より多くのアドバンテージを得るのが戦術であり、戦士の持つ勇気とは、より強力な敵へ立ち向かうそれではなく、自身の思考が導き出した未来像に躊躇なく身を任せるそれを指す。
そういう意味で、己が内面世界への埋没を基礎とする魔術師、衛宮士郎は肉体的素養こそ戦士向きではなかったが、その実、精神面は間違いなく戦上手の素質を秘めていたといえる。
クラーケンはその力、その速さこそ成長させたが、戦術、ひいては戦闘行為の判断基準はなんら変わっておらず、前回対峙した記憶とほぼ丸1日向き合っていた士郎とカリグラの差は歴然であった。力量が多少落ちようが、全く違うタイプの刺客ならばここまで圧倒はしなかったろう。
経験を確実に己の物とし、自在に組み立てて勝利へと導く戦闘論理、それを心眼と呼ぶ。
(よし、やれるぞ)
油断は禁物ということは承知の上ではあるが、士郎は既に勝利を確信していた。
頭痛が伝える直感らしきものは正しかった。確かに敵はやって来て、可能な限り万全の準備を整えた士郎達は、今まさにクラーケンを撃破しようとしている。
魔導書との結びつきが強くなったためか。余分なことに集中力を割かれることも少なくなり、投影の精度も少しずつ上がっている気がする。現状はまだいくつもの問題を抱えているが、《ネクロノミコン新釈》は士郎の切り札をも可能にしてくれるという実感があった。
また、敵を近寄らせずに攻撃することを戦術の基本としたクラーケンは、片腕を失った時点でその前提が剥がれ、頼みの綱の魔術も、天空より飛来する氷槍を防ぐために使われて攻撃にまで回らない。
王手は詰まれた。後は速やかにクラーケンを解体し、カリグラから本拠地の情報を聞き出すだけだ。
「カリグラぁぁぁっ!」
雄叫びをあげ、デモンベインは駆ける。
立て続けに投擲されるヴァルナの氷槍に防禦陣はたった今消えたばかり。放たれる左の鉤爪を右の刀で切り払い、必殺の間合いへと踏み込む。
「終わっ……りだ!」
そして左の刀をクラーケンの肩口に振り下ろし、袈裟切りに両断する――
その時、ズキズキと万力で締め付けられるような頭痛が、ハンマーで叩き割られるようなそれに変わった。
それは言葉に訳すなら、逃げろ、というこの上なくシンプルな直感があげる絶叫だった。
「衛宮君、逃げて!」
「な――」
遅れて聞こえるえりの悲鳴じみた叫びを聞いてから反応していれば、間違いなく死んでいただろう。
ヴァルナとは別方向、天空より回転しながら飛来した黒い偃月刀が、咄嗟に交差したオリハルコンの二刀を容易く叩き割り、地面に突き刺さった。
5
「なん――だって?」
最初に気が付いた変化は、デモンベインのスクリーンだった。
――Evacuate!
――Evacuate!
――Evacuate!
ステータス画面すら塗り潰し、デモンベインはただそれだけをスクリーンに表示して進言、否、命令してくる。
「脱出……撤退しろって?」
機体のコントロールが重い。
効かない訳ではないのだが、妙なレスポンスの遅れが士郎の操作につきまとう。
(……竦んでいる?)
考えられないことだ。鬼械神がそんな人間じみた反応を示すなど。
それとも、鬼械神の反応が遅いのは錯覚で、純粋に士郎の行動が思考に追いついていないのか。
竦んでいるのは、怯えているのは士郎自身なのか。
――Evacuate!
――Evacuate!
――Evacuate!
「だ……何から、逃げろって」
理由の分からない震えに言葉を歪ませながら、空を見上げる。
天空には、月明かりに照らされてなお黒い、巨大なシルエットがあった。
その全長、およそ50メートル。逆三角形状の翼を持つ、そのヒト型は、即ち。
「デウス……マキナ」
士郎のその呟きに応えた訳でもないだろうが、地面に突き刺さった黒い偃月刀は空中に浮き上がり、我こそが支配者とばかりに天空に屹立する鬼械神へゆっくりと飛んでゆく。
黒い鬼械神も翼の角度を変えながら、自ら高度を下げ、主の元へ帰還した偃月刀をその手に取る。
距離が少しだけ近くなり、デモンベインのカメラがその姿を明瞭にしてゆく。
それを見て、再び士郎は驚愕する。
「――デモン……ベイン?」
だらしなく開いた口が、ぱくぱくと空気を求める金魚のように喘ぐ。
自分の見ているのは夢か、幻か。しかし仮にそうだとしても、総毛立ち、ガタガタと正体不明の音をコクピットに響かせる全身が、その悪夢から醒めることを許してはくれまい。
その形は、確かにデモンベインに酷似していた。
否、全身に走った亀裂で原形を留めるのがやっとなデモンベインに対し、無傷で黒光りする装甲を晒すその鬼械神は、むしろデモンベインよりもデモンベインらしい。
最も大きな違いは、デモンベインの特徴的な脚部シールドが無いところだろうか。破損ではなく、初めから存在しないデザインのようだ。
よく見れば他にも、頭部や胸部の形状など、細かい差異が見られたが、大まかに言って、それはデモンベインによく似ていた。
クラーケンを撃破し、カリグラから敵の本拠地を聞き出す。士郎達のそんな甘い
「! そうだ、カリグラ!」
慌てて周囲を見渡すが、既にクラーケンの姿は影も形もない。
敗北を必至と悟り、デモンベインが止まった隙に再び逃亡してしまったか。
――Evacuate!
――Evacuate!
――Evacuate!
デモンベインは、ただ一心に撤退せよと無音で怒鳴ってくる。
士郎には、訳が分からない。
あの鬼械神が何者なのか。
そのネクロノームにも匹敵する魔力は何事なのか。
何故、デモンベイン――それとも《ネクロノミコン新釈》か?――は初めて遭った敵を相手に撤退しろというのか。
――何故、こうも絶望的な予感が止まらないのか。
分からない。解らない。判らない。
わかっているのは、1つ。
クラーケンなど比ではない。昼間、目覚めてから、ずっと頭痛が警告していたのは、この黒い死神のことだったのだ、という、今となっては何の意味もない、間抜けな事実だけだった。