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1
――そは永久に横たわる死者にあらねど。
ウマイヤ朝時代に活躍したアラビアの詩人、アブドゥル・アルハザードは、古くはロバ・エル・カリイエ、現代においてはダーナと呼ばれる大砂漠地帯で、10年を1人きりで過ごしたという。
首都ダマスカスにおいて奇怪な死を迎え、後の時代、彼は狂えるアラブ人と呼ばれることになる。
――測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの。
彼がバビロニアの廃墟で、メンフィスの地下洞窟で、そしてアラビア南部の砂漠で何を見たのか、定かではない。
ただ、それが決して見てはならない光景であり、明かしてはならない真実であったことは、彼の末路を識る者には想像に難くない。
おそらくは、砂漠を踏破した
――永遠の憩いにやすらぐを見て、死せる者と呼ぶなかれ。
本当にそうだろうか?
確かに、彼が狂気に冒されていたことは疑いない。
そうでなければ、
――果て知らぬ時ののちには、死もまた死ぬる定めなれば。
しかし、真実、その神々の信奉者であったのなら、信仰の対象が漏らすまじとしたことを書になど記すだろうか?
決して明かさざるべしとされた宇宙の真理を、その真理の具現に逆らってまで余人の目に触れさせて、一体何とするというのだ。
罰を畏れるか否かの問題ではない。
誰にも望まれていない禁忌の真実を、何故、誰かに伝えようなどと考えたというのか。
――久遠に臥したるもの死することなく、
ならば、逆に考えてみればどうだ。
これは、警鐘なのだと。
ひとたび目蓋を開けば人類に終焉をもたらす怪異がいるぞと、その怪異そのものの監視の中、魂魄を削り血を吐き精神を砕き肉体を破壊せしめ、それでも誰かに何かを伝えなければならない使命があったのだとしたら。
――怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん。
神に逆らうのではなく、はじめから敵対していたのだとしたら。
彼が砂漠で出逢ったのはこの星を滅ぼす怪異ではなく、人類の希望はここにあるぞと、そう高らかに宣言する崇高な剣だったのだとしたら。
その志に
――That is not dead which can eternal lie,
And with strange aeons even death may die――
即ち、それは魔を断つ剣に限りなく近い贋作。
即ち、それは悠久の風を渡る邪神狩り。
即ち、それは魔物の咆吼。
即ち、それは永劫。
それは、窮極の魔導書を用いて招喚される最強の鬼械神――
頭痛は今や最高潮に達し、既に苦痛の方が通常の感覚と逆転してしまっていた。
逃げろ、アレだけは絶対に敵に回すな、滅ぼされたくなければ今すぐアレの視界から消えろと絶叫し、脳が頭蓋を内側から叩き割ろうとしている。
ドクドクと脈打つ血流が正常な思考という名の壁を一枚一枚剥がし、その奥にある絶望を覗かせてゆく。
士郎は、その威圧感を識っていた。
2年前、魔術もろくに使えなかった頃、士郎はギリシャ神話最大の英雄と対峙したことがある。その時は敵と同格に近い存在が味方に2人いたゆえ、圧迫感で息も出来なくなるような失態を見せることはなかったが、もしも士郎1人しかいない時に襲われたなら、今と同じ感覚に陥ったことだろう。
アレは戦ってどうこうする相手ではない。アレに勝つということは、戦わずになんとかするということ。
よく使われる喩えに、兎が獅子に襲われた、兎が生き残るにはどうすればいい? というものがある。
まさに前提が間違っていると言うしかない。襲われたということは死ぬということ。狙われないためにはどうすればいいか、こそが兎の考えるべきことであり、獅子に襲われてなお生き延びる兎は、きっと人間の首だって容易く刎ねる兎のような何かだろう。
そう、戦士ではない。アレは狩人だ。
抹殺する対象を対等の何かとは認識し得ず、あるのは勝ち負けではなく、狩るか否かという選択肢のみ。そういうモノだ。
「なんだよ……あれは……」
デモンベインのコクピット内では、「Evacuate!」と「Al Azif!」と「AEON!」が乱舞し、敵鬼械神の映像すら怪しかった。
赤く、黒く、白く、文字そのものが思い思いの形と色を取っているかのように、士郎の視界を埋め尽くす。逃げろと言いたいのか、それとも逃がさないと言いたいのか。
それとも、
《ネクロノミコン新釈》に曰く、神が顕れる時には眷属とも精霊ともつかない者達が同時に出現し、奇怪で異妖なる合唱でそれを称えるという。
デモンベインが謳うその銘を、士郎は頭痛という形で理解した。
未だ理解の及ばない何か、頭脳に流れ込む異なる法則の知識で、目の前の神が己と契約した魔導書《ネクロノミコン新釈》とは比較することさえ許されないような、究極の一なのだと理解した。
黒い鬼械神が動いた。
その手の黒い偃月刀でデモンベインを両断せんと、何もない空間をまるで坂道を駆け下りるように踏み込んでくる。
士郎は、ああ、死んだな、と思った。
恐怖に精神が麻痺していたか、といえば、そうではなかった。
ただ、この一撃は躱せないな、と冷静な衛宮士郎が断じただけのこと。
戦闘は、経験と思考が導き出す未来像の正確さこそが武器となる。が、それは誘導や制限を行うことで改変が可能な時点でこそ意味があり、必殺の一撃をどれほどの速度で幾度
肩口から食い込んだ偃月刀は、そのまままっすぐに胸部のコクピットを両断し、2つになったデモンベインと衛宮士郎を鬼械神が見下ろしている。直感ではなく純然たる読みがそんな像を見せれば、誰しも抵抗する気力を失おうというものだ。
その未来図を実現すべく、黒い刃とデモンベインの距離が零になる――
――と、思われた。
「なに?」
しかし聞こえたのはデモンベインの装甲があげる断末魔ではなく、何かが空を切る音だった。
氷槍三射。それが何者によって放たれたのかなど、問うまでもない。
「……ヴァルナ」
「衛宮君、逃げて!」
黒い鬼械神は、デモンベインへ向けた偃月刀を引き戻し、一息で三閃。それで氷槍は折られ消えた。
しかし、デモンベインが間合いを外すには十分な時間ではある。
「ぐ――!」
限界近いバックステップにかかるGは、魔導書とのリンクが薄い時期の士郎なら対応できずにコクピットの内壁にぶつかっていたかもしれない。それを呻き声1つに抑え、恐怖から逃れる術を求めて喘ぐ唇を、歯で繋いで塞ぐ。
口の中に暖かい液体が流れ込んできたが、おかげで少しだけ冷静になれた。
泡を食っている場合ではない。
勝てないまでも、ヴァルナとえりを逃がさなければ話にならないではないか。不可能という結果しか出ない読みなら、そんなものは棄ててしまえというのだ。
氷槍を捌いた黒い鬼械神が、再び斬りかかってくる。
「何が
今なお撤退を叫び続ける《ネクロノミコン新釈》をひと睨みで黙らせ、自身と書の全ての回路に魔力を通す。ぶぢふちと千切れゆくのは何処かの血管か、それとも書と繋がり過ぎた衛宮士郎の神経か、はたまたかつてないスピードでめくられてゆくページそのものか。
ともかく、そんなことはどうでもいい。皇餓の二刀が折られたからといって、衛宮士郎の打つ手がなくなる訳ではないのだ。
衛宮士郎にできるのは剣製のみ。
「こっちの
敵が必殺の剣を振るうなら、こちらも同じ物で応えるだけのこと――!
士郎は己が手元、コクピットの床に突き刺さった
「投影、開始――バルザイの偃月刀!」
デモンベインが再び剣を握る。
それは衛宮士郎の投影ではない。デモンベインと《ネクロノミコン新釈》が持つ正常な機能を今のこの瞬間、掌握したのだ。魔を断つ剣の本来の担い手達ならば触った瞬間にでも使いこなすであろう業だが、士郎と《ネクロノミコン新釈》は互いの深い繋がりの果て、ようやく今、そこへと辿り着いた。
寸分違わぬ形の黒い偃月刀は同じ軌道を描き、ただ一合で互いを砕く。
衛宮士郎が辿り着いた境地の証は、ほんの一刹那も保つことはなく、コクピット内の小さな偃月刀もまた半ばで折れた。
――が、それでいいのだ。
「
さらにその刹那ののちには、デモンベインは再び偃月刀を手にしていた。今度こそ、投影による複製剣である。
(やれる!)
アイオーンの右手にもう武器がないことに、士郎は己の読みが正しいという確信を強めた。
皇餓の時と同じだ。
士郎があらかじめ用意した投影に、鬼械神の武器作成は時間という点においてやや劣る。または、アイオーンの偃月刀は皇餓のように無限に作り出せるものではないという可能性もある。
いずれにせよ、総力戦となれば太刀打ち出来ようはずのない最強の鬼械神だが、今、この瞬間だけはデモンベインの偃月刀に無防備を晒している――!
士郎の裂帛の気合とともに振り切られた斬撃によって、アイオーンの右脚が半ばで断たれ、低空に浮かぶ機体のバランスが崩れた。
「とどめ――」
そして第2撃、下から上への斬撃をがら空きの胴へと叩き込もうとした、その時。
「――え?」
目の前が、何かで塞がれた。
スクリーンに大写しになった黒い円、或いは球か。よく見ればその周りには淵があり、穴が空いた筒のようなものだと分かる。
疾走する思考と割れるような頭痛の中で、それが巨大な銃口なのだと理解するのとどちらが早かったか。
「イタクァ」
静かな、何の感情も含まれない氷のような声とともに、火山の噴火を思わせる常識外れの銃声が轟いた。
2
「衛宮君、衛宮君!?」
えりの士郎を呼ぶ悲鳴は、ショックと恐怖で震えていた。
クラーケンを苦もなく圧倒してみせた士郎のデモンベインは、黒い鬼械神に一太刀浴びせたのみで、その左手にいつの間にか握られていた拳銃によって頭を撃ち抜かれ、本当にあっさりと敗北した。
メインカメラを頭部に据えた構造上、パイロットの士郎にしてみれば、直接コクピットを撃たれたように感じたことだろう。ショックで気絶しているかもしれない。
……いや、それだけではない。動けるはずがないのだ。
デモンベインとその周囲は、アイオーンの銃撃によって
銃口から発射されたのは、弾丸ではない。視覚化されるほどに圧縮された風、絶対零度近い極低温のエネルギーが雷光の如く放たれ、デモンベインの頭を吹き飛ばしながら機体を凍らせ、貫通して突き刺さった山肌をも一瞬で凍土となしたのだった。
倒れ込んだ衝撃で凍った上半身の装甲を悉く砕かれ、デモンベインは沈黙した。
(……あれじゃ、コクピットは)
未だ応答は全くない。外見上、コクピットは残っているのに。
……コクピットそのものは。
いやな光景が脳裏をよぎる。誰もいない凍り付いたコクピットの中、バラバラになって散らばった氷の破片。よく見れば、それは赤かったり黒かったり苦悶の表情を浮かべていたり……
「――!」
全力で首を振り、歯を噛み締める。
あれは気絶しているだけだ。まだ死んでない。まだ死んでない。まだ死んでない。
わたしが戦いに巻き込んだせいで死ぬなんて、そんなことが赦せる訳がない!
無理矢理に気合いを入れたのは、罪の意識の他に、やはりえりもまた、黒い鬼械神を恐怖しているからでもあった。
見た瞬間に我を忘れてしまった士郎ほど敏感ではないにせよ、敵が常識を外れた何者かであることも、肌で感じ取ってはいたのだ。
環境の改造すらしてのけることを前提として開発されたというネクロノームに、戦闘に特化した機械であるはずの鬼械神が純粋な魔力量で比肩しうるというのは、一体どういう非常識なのか。一体、何と戦うためにそんなものが必要だというのか。
アイオーンの下半身が緑色の光を放つ。見れば、デモンベインが斬った片脚も、綺麗に再生、いや復元していた。
そんなものを撃退することなど、誰にできるというのか。
「衛宮君、衛宮君、起きて、早く逃げて!」
言葉は届かないのか。少しずつ成長を続けつつあった魔力も、今は感じない。
デモンベインを傲然と見下ろす黒い鬼械神は、とどめを刺すつもりはないのか、今度はヴァルナへと拳銃を向ける。
再度、轟音。
デモンベインを一撃で葬ったその力を、えりとヴァルナは今度こそはっきりと目にした。
(……竜?)
そう見えたのは、おそらく錯覚だったろう。引き金が引かれた瞬間、白い竜が咆吼し、羽ばたいたような気がしたのだ。実際には、直線上の白い閃光だったのだが。
対するヴァルナが用意した氷の盾は5枚。敵にデモンベインを完全破壊するつもりがないと踏んで、準備に使える時間をフルに使い集中に集中を重ねた分厚い防御壁である。
「っ、きゃあああ!」
しかし、放たれた光はそれらを苦もなく貫き、咄嗟に回避しながらも巻き込まれたヴァルナの触手は数十本、熱を失って砂と消えた。
『……ぐ』
ヴァルナの呻き声を聞くのは初めてだ。感情が豊かになった証か、それとも、それほどの事態ということか。
なんにせよ意味のない感慨に耽る場合でもなく、黒塗りのデモンベインもどきは徐々に高度を上げながら3度目の射撃に入ろうと、狙いを定めようとしている。
「……ヴァルナ」
(光頼君……!)
頼れる人、頼りたい人の名を心に念じながら、パートナーへの命を下そうと決意する。
やはり、声は震えた。歯の根が合わず、目のあたりも痙攣している。
しかし、応えた声は力強く、暖かい。
『分かっている。えりは、自分を守りたい。助かりたい。死にたくない。わたしや士郎を守りたい。助けたい。死なせたくない。そうだな?』
頷く。
結局、我慢しきれずに涙が零れた。
「……おねが、い、あい、つを」
しかし、言わなければならない。既に理解しているのだ。あの鬼械神を押し返すことなど不可能だということを。あれと戦うということは――
「え?」
ふと気付くと、コクピットの中、足下から伸びた金属とも生物ともつかない触手が、えりの手を握っていた。その不思議な温もりが、えりの精神を宥めてゆく。が、今はそれが言葉を余計に詰まらせる。
しかし、えりの意志は、しっかりとヴァルナには伝わっているのだった。
えりに背負わせるものなど欠片もないと、ヴァルナは言葉を遮って静かに宣言する。
『分かっている。わたしはえりを誰にも傷付けさせない。士郎も守る。わたしは、わたしの意志で敵鬼械神を攻撃する。破壊する。
ヴァルナは周囲に氷の槍を作り出し、士郎の投影剣の如く敵鬼械神へと掃射する。
対する黒い鬼械神は銃は下ろしたようだったが、前面に光の五芒星による防禦陣を展開して槍を消滅させながら、第3射を放つ隙を探っているようだった。
その五芒星防禦陣の強固さたるや、氷槍3本で消滅していたクラーケンのそれとは比較にもならない。数十という槍を受けて、未だ本体へと届いたのは零である。
第四の結印は
尤も、ヴァルナもそんなことは理解できている。
あの銃だけは撃たせてはいけない。風の神性が篭められたあの射撃の前に、ヴァルナの作る氷の盾など火矢に対する障子紙にも劣る。こちらが今すべきことは、効かないまでも、無視できない攻撃を繰り返すこと。結局のところ、これは牽制なのだった。
無理な接近は控えて空中を移動しながら、首もとから生えた数百の触手を天に向けて蠢かす。触手は、ヴァルナの頭頂部の五角形を中心に咆吼を始めた。
それはおよそ地球上のどんな獣にも似ることのない、金属的な咆吼だった。触手の一本一本が振動し、共鳴し、増幅し、この世にあり得ない異界の唄をうたう。
その唄に呼び覚まされるようにして、頭頂部がふくらみ、巨大な眼を思わせるレンズ状の物体が現れて輝き出す。
ヴァルナは、水の魔術機は今、全力で魔術を行使しようとしていた。
最初に聞こえたのは、口笛だった。
「……?」
鬼械神アイオーンの中で首を傾げる。
もし、今の彼女に戦闘以外へと回す意識と情緒があれば、コクピット内のスピーカーから流れるそれが、グリーンスリーブスというイングランド民謡だと気付いたろう。
尤も気付いたとて、曲と現在の状況を結びつけることなど、誰にもできはしなかったろうが。ましてや、
結果として、それがネクロノームの
「――!」
思わず、呻き声が漏れる。
機体の動きが止まる。辛うじて飛行制御は取り戻したようだったが、
気が付くと、ネクロノームの姿はどこにもなかった。
魔力、光学情報、完全にゼロ。完璧な迷彩魔術であった。
――Alas, my love, you do me wrong……
口笛に合わせて、若い女の歌声が聞こえてきた。
いつの間にか上空に現れた黒雲は空を覆い、星を隠し月を塗り潰し、その場を真なる夜の闇へと変えてゆく。
風がそよいだ。と思えば、次の瞬間には強風が吹き荒れている。
ネクロノームは、かなり大規模な気象制御を試みているようだった。
水属性のネクロノームが起こす風に、対象を切り裂く能力はない。つまり、それは気象制御によってネクロノームの連れてきた、天然自然の嵐と同じ物だということだ。
――To cast me off discourteously……
やがて雲は水の粒となり、重力に従い落下アイオーンの装甲を叩き始める。
気が付けば、姿勢制御に気を取られたアイオーンは、随分と風下へ流されてしまっていた。
今、下には巻き込む人間はいない。
街の灯も、道行く一般人も、帰途につく会社員を乗せた電車も、旅客機から放り出された半死人も、混乱に包まれる病院も、デモンベインも!
――For I have loved you well and long……
ひゅん、と風を切る音に気付くのと、どちらが早かったか。前面に展開させた防禦陣に槍がぶち当たり、火花を散らして消滅した。
それだけならば、今までと同じだった。しかし、今のアイオーンは半ば機能不全の状態にあり、陣は大きくたわむ。3つや4つ喰らったところで維持できなくなるようなことはあるまいが、万全の防御力からすれば半分以下の薄さだ。
さらにはこの暴風雨の中、飛んでくる槍の方向を見失う可能性が高まるのは痛い。
――Delighting in your company……
暴風雨?
アイオーンを駆る者の脳裏に、何かが引っかかる。
何か重大な勘違いをしている気がする。
確かに、精神束縛の呪いで弱まった自我により今回は干渉を許したが、抗体が完成し、再びコントロールを取り戻せばそんなものはすぐに振り払われる類のものだ。機能の完全掌握が出来ず、防禦陣が破れない以上、どれほど上手く姿を隠そうと意味はない。目眩ましに意味はないのだ。
(……違う)
根拠はなかったが、彼女は痛む頭の中で否定した。
風は問題ではない。デモンベインから引き離すという目的もあるだろうが、それはおそらくついでのようなものだ。
今問題にしなければならないのはこの土砂降りの雨。そして敵の攻撃。
そして敵の武器は何だ。そしてそれは何で出来ている?
槍だ。氷の槍だ。
氷とは何だ。何の凝固系だ?
3
「こう……たり?」
その歌声は、確かに神足えりによく似ていた。
いや、同じなのかもしれない。違和感があるが、声質は間違いなく彼女のものだと思えた。
倒れた士郎は凍り付いたコクピットの中、地球上の全ての雨雲を集めているのではないかと思えるほどの豪雨と画質の悪いサブ・カメラで見失いそうになりながらも、遠くで大魔術に翻弄されているアイオーンを茫洋と見つめていた。
寒くはなかった。いや、正確に言うなら、身体の感覚が既に無かった。
口笛と歌と、そして雷鳴だけが響く朦朧とした意識の中で、ああ、俺はやられたのだな、という実感だけがあった。
ヴァルナは歌う。
魔に属する者にとってすら非常識な広域魔術を、ただ乗り手の記憶から無作為に引き出した唄を呪文に、自身の頭頂部、五芒星を魔法陣に。
あまやかな雰囲気の歌ではないにせよ、この恋の歌を聴いて今の嵐を連想する者はいまい。奇怪と言うなら、そのアンバランスさこそが最も奇怪。
ネクロノームは唄う。
求めるもの。呼ぶもの。叫ぶもの。破壊するもの。歪めるもの。引き裂くもの。奪うもの。燃やすもの。穿つもの。戦うもの。
その本能を剥き出しにして、しかし繊細に、修正を巧みに擦り抜け、或いは真っ向から押し止める無数の呪を放つ触手群は、ただ異妖。
ヒトデ型の器官を頭部に設えて創造主を模しながらも、怒れる竜の如き触手群を首から数百と生やし蠢かすヒト型、水を操るその異形は、一体何のミニチュアなのか。
水の魔術機は謳う。
限りなく局地的な殲滅を。
数万、数億という年月のサイクルで繰り返された神話の再来を。
古きもの、大いなる種族、栄える街、凍る大地、沈む新天地、反逆される創造者、旧き支配者、旧き神!
図らずも、神話
――Greensleeves was all my joy……
「う……ぐぅぅ」
他の感覚はないというのに、これ以上の激痛は無いと思っていたのに、頭だけは痛みを増し続けている。識り得ぬ知識、発し得ぬ言葉が、それを理解できない士郎の脳を傷付ける。割れた頭蓋の中に焼け石をバラ撒いて木の実と一緒に引っ掻き回されているようだ。
このままでは、ヴァルナとアイオーンの戦いが決着を見る前に自分自身がどうにかなってしまいそうだった。
ふと、雨音が弱まったような気がした。
デモンベインを押し流すほどではないにせよ、激しかった洪水の轟音も、今は聞こえない。
しかし、空は相変わらずの豪雨で、止む気配などない。
何故、雨が止んだと思ったのだろう?
――Greensleeves was my delight……
アイオーンの防禦陣が連続して光る。
落雷か、と思ったが、そうではなかった。
「あ……」
雨が止んだ、と一瞬錯覚した理由を、士郎は今になって理解した。
「氷の……槍」
地面を叩いていないのだ、
足りないのはただ材料だけだと言わんばかりに、自らの喚んだ雨を次々と寄り集め、熱を奪って槍に換え、その全てをアイオーンに向けていたのだ。
それらの一本一本は、アイオーンを傷付けることはおろか防禦陣を貫くことすら叶わない。長さ25メートル、直径に至っては3メートルはある巨大な氷柱は、役目を果たすことなく消滅し、または折れ、砕け、大地へと降り注ぐ。
しかし何があったのか、完璧な五芒星を形作っていた光の魔法陣は先ほどから歪み、ところどころ欠け、槍を受けるごとに輝きを失いつつある。
回復など許さぬとばかりに、無尽蔵の
そんな戦い方を、士郎は見たことがあった。
――Greensleeves was my heart of gold……
「は。俺……だ」
それとも、かつての仇敵だろうか。
究極の一には届かない、しかし数だけはある、と、戦闘を挑む敵に対しただ1人戦争を仕掛ける、反則ともいえる物量攻撃。その姿は、確かに士郎の知っている戦い方だった。
それは、つまり。
「俺、は……ほんとに、足手纏い……だったんだな」
衛宮士郎にしかできないことなどなかった、ということ。
重すぎるデモンベイン。大きすぎるデモンベイン。移動もままならないデモンベイン。空を飛べないデモンベイン。
そして、分不相応にも己と同じ道を征く者だと根拠もなく直感して、そのデモンベインでの戦闘に拘った衛宮士郎は、合流を急ぐべきだと主張するえりに逆らってまで戦闘を強いた。弱くとも、自分にしかできない戦い方は戦争を効率よく終わらせ、より多くを救うことが出来ると信じて。
しかし結局、士郎の剣は通じることなく、士郎の戦い方自体、真似の出来ない方法などではなかった。純粋なエネルギー効率から言えば、間違いなく士郎の投影は破格だったろうが、彼らはそもそも分母が違ったのだ。
ネクロノームの乗り手から見れば、ただの巻き込みかねない一般人でしかなかった。
「無様……だな」
氷室のようなコクピットの中、乾燥した眼球のおかげで涙を流さずに済むことだけが幸いだった。
――And who but my lady greensleeves……
歌は終わった。
そうしてついに、鉄壁を誇った防禦陣が破られる時が来た。
幾百、幾千という苛烈な氷柱の雨の末、五芒星を中心に据えた光の円はガラスのように砕け散り、消え去った。
アイオーンは胸をめがけて一直線に進んできた氷槍を左手の拳銃で弾いたが、まともな像を結ぶことすら今や怪しかった銃は、その一撃で破壊された。
そうなってしまえば、あとは早かった。
用意された数十体の鏡像は数百本の槍に貫かれて消え、首はデモンベインさながらに吹き飛ばされ、装甲は厳つい飾り鎧の如く棘だらけになり、コクピットを庇った左腕は肘から先を失い、次々と突き刺さる槍に、繋がっている部分が腰から下を支えきれず、下半身は墜ちた。
巨大な3枚の翼はうち2枚がもがれ、バランスを崩しながら浮くのがやっと。こうなっては移動もままならないだろう。
撃墜される寸前のロードビヤーキーですら、ここまでは損壊してはいなかった。士郎を恐怖の虜にした最強の鬼械神は、より旧き殲滅兵器であるネクロノームによって数分の間にハリネズミと化した。
槍の雨が止むと同時に、雲に切れ目が入り、星が見え始めた。槍にする水分が足りなくなったか、それとも気象に大きな干渉をするだけの魔力がなくなったか。
ここまでの広域魔術を制御してみせたヴァルナに驚嘆するなら、その氷柱の嵐の中、コクピットを守り抜いたアイオーンもまた賞賛されるべきだろう。
「いぃやあぁぁぁっ!」
戦場に響き渡る奇声。
見れば、遥か数キロの彼方、迷彩に使う魔術すら尽きたのか、姿を現し一際長大な槍を抱えて飛行するヴァルナがあった。至近距離から確実にコクピットを潰すつもりなのだろう。辛うじて浮いているのが精一杯のアイオーンめがけて、一直線に飛んでゆく。
士郎はそのヴァルナに、長い金髪を振り乱して破壊の歓びに狂乱する少女の姿を幻視した。
――それは、駄目だ。
「ぐぐ、ああうわあぁぁぁっ!」
これ以上の痛みはないと先ほども思ったばかりなのに、その瞬間頭痛はさらに酷くなった。文字とも声ともつかない何かが、危機感を直接絵に変換して脳味噌に刻み込もうとする。
何故、何が駄目なのか。彼女に人を殺させたくないからか。
ああ、それもあるだろう。素早く、士郎は肯定した。
自分にできることがないからといって、えりを傷付けて良いわけがない。弱い自分でも身体1つ満足に動けば何かが出来ると、そう思ったからこそヴァルナにも正義の味方のことを話したのだ。あれは、彼女が背負うべきものを減らすという約束ではなかったか。
しかし、それだけではない。
「駄目だ、こう……たり……」
では、あの赤毛の優しい少女とは似ても似つかない、何処か妖艶さを漂わせながら鬼気を放つ幻の少女に危ういものを感じたのか。
それも間違いではない。アレは嗜虐に見えてその実、自虐の塊だ。何故そんな呪いをヴァルナが身に受けているのかは分からないが、放っておきたいものでもない。
だが、理由としてはまだ弱い。
そう、そんなものは些細なことなのだ。理由は明らか。一目瞭然。
どういうわけか、ヴァルナと神足だけがそれに気付かない。
「そいつに近寄るな、ヴァルナぁぁぁっ!」
アレは、まだ終わってない――!
そう、歌は終わったのだ。
見ている者には異形が攻撃とともに口ずさむ狂気の歌でも、アイオーンを駆る者には束縛の証。それが聞こえなくなったということは、即ち鎖を断ち切ったということ。
アイオーンは悪態をつくことも悲鳴をあげることもなく、ただその命と、反撃の機会を守ることだけを優先し、そのほかの全てを切り捨てて耐えてみせた。
頭、左腕、下半身を失い、翼も半ば用を為さぬものへと成り果てた。無事な装甲などなく、意志に従う箇所に至ってはただ2つきり。
だが、その2つこそ、残さねばならない切り札でもあった。翼を畳み身を捻り、辛うじて守り抜いた。
その2つとは、パイロットの生命、全ての魔術を司るコクピットと、
右腕である。
そしてアイオーンは目の前の空間、二重螺旋を描く光の中から魔法使いの杖を引き抜いた。
4
「おやおや。どちらも張り切っちゃって」
その劇的な光景を、彼女が見逃すはずがないのだった。
口元には苦笑。目には蔑み。女は何も存在しないはずの天空に腕を組んで立ち、無様に倒れたデモンベインを憐れんでいた。戦うヴァルナを称えていた。機を待つアイオーンを嘲笑っていた。
女――ナイアは、まるで初めからそこにいたような風であったが、しかし先ほどの建造物すら土台から剥がしかねない暴風雨の中にいたとは誰も信じまい。一滴たりとも水を滴らせることなく、また髪が乱れることもない。
ヴァルナは加速しながら、とどめの一撃を見舞うべく突き進む。必殺のために全力で造ったのだろう、持つ、というより腕で抱きかかえた感のあるその氷槍、長さは実に100メートルを超え、直径は10メートルほどもある。
それは既に氷柱と呼ぶことも出来ない、巨大な氷の
対するアイオーンは掴んだ長大な杖を、正面、遙か遠くから迫るヴァルナへ向けるべく、ゆっくりと持ち上げ始める。およそ50メートルと、大きさこそヴァルナの氷槍の半分ながらも、秘めたる魔力は決して劣らない。鬼械神の全長に届くその杖の端には、引鉄があった。
本来両手で支えるべきその奇怪な杖を、アイオーンはぐらぐらとバランスを崩しながら水平にする。
ナイアはぬかるんだ大地に半ば埋まりながら臥するデモンベインを見下ろし、嗤う。
「さあさあ、いよいよ決着の時。士郎君、君は一体いつまでそこで狸寝入りを決め込むつもりなのかな?」
聞こえるはずのない聲、届くはずのない言葉。
「ああ、ネクロノームの力は強大だ。太古の昔に地球を支配した者達の技術の集大成と言っても過言じゃあない。5機揃えば、この僕だってここから否定されかねない」
煽るように、宥めるように、自分をただの観客だと思って見ている最前列の人間を舞台へと誘う司会のように。
「けどね、僕は君のことも待っているんだ。早く早く、君にして欲しいことがあるんだ。君にしてあげたいことがあるんだよ」
亀裂のような笑みで、ナイアは士郎を
「さあさあさあ、こんなに面白い時に、女の子だけで戦わせてる場合じゃないだろう? 早く起きなきゃ、大変なことになっちゃうかもしれないよ?」
――そんなことを、赦せるわけがなかった。
「――ぐ」
床だか壁だか分からないが、とにかく凍って貼り付いた背中をぱき、と引っぺがして立ち上がった。
「む?」
妙な引っかかりを感じて見てみれば、剥がれた左肩から背中にかけて
「良し、動く」
気にせず、デモンベインを再起動する。
左腕がないとかごちゃごちゃとエラーらしきものを喚いてきたが、《ネクロノミコン新釈》を通して黙らせた。
あまりに深く繋がりすぎたせいか、ぴしり、と衛宮士郎にヒビが入った。
やはり気にせず、素早くデモンベインを立ち上がらせ、走らせる。
(間に合うか――)
間に合うはずがない。
ヴァルナもアイオーンも飛行しているのだ。雨が止んで距離感がやっと掴めたが、位置的にもかなり離れている。
ならば、こちらも何かしなくてはなるまい。
「断鎖術式一号――」
――脚部シールド破損のため――
「
破損箇所など今でも分からないが、
お前が盾で、存在意義がほんの僅かでも残っているのなら――
「ティマイオス、解放」
――今だけでも良い、応えてみせろ……!
エラーを無視した命令の強行に、未だ持ち得ない機能を要求された魔導書は、衛宮士郎の精神を代償に要求しながら、自身もまたボロボロと少しずつほどけてゆく。
しかし、デモンベインの右脚ごと盾が爆砕する不完全な出来ながらも、空間の歪曲は発生してくれた。
圧縮空間の復元による反動で、デモンベインはこれまでにない跳躍を果たす。
だが、まだ足りない。
デモンベインの重量を持ち上げるためには、やはり両脚のシールドを解放しなければ満足な跳躍力は得られない。しかし、左脚の盾はクラーケンに砕かれた。そも、半分しかなかったあの状態では、いくら強化を施そうと起動は不可能だったろう。
どうすれば良い、何をすればヴァルナを止められる。何があればアイオーンから神足を守れる……!
針千本のアイオーンは、自らの生きているのも奇跡な状態にも全く頓着することなく、ゆっくりと長大な杖を動かし、空中を突進するヴァルナに向けてぴたりと据えた。
「神銃形態」
あり得ない形に、杖の先端が
金属的な輝きを放つ杖はその先端に穴が空いていた。アイオーンの右手の指は引鉄に。そして杖の周囲に幾千幾万と顕れる光の魔法陣。否、魔砲陣。
しかし、それでは間に合わない。
ヴァルナとて、風属性ではないにせよネクロノーム。その飛行速度は決して遅い訳ではないのだ。このままでは、杖の準備が整う前にアイオーンのコクピットはヴァルナの抱える100メートル近い氷の突撃槍に貫かれて、否、潰されてしまうだろう。杖の制御に集中していては、あれだけの槍を防ぐ防禦陣は展開できまい。事態は既に王手詰みだ。
……このままならば。
「ぐ……!」
デモンベインの背面にあるバーニアを噴かす。近接呪法の接近・離脱用に僅かに残されていた推進剤が機体を押し上げ始める。
と同時に、右手に投影した捻れた剣を、そのまま背中に放り投げ、
そうしてようやく、アイオーンに届くであろう跳躍力を得た。
「――!?」
ぎょろり、と14の目のうち半分がデモンベインを見る。
ヴァルナは今この瞬間に至って、飛んでくる首のないデモンベインに気付いたようだった。が、スピードを緩めることはない。
それも当然。ヴァルナにも、アイオーンの魔術が間に合わないことは理解できているのだ。今止まるのはむしろ自殺行為だと、普通は考える。
そしてやはり、デモンベインとヴァルナ、アイオーンに届くのはヴァルナの方が先だった。その突進を緩めることなく、その胸に槍を突き立てる――
――だが、駄目なのだ。
「逃げろ、神足ぃぃぃぃぃぃ!」
士郎のその叫びに重なるように、
「アトラック・ナチャ」
士郎の熱に反比例するかのような冷たい声が響き、アイオーンの背から伸びた赤い光が突き出された槍を絡め取り、ほんの数メートル、槍を逸らす。
ダメージの量をいうなら、致命傷に違いないだろう。槍は間違いなく胸に突き刺さり、左肩は落ちた。コクピット内にも被害が出ているかもしれない。
しかし、その瞬間、殺し損なったという事実こそまさに致命的。
「――
え、という呆気にとられたえりらしき声に頓着する暇もあればこそ。士郎は呪文を唱えながら己の中に埋没する。
デモンベインはヴァルナのすぐ前に飛びつき、槍に胴体をぶつけ、右腕でヴァルナの腰を抱くようにして掴まった。
重量を支えきれず、落ち始めるヴァルナ。しかし、アイオーンもまた逃すつもりは毛頭なく、それに合わせて
(間に合うか――)
魔導書に喰われる? 何をそんなことでビクビクしている。
頭が痛い? もっと痛いことなど、いくらでもあるだろう。
何が怖いって、目の前で誰かを守り損なうことより怖いことなんて、あるわけがないじゃないか。
そのためなら魔術回路は魔導書にくれてやる。大気の魔力など吸い尽くせ。今必要なのは敵を打倒する剣ではないのだ。
一時でも、何もできないなどと何故思ったのか。衛宮士郎の力は今こそ必要な時だろうに!
「
敵が万物を撃ち貫く弓を持つとしても、
「――
こちらは億の矢を折る城壁を築いてみせる――!
デモンベインとヴァルナの前面に展開される、7枚の輝く花弁。
それこそがアイアスの盾、衛宮士郎が識る中で最強の守り。使い手の手から放たれた武器に対し、確実に所有者を守ると伝えられる概念武装。
その最強の盾の出現とほぼ同時に、女の冷たい声が響く。
「クトゥグア」
世界は、光に包まれた。
5
そこは、既に山ではなかった。
少し前までの、暴風雨と呼ぶのすら生温い異常気象も跡すら見せず、荒れ地と化していた。
植物はなく、大地は何か丸いスプーンで掬い取ったかのようにえぐり取られ、ガラス状の光沢すら放っている。
土砂崩れも洪水も、そこには無い。蒸発し、融解したのだ。
そう、そこはもう荒野ですらない。
ただの焦土だった。
火事すら起こらない。燃焼する物がない。一瞬の惨事を今なお物語るのは、その大地と、ところどころからもうもうと上がる水蒸気のみ。
その空間に、異変が生じた。
深い夜闇になお黒い、20メートルを超す巨大な穴が天空に。
そこから顕れたのは、1機。
空間転移。現代を以てなお魔法とされる非常識を事も無げに体現し、1体の異形が出現する。全長17メートルの怪異なるヒト型。ネクロノームである。
その胸が開き、現れたのはサングラスをかけた黒いスーツの男だった。
「鬼械神だな」
言わずもがな。
今なお残る濃密な魔力を以て、このような破壊を為せるのは鬼械神とネクロノーム、そしてほんの一握りの精霊だけである。まさか自然霊がこんな真似をするわけもなく、人為によるものなのは間違いないだろう。
『どうする』
「神足えりは生きているか」
ネクロノームの言葉に答えず、質問を返すのは、若い男の声である。
震えてはいないが、そこには感情を押し殺したような硬さがある。声を圧しているのは憤怒か、屈辱か。
『位置の特定は出来ないが……〈ヴァルナ〉は生きている』
「ふん」
戦線に加わる意志ありという報告を受けて正気を疑ったが、これだけの破壊の中、ぎりぎりの一線は守ったということか。
本人がどうなったかは知らないが、アレで戦おうなど、本当に余計なことをしたものだ。アレは戦闘を目的として取り合っているわけではないというのに。
尤も、そいつがいなければ出現の時点で奪われていた物だ。どう使おうが勝手というのが言い分かもしれないが。
(それにしても、だ)
戦った奴も戦った奴だが、この惨状を作り出した奴も一体何を考えているのか。アレを無事な形で欲しがっているのは確かな話だと踏んでいたのだが。
それとも、アレ――《門》から顕れた神こそが、破壊の張本人なのか?
可能性がゼロというわけでもなかろうが、神足えりからの報告からして考えにくいのも確かだ。
「まさか、今になって必要なくなった、とでもいうのか?」
それこそまさか。理外の考えというものであろう。突拍子がないにもほどがある。
事実、この場にない――破片1つ残らず消滅した可能性も否定は出来ないが――以上、経緯はどうあれ奪われたと見るのが無難な推測であろう。
が、妙に引っかかる。
そもそも、奴らは何のためにあの神を必要としたのか。こちらの予想通りならここまで強引な手には出ることもないと考えたのだが、甘かったということなのか。
「後光院のキュクローペスと合流するぞ。……脇屋が道案内を引き入れたらしいしな」
苛立たしげに指で腕を叩いていた男は何を思いついたか、それとも判断を保留したのか、ちらと何もない空を見上げると、腕を解いて再びネクロノームの胸の中へと飛び降りる。
「糞……後手に回り過ぎだ。まるで俺と合流する直前を狙ったようじゃないか。旧支配者め」
乗り手の悪態を聞いているのかいないのか、ネクロノームは再び空間に穴を開ける。そうして、何処へともなく消えてゆく。
あとに残るは、やはり熱気が立ち篭める静寂の焦土。
そして、一柱の邪悪なる異形である。
「この際僕は無視、と。いやはや、賢いというかなんというか」
苦笑するしかない。
敢えて身を隠していたわけではないにせよ、自分で発見してのけるとは、流石はネクロノームに最も長く触れている者ということか。神の気配を察知することにかけては「彼ら」にも届くかもしれない。
その上で彼女をいないものとして扱うあたりに関しては、むしろ「彼ら」よりも冷静というべきか。
「しかし士郎君達も良い具合だね。もう少しかな?」
ナイアは嬉しそうに、本当に嬉しそうに
彼女の笑顔は、いつも生温い。
「さあ、これにて第一幕は閉幕。このたびの主役達は中核にして外郭。事の中心に最も近く在りながら、それでいて一切を知らされることなく、ただ戦い続け、抗い続けることだけを許された雄壮にして哀切なる勇者達の物語」
いつものように幕を宣言する異形。その瞳が向けられているのは、魔術機が消えた虚空か、それとも憎らしい神の力が顕現した痕跡か。
「さて、彼らの運命、悪夢の続きはしばししばし。真なる舞台に集う主人公達の全てを未だ語り尽くしていない故」
彼女は識っている。筋書き通りに彼の地へ集まってゆこうとする光があることを。
「次の物語、次の次の物語は僕でない僕、我を生んだ我、私が生んだ私の見た同じ時、違う地のこと。それまで彼らにはひとときの、そしてしばしの休息を」
一体誰に対してか、三ツ目の神は道化の如く深い深いお辞儀をして、姿を消した。
近付くのは、ヘリのローター音。報道陣か、それとも救助隊か。
彼らは何も見つけることは出来ない。そこには本当に何もないからだ。
幕は下りた。舞台は移った。事の顛末を識らぬ
一見して非常識と分かるこの惨劇もまた、いずれ神も戦士も登場しない事件へと形を変えるだろう。そして、巻き込まれた者以外は、そこで何が起こったのか知ることはない。
ほんの一瞬、真昼のように輝いたその山だった場所は、やはり既に闇に包まれ、静かに眠る。
涙することもない。大地は識っているのだ。その場の舞台としての役割が終わったことを。
そしてその日、あるひと組の正義の味方が、敗北したのだ、と。
異形に見初められた死の大地は、そのことに安堵するかのように、ただ静かに眠りについていた。