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1
――によって発見され、通報された。爆発について、寮を経営している大学側は寮生の不注意によるガス爆発という発表をしているが、不思議なことに火災は起きておらず、ただ壁に何かで穿たれたような大きな穴が空いているのみである。また同時刻、外を歩いていた市民によると「UFOが飛んでいた」「巨大な怪物を見た」等の荒唐無稽な証言もなされ、情報は錯綜している――
「なんだこりゃ。アーカムじゃあるまいし」
外国人向けの日本語新聞――日付は3月23日となっている――を斜め読みしながら、呆れ顔で呟いたのは東洋人の少年である。
日本人観光客や留学生も少なくはないにせよ、前髪の一房を青く染め両耳にピアスをした、一昔前の日本で見かけたような中途半端に不良じみた格好は多少奇異ではあった。が、特別目立つかと言えばそうでもない。
「まあ、まるきり間違いでもないんだけどな」
溜め息でもつくような調子で嘯いた少年は立ち読んでいた新聞をゴミ箱に押し込んで、再び歩き出した。
そのさまは、慣れた道を颯爽と、という雰囲気ではない。不案内な街を興味深げに、そして僅かな不安混じりにきょろきょろと視線を泳がせながら、時折立ち止まっては革のジャケットのポケットから地図を取り出しては位置を確認している。典型的なおのぼりさんという風であった。
かつて霧の町と呼ばれ、また一時はスモッグの町と揶揄されたこの地がその神秘と汚名を同時に振り払って久しいが、それでこの迷路のような街路の見晴らしが良くなったかというと、無論そうではない。
いわゆる大都市と呼ばれる街は往々にしてそうなのだが、ここロンドンもまた住み慣れた者以外にとって迷いやすい土地であるのは確かなのだった。
『光頼、次を右だ』
「っと、あいよ」
しかし、かといって長く足を止めることはない。
少年には、他人には聞こえない声で上空からナビゲーションを行ってくれるパートナーがいるからだ。
「なあベントゥス、俺思うんだけどさ、地図、要らないんじゃないのか?」
光頼と呼ばれた少年は口を尖らせ、おそらくは空からこちらを見ているのであろう相棒に愚痴を垂れる。
いかにも田舎者という風に歩き続ける己の姿を鑑みて羞恥心を刺激されたこともあったが、純粋な効率の問題として、相棒の声を頼りに進んだ方が早いのではないかと思ったのだ。
正直なところ、長居をしたい土地でもない。
『会話の頻度を上げて、そして協会や最悪の場合アンチクロスに探知されるのか?』
「む」
確率は低いが、あり得ないとも言い切れず、思わず唸る。
今向かっている先こそその魔術協会、そして求めるものこそアンチクロスが狙っていたはずの《門》の情報であるのだから。
完全に後手に回ってしまったとはいえ、ここロンドンの地に開いた《門》で何が出現し、そしてそれがどうなったのか? 最低限そのことは突き止めなければならない。そうでなければ、次の手が打ちようがないのだ。敵の本拠地が不明なままである今、その目的を知る手がかりはできる限り集めたい。
既にこの場を去ってしまったアンチクロスに出遅れた言い訳ではないが、鬼の居ぬ間に、という気持ちもあるのだ。
しかし、お尋ね者も同然の光頼ら5人に対し、協会が友好的な存在かというとそんなこともなく、情報収集のための接触で官憲に突き出されれば元も子もない。そういう意味では、正体を隠すべしというベントゥスの指摘も尤もなものではある。
数年前、各国軍やコスモ・マトリックス等の組織による5機のネクロノームの奪い合いによって、世界的な大災害が起きた。それは、奪い合いに乗じて復活を果たしたネクロノームの「親機」、〈N〉による影響が大きかったのだが、そのことを知らぬ各国が出した結論は「全ての元凶はネクロノームと5人の乗り手にあり」であった。
その結論は状況からの推理以上に、ネクロノームへの畏怖と恐怖が生んだという側面もあり、それを「誤解だから」等という言葉で覆せる筈もなく、5人は〈N〉を撃破したのち、ネクロノームごと身を隠すことになった。
その当時ほどの厳戒態勢ではないにせよ、現在においても軍に発見されるのは避けねばならない。ある意味で、法の番人は魔術師を相手にするよりも遥かにたちが悪い。
そういう訳で、できればどんな対応を取ってくるか分からない協会の組織そのものではなく、光頼らのことを知らない末端の魔術師や、或いは偶然事件の現場を見かけた一般人との接触を図りたいのだが、さりとてそんな良い方法が浮かぶわけでもなく、まずは軽く探りを入れてみようというのが今回の主旨である。
「ええっと、時計塔ったらビッグ・ベンだよな。てことは……ん? ひょっとして反対方向じゃないのか?」
今度こそ迷うものか、と地図を睨みつけている光頼に、返ってきたのはやはりというか、嘆息である。
『国会議事堂に行ってどうするつもりだ光頼。その道をまっすぐ、目的地は大英博物館だ』
この男はなんという勘違いをしていたのか、と言わんばかりに大袈裟に呆れてみせる相棒の声に、光頼は今度こそ羞恥で赤くなる。
「わあったよ、まっすぐだな」
怒るな、あいつにゃ口では勝てない。
そう念じつつ、燻る感情を深呼吸で押し流しながら、それでも多少荒々しく足を踏み出したときだった。
「きゃっ」
「っとと」
ちょうど交差点にさしかかったところで、横合いから急ぎ足で歩いてきた女性とぶつかってしまった。抱き留める形になったので転ばせずに澄んだのが幸いだったが、完全に光頼の不注意である。
――この、急いでいるときに!
「わ、悪い。俺も急いでたんだ」
思わず日本語で謝ってしまったのは、その苛立ちを押し殺しているとひと目で分かる視線に気圧されたあまり、そう罵られたような気がしたからだった。
対する女はやはり言葉が通じなかったのだろうか。一瞬きょとん、とした顔を見せたのち、光頼の慌てた顔に多少溜飲を下げたのか、改めて英語で謝罪する前に表情を和らげた。
「いえ、こちらこそ失礼。貴方もお気をつけなさいな」
そして早口の英語でそう言って、足早に去っていった。
『不注意だな』
「ああ、どうせ」
タイミング良く嫌味を言ってくる相棒に、光頼はふて腐れる。
相棒のいるらしき方向を見上げて何か言ってやろうと思ったが、しかし空模様を見て言葉を呑み込んだ。明らかに雨を含んでいると分かる黒い雲が、朝日を遮りながら空を覆いつつあったからだ。
この地の天気は変わりやすい。傘1つ用意することなく来たのは油断だったかもしれない。
(こりゃ、急がないとな)
本降りになる前に、雨宿りを兼ねて目的地へ到着しなければ。相棒との口喧嘩は戻ってからにしよう。そう決めて、脇屋光頼は気合いを入れて走り出した。
ぶつかった女については、その時にはもう忘れていた。
2
朝方から降り始めた雨は、昼を過ぎても止むことがなかった。
それが不満、という訳でもなかったが、椅子に腰掛けて窓を見据える少女の視線は厳しい。膝の上で握られた拳は固く、押しつけられたスカートもまた悲鳴をあげつつあった。
その顔にあるのは、雨が止めばすぐにでも飛び出していけるのに、というような子供の膨れっ面ではない。そも、そんなことを気にするたちでもない。行くべき場所があり、二本の足があるのなら、たとえ嵐の中を裸でも彼女はひた走るだろう。
そう、征くべき目的地が、誅すべき敵が分かっているのなら。
ぎり、という音。豪奢な客間に何度となく響く雑音。
それが何が発するものかは問うまでもないが、自分ではどうしようもないのだ。気付くたびに顎の力を緩め、強ばった拳をほぐすのだが、やはり数分後には同じ音を聴くことになる。
実のところ、彼女が外を見ていることにさほど意味はない。だから、降り続く雨に感傷を抱くこともない。そこまでセンチメンタルに逃避するほど折れていない、ということもあったが、もっと頭を支配して止まない光景が多すぎるのだ。
立て続けに起こる事件。消息を絶った青年、顕れた意識のない少女、襲い来る敵、そして奪われた主。全て昨日のことである。
であるというのに、一体自分は何をしているというのか。
勝てない敵ではなかった。そのことについては確信がある。そして、放置してはならない危険な存在であるという直感にも自信があった。その上でこのていたらくなのは、一体どうしてだ。
――全て、自分の判断ミスではないか。
再び、部屋に雑音が響く。
持てる力の総量が乏しかったのは確かだ。あの場で全力で戦闘していたら、次に続かない可能性が低くなかった。しかしだからといって、愚かにも撤退して逃げ切ることができるなどと考え、貴重な切り札を1つ使うほどのことだったろうか?
敵が1人ではない可能性くらい、十分に考えられたというのに、油断しきった挙げ句に守るべき者から離れてしまった。相手のために行動しているつもりで逆に窮地に陥らせてしまった。これでは弟子を叱る資格などない。
半壊し、大穴が空いた自室にいったん戻り、無事な中から持ち出せそうな物を一通り運び出したのは、奇跡的に辛うじて残っていた冷静さというべきか。放置していれば、この雨で間違いなく台無しになっていただろう。
だが、出来たことはそこまで。
本来、彼女達を保護すべき立場の者達は、《門》から顕れた少女の件のみならず、そこへ襲撃してきた魔術師や、あろうことか
《門》の一件に対して早々に決定された不干渉、そしてこの対応を見れば、彼らが関係していると悟っているのは間違いないにも関わらず、だ。事実上の箝口令である。
事件自体を闇に葬るつもりなのは明らかだ。当然、浚われた魔術師などこの世にはおらず、その使い魔も現界していない、というわけだ。
その挙げ句に――
「……っ」
圧し続けた呼吸に耐えきれず、喉が鳴った。
理解は出来ているのだ、そうするのがある意味で正しい選択だと。トラブルを避けるためではなく、この世界最大勢力を誇る魔術機関、その本拠地で暴挙を為した愚か者に確実な制裁を加えるために、だ。
協会は、断じて魔術師達の和気藹々とした互助組織などではない。ただ、組織という力が魔術を学ぶために必要な手段を寡占しており、結果として魔術師が組織を頼ることになるだけで、その本来の第一義は神秘の保存であり、隠匿である。
その神秘が余人の目に触れることを極度に嫌う彼らは、無論、ここまでの騒ぎを起こした――結果的には、その荒唐無稽さが却ってカムフラージュとなってはいたが――敵を放置するはずがない。
ただ、戦力か、それとも別の何かにかは分からないが、一度はそれに屈する形で多少なりと譲歩をしてみせた以上、その神出鬼没で目的も本拠地も分かっていない敵を誅するためには、必要な情報を揃え、準備が整うまでの短い間、敵対の意志そのものを隠すのが効率的なのだ。
その過程で、敵が蹂躙する事で生まれる僅かな犠牲を許容する必要があり、今回はたまたま彼女の主がそこに含まれていただけのことであり、それは組織ゆえの腰の重さ、小回りの利かなさではある。
そういう計算と選択なら、幾度となく経験したことだ。だから、組織の戦い方がどんなものであるのか、理解できる。彼女とて、事態が当初想定した以上に大きな規模で進行していることは感じており、その戦いに勝利すべき組織を動かす者であったなら、或いは似たような決断を下した可能性すらある。
しかし、現実の彼女の目的は勝つことではない。守ることなのだ。そも、誇りを棄て主を見棄てたところで、自分が動けなくなれば結局は意味がない。
「凛……シロウ……私は……」
「随分と怖い顔をなさっておられますわね?」
「――っ!?」
突然かかった声に肩を震わせる。振り向けば、すぐ横に女が苦笑して立っていた。どうやら、ノックの音はおろかドアを開けて入ってくるのにも気付かなかったらしい。
「っ、お帰りなさいルヴィアゼリッタ。気付かず――」
「構いませんわよ。貴女はお客様なのだからもっと楽になさいな。セイバー」
立ち上がろうとした少女――セイバーを手で制して宥めながら、女は向かいの椅子に腰掛けた。続いて部屋に入ってきた執事に命じ、2人分の紅茶を用意させる。
確認したことはなかったが、見た目の年齢はセイバーよりも少し上といったところか。派手ではないが立ち居振る舞いに華のある、いかにもお嬢様然とした女は、宿を失ったセイバーを前日の夜から客として迎えている屋敷の主である。
名をルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。ロンドン魔術協会に籍を置く歴とした正魔術師であり、セイバーの主、遠坂凛と主席争いをするほどの一級の実力者だ。
協会が凛とその使い魔をいないものとして扱うことを決めたため、セイバーが独力で情報を引き出すことは不可能に近い。そこで駄目でもともと、と何かと縁のある彼女に頼ってみたところ、意外にあっさりと協力を約束してくれた。
今日は朝から協会に出向き、セイバーでは得ようもない情報を仕入れてきてくれたのだろう。
そう思ってセイバーが身を乗り出すと、対するルヴィアゼリッタは口元に悪戯っぽい笑みを浮かべてきた。
「聞きましたわよセイバー。契約者の変更を勧めてきた魔術師を失神させたんですって? 見たかったですわね。次の時は是非呼んでくださる?」
その早口で達者な英語には嫌味がないから、純粋にその光景を想像して面白く感じているのだろう。しかし、それは正確な経緯とは言えない。
「わ、私が何かしたわけではありませんっ。ただ、マスターを失うことを前提とした物言いに――」
「
言葉を受けて上品に笑う女魔術師の姿に、ますます憮然とするセイバー。概ね事実であるのに加え、自分のために動いて貰っているという負い目があるために強く反論が出来ないのだった。
尤も、平時でも彼女に対し強く出たところで口で勝つ見込みがあるかどうか。話術――或いは詐術――に関しては、なるほど遠坂凛と張り合う魔術師だけはあると納得させるもので、特に凛ではない、セイバーのもう1人の主ともいえる青年にはまさに天敵の1人であるのだから。
「まあ、安心なさいな。その方の名前はちゃんとわたくしが記憶しておきますから」
覚えておくだけで、どうするとは言わない。
おそらく、具体的には何もすまい。せいぜいが話の種にするくらいであり、害のない悪戯があるくらいだろう。しかし、「何をするか分からない」という事実が聞いた者を震え上がらせるのだ。彼女はそれだけの実力と影響力を持った人物である。
セイバーに聞かせたところで意味のない表現ではあるのだが、その物言いから彼女自身もまた現状に憤っているのだ、ということが伝わり、少しばかり気が楽になったのも確かだった。
その顔を見て、ルヴィアゼリッタの笑顔も悪戯の色が消え、出来の良い生徒を見るようなものになる。
「険が取れてきましたわね。本題に移って構わないかしら」
「はい、続けてください。それでどうでした」
恥じ入りながら、先ほど用意して貰った紅茶に口を付ける。香草だろうか、どこか精神を落ち着けてくれる香りを嗅ぎながら、セイバーも気を入れ直す。
そう、今やらなければならないのは迅速に、そしてできるだけ多くの情報を集め、凛を救出すること。できればもう1人の主には知られずに、だ。
彼はセイバーを責めはすまい。ただ、同じだけ傷付くだけだ。そして自身の命を省みることなく走り出すだろう。そうなる前に、凛を救い出す。或いは最低限、走り出そうとする青年に具体的な指針を与えられる程度の情報を手に入れなければならない。
自身も紅茶で口を湿らせ、こほん、と咳払いを1つしたのち、女魔術師は語り始める。
「まず貴女の出くわしたアンチクロスですけど、わたくしの推測では特定の魔術結社、研究機関、宗教団体名ではないと思いますわ。同名の組織がいくつか存在するようでしたけど、それらしい力を持った集団ではありませんもの」
出典は黙示録だろうか。世紀末に一部で流行した終末思想の影響か、救世主の再臨の前兆として出現するという反キリストにちなんだ名を名乗る邪教徒、魔術結社の類は少なくない。
だから特定は難しいとセイバーは考えていたのだが、ルヴィアゼリッタは敢えて数ある候補をまとめてばっさりと切ってみせた。
なるほど言われてみれば確かに、協会が形式上とはいえ反抗に二の足を踏むだけの相手だ。その規模や実力を明確に把握できるならもっと違った対応を取るだろう。
中東や極東など、一部地域にはその影響が浸透していないにせよ、協会が魔術機関として世界最大勢力であるのは確かなのだ。厳密には協会は支配権を主張しているわけではないため、戦闘行為を含めた命令が押し通せるほど影響の強い支部は少なく、また魔術師であるからといって必ずしも戦争ができるような戦力を保持している訳でもないのだが、やはり最終的に組織の力とは所属する人間の数によって決定されるものだ。
仮にアンチクロスを名乗ったカリグラやその仲間がどれほど高位の術者であれ、それだけでは協会そのものに圧力をかけることなど不可能であろうし、考えもすまい。
「……ということは、アンチクロスとは2つ名か、称号、或いは役職や階級名のようなものですか」
「そうですわね。それでも、おそらく複数の人間を指す総称には違いないのでしょうけど。個人のあだ名がそのカリグラなのでしょう」
「ふむ」
そのあだ名は、ローマ帝国第3代ガイウス帝のことだろうか。即位して1年と経たないうちに重病に伏せり、快復した後は奇行が目立つようになり、在位4年で暗殺された暴君。
黙示録の獣がキリスト教を弾圧したローマ皇帝のことだとする説を根拠とし、その名を襲名するのだとしたら、さしずめアンチクロスのリーダーは初代皇帝アウグストゥスといったところか。或いは、獣の数と言われる史上最大の暴君ネロか。
「なんにせよ、無名の組織に協会が圧力を受ける謂われもない。つまり――」
「ええ。協会が早々に不干渉を決定した要因となる組織は、わたくし達が予想しているよりも遥かに規模の大きな、そして、少なくともわたくし達が生きる世界において有名なところということですわね」
カリグラは肝心要の組織名は言わなかった、ということだ。
そして、1つめの手がかりが意味を失ったということでもある。
「では――」
ゆえに、あやふやではあるが、残るもう1つの手がかりに望みを託すしかないということになる訳だ。
「魔導書、ですわね」
女魔術師の目が、微妙な嫌悪の色を見せた。
3
「こっちじゃさっぱりだ。魔術師って連中はなんであんなに秘密主義なんだか」
合流し、今はロンドン上空を飛行する〈風〉の〈n〉ベントゥスのコクピットで、光頼はぼやいた。
「ああもう……最近やられっぱなしだな」
計器やらハンドルの付いた、ロボットの操縦席というよりはバイクの運転席といった具合の小さな部屋の中、髪をくしゃくしゃとかき回しながら、そっちはどうなんだよ、と誰かに向けて話しかける。
「《門》からは鬼械神が出てきたらしいの。ただ、それを狙ってやってきたアンチクロスの鬼械神が旅客機を撃墜したりして――」
どこにあるとも知れないスピーカーから返ってきたのは、ベントゥスの低い声ではなく、もっと高く、澄んだ若い女のそれである。光頼は今、魔術機であるベントゥスとヴァルナを介して東の彼方、日本にいる神足えりと会話しているのだった。
その手段は、電波による通信ではない。それが不可能というわけではないが、今行っているのは、最も近い言葉を挙げるなら
精神投影体を直接相手のいる場所へ飛ばす、という高等な魔術を修得しているのは彼らのリーダー格、坊門啓だけであり、えりの顔が見られないのが残念だったが、それでも無事な声を聞けて、光頼は胸を撫で下ろしていた。
実のところ、光頼はえりを単独行動させるのは反対だったのだ。
ただでさえ戦いを嫌うえりを、アンチクロスという最悪の魔術師集団が高確率で現れる地へ向かわせるなど、到底認められることではなかった。
そも、当初の開発理念はどうあれ、ネクロノームは、戦うためだけの機械ではない。それは光頼達全員の共通した思いである。
5機全ての力を合わせれば、その環境改造能力の応用で大気を、海洋を清浄化し、砂漠に緑を広げ、ありとあらゆる環境汚染をこの世からなくすことができる――というのが坊門の言だ。その効果や規模については疑う余地があれど、こうして角突き合わせていつ無関係な人間を大量に巻き込むともしれない戦いに身を投じるよりは、遥かに有意義な試みであろう。
今はまだ、それどころではない敵がいる。邪神崇拝者という危険極まりない存在がいて、自分達にしか相手ができないから戦っているが、それだけでえりまでを巻き込みたくはないのだ。
今回は事態の規模が大きすぎて、全員が別々に動かなければとてもカバーできない状況だったためにこんなことになっており、そして話を聞く限りその選択が正解だったといえる成果を上げたようだったが、光頼にしてみればほとんど苦肉の策に近い。
「――それで、その入院してる衛宮君が目を覚ましたら話を聞いてみようと思うの」
話の最後に、えりはそう締め括った。
なんとなく空を見る。陽はまだ高いが、イギリスと日本の9時間ある時差を考えれば、向こうはもう真夜中だろう。海岸でアンチクロスと戦ったという魔術師は既に30時間近くも眠ったままということになる。鬼械神とは、かほどに人体に負担をかけるものなのか。それとも《門》から顕れたその鬼械神だけが特別なのか、また別の理由なのかもしれないが。
(ん?)
ふと、妙なことに思い至る。えりはその魔術師を何と呼んだ?
「……なあ、衛宮って名前はいつ聞いたんだ?」
まさか知り合いというわけでもあるまい。聞けば、財布や定期券、パスポートその他、身元が分かりそうな物は持っていなかったというのだが。
持っているのが宝石の付いたペンダントだけでは名前は知りようがないだろう。
「あ、それはね。ヴァルナが着く前に敵と名乗り合ってたの。「衛宮士郎。ただの魔術使いだ」って」
「なんだいそりゃ。また」
前時代的な、と言おうとしたが、自分もその点についてはあまり人に言えたものではない。必然的に中途半端なところで言葉を切ることになったが、その言わんとするところは伝わってしまったらしい。
「もう、そんなこと言わないの。古臭いっていったら光頼君だって大概じゃない。後光院君のことボンボンとかどこそこの番長とか言ったりして、一体いつの人なのよ」
『ミツヨリ先輩はウチの学校の番長だからあ』
(……こいつ!)
えりにやり込められている光頼が楽しいのだろう。わざわざ光頼が通っていた高校の同級生の声を記憶から引き出して茶化してくるベントゥスに、計器を殴りつけてやろうかと思う。が、おそらく何の痛痒も感じまいし、えりの前で癇癪を起こすのも嫌なので我慢しておく。
(いつか見てろ、こんにゃろ)
深呼吸で怒りを忘れるべく勤めつつ、無駄なことを誓いながらも、とりあえず上手い言い訳を考えてみる。
そう、格好の問題だけではなく――
「いや、敵に名前を名乗るか普通? 魔術師は特に名前を大事にするって坊門さんが言ってたしよ」
理屈は知らないが、魔術師は自分の名前を明かしたがらない。それは秘密主義がどうこうという問題ではなく、純粋に魔術、呪術的問題として意味があることなのだそうだ。
確かに、名前を呼ぶことで力を弱める悪鬼や、或いは相手の名前を紙に書いて行う恋のおまじないなど、その手の話には名前が重要なファクターとなることが多い。
つまるところ、衛宮士郎というのが本名なら、名乗ったその男には魔術師として何かが欠けている――たとえば冷静さとか、用心深さとか――ということになる。
「前途多難だなあ」
「……そうね」
さすがにこればかりは否定できないのだろう。素直な返事が返ってきた。
「ま、人を馬鹿にしてる場合でもないんだけどな。こうも後手に回ってばっかりじゃ、藁にも縋る思いで何にでも頼らなきゃな」
実のところ、彼らが到着したのは前日の昼過ぎである。
ロンドンの《門》は出現の兆候が遅かった為に特定が遅れ、光頼が到着した時には何も痕跡が残っていなかった。
そこで何が顕れ、誰と誰が争い、そしてどうなったのか。誰に聞いても話の断片すら見えて来ず、そうこうしているうちにマンションの一室が爆発し、撤退するロードビヤーキーにも追いつけず……という有様である。
そして翌朝、駄目でもともととロンドン魔術協会、通称時計塔へと直接情報収集に出向いたのだが、当然というべきか、予想できたことではあったが結果は散々で、ろくな話も聞けずに引き返すことになった。いや、より正確に言うなら、そこに魔術協会が在るという確信すら揺らいだ。
外部の人間がのこのこ行って関係者と簡単に接触できるとは初めから思っていなかったが、さすが歴史のあるところは違うというべきか。その隠蔽の巧みさたるや、ベントゥスの探知によって強い魔力反応が出ていなければ、こうして非常識に関わって数年になる今ですら、「大英博物館の裏に世界最高峰の魔術研究機関がある」などという荒唐無稽な与太話を今でも信じていられたかは疑わしい。
それでも学芸員との当たり障りのない世間話から、昨晩事故のあったマンションが、かの博物館への雇用率が非常に高いことで有名な某大学の学生寮であることは分かったのだが、それだけといえばそれだけであり、特にそこでなければ聞けない話ということでもない。
正体を看破され、警察や軍に突き出されるという誰にとっても最悪の事態にならなかっただけでも幸運だったというべきかもしれないが。
「その寮が事件と関係があるっていうのは、確かなの?」
「確信はないけどな。けど、そこが大英博物館とパイプ持ってる大学の学生寮で、ロードビヤーキーがぶっ壊していったのもそこなら、可能性はあるんじゃないか?」
偶然は数が重なるごとに必然である確率が増す。それでも偶然である確率はどこまでも消えないが、今は他に手がかりもない。
言う通り、藁にも縋るという奴だ。
「もともと、協会組織に直接接触するのはリスクが高いしな。現場の人間と話すのが良いと思うんだ」
話しながら、ベントゥスのコクピットでハンドルを握る。
とりあえず報告は済んだ。名残惜しいが、早くえりと直接会いたければ、こちらでの仕事を手早く済ますしかないのだ。
日が暮れる。日本は既に真夜中なのだから、えりもそろそろ休息が必要だろう。情報収集に支障を来すわけにもいかないので、この辺りが潮時と思えた。
「……光頼君」
通信を切ろうとしている気配に気付いたのだろう。えりが心細そうな声を出す。
「んじゃな、ちょっと行ってくる」
「気をつけてね」
後ろ髪を引かれる思いで、えりもな、と応えて、光頼はベントゥスに降下を命じた。
4
「水神クタアト……と、確かに言ったのですわね? カリグラは」
「はい。あの魔術師は確かにその銘を」
僅かに眉を寄せて確認するルヴィアゼリッタに、セイバーは首肯する。
思い出す。水を操り人間の顔を模した巨大な魔弾を作り上げた魔術は、その精度、威力ともに人間が行使する物としては最高純度に近い域にあると言って差し支えないだろう。本来ならば1分近い詠唱を必要とするであろう強力な攻撃を、カリグラはセイバーという剣士のサーヴァントを前にして使ってみせた。
高位の術者は呪文を短縮する技術にも長けると言うが、この場合は、その瞬間にカリグラが手にしていた魔力を放つ本にそういう機能があると考えるのが自然だろう。
「何か、分かったのですか?」
ルヴィアゼリッタの見せる、先ほどとはうってかわった嫌悪の表情は気になるが、原因はともかく何らかの情報を掴んだということだろう。
再び身を乗り出すセイバーを手で制しながら、ルヴィアゼリッタはいつになくゆっくりと続きを話し始めた。
「《水神クタアト》。ええ、著者不明ながら確かにその名を持つ魔導書は実在するようですわね。現代においては3冊が現存していて、うち2冊がここロンドンに。1冊は行方不明。ロンドンにあるうちの1冊は
残念ながら閲覧は許可されませんでしたけど、と付け加えるのに対し、セイバーは質問を挟む。
「では、カリグラが持っていたのはロンドンにある残りの1冊ということですか?」
勢い込んで、というわけでもなかったが、若干の期待が混じっていたことは否めない。ルヴィアゼリッタが首を横に振るのを見て、ぐ、と呻いてしまう。
セイバーの顔に失望がありありと見えたのだろう。ルヴィアゼリッタは束の間、嫌悪の表情を消して苦笑してみせる。
「落ち着いて下さいな。所在が分かっている方の所有者なら、そこから個人情報や所属だって割り出してきます。当然、貴女が見たのは行方不明の1冊でしょう」
言われてみればその通り。
全く、どこまで冷静さを欠けば気が済むのか。我が事ながら意外と言うしかない動揺ぶりに呆れながら、セイバーは再度、気を落ち着かせるためにカップに口をつける。しかし、話をしながらいつの間にか紅茶は飲み干してしまっていたようだ。
気付かずにカップを傾けていたセイバーはますます赤くなる。
ルヴィアゼリッタはそのことに対し一言、お察ししますわ、とだけ言って、呼び出した執事に、お茶のお代わりを2杯、と言いつける。
客間に、微妙な沈黙が下りた。
執事が戻るまでの間、冷静になる時間をくれるということなのだろう。無言の気遣いに甘え、セイバーは情報を整理することにした。
まず第一に、アンチクロスなる敵、そのうちカリグラと名乗った男は魔術師であり、世界に3冊しかないとされる稀覯書、強力な魔導書である《水神クタアト》を所有している。
実在することが分かっていながら、協会の組織力を以てなお行方不明とされたその書を手に入れたのが偶然か必然かは判断しかねるが、仮に必然とするなら、やはりそれなりの調査力、情報収集能力を持った組織が背景にあるか、或いは《水神クタアト》自体が初めからアンチクロスの所蔵物で、皇帝の名を襲名する魔術師に与えられる儀式物であるとも考えられる。正解がそのどちらにせよ、かなり危険な存在と言えるだろう。
セイバーは実のところ、《門》から顕れた少女に向けてカリグラが言い放った「魔導書」という言葉が真実そのままの意味であるのか、未だ確信を持つには至っていない。
ただ、あの少女が人間というよりも精霊や亡霊といった存在に近い、つまり肉体を魔術情報体で形作る何者かであるとの見立てから、その存在の「核」が書物である可能性もまた、完全には否定できないのも事実なのだった。
異世界からやってきたと思われる少女と法則を同じくするかは分からないが、この世界にも自然霊と人間霊を融合させて人間の味方にする技術があり、また、かつての師の言によれば、長い時間をかけて使われた道具に宿る想念がそのうちに意志のようなものを持ち、魔力を得てその端末である肉体を作り出す現象も絶対に起こらないとは言えないらしい。非常にランクの高い宝具や聖典など、稀なケースとされるが、あの少女に感じた魔力を考えれば、少なくとも自分のような存在と同格のものであることは間違いないと思えた。
そして何より、おそらくは世界中の組織が何事かと訝しがっていた《門》、何かが出てくるという兆候すらなかったそこから出現した少女を、カリグラは魔導書と呼んだのだ。つまり敵は、こちらが考えもつかないような情報源を持ち、そして出現する何者かが魔導書であると確信するだけの理由があったと考えるのが自然だろう。
これらの情報は、アンチクロスの背景に巨大な組織がある、という推測を補強してくれるものでもある。
危険性は分かった。計り知れないということが分かった。とりあえずそれ以上考えるのは無駄と判断し、次の思索に移る。
では、その目的は何だ?
魔術師ならずとも、異界よりの来訪者というだけで、その人物を手に入れようと考える動機にはなるだろう。それが精霊を宿すほどの強力な魔導書となれば、なおさらのことである。
が、敢えて昨日の戦いを、魔導書の少女に特別な用途を想定した上での争奪戦と仮定してみる。予断はそれを違えた場合の判断を狂わせる事は理解できているが、一応、敵が出現時からその存在を魔導書と看破しており、またよりにもよってこのロンドンを襲撃してきたという薄い根拠もある。
強力な魔導書を操り、また《門》を通ってやってくる者の正体を識っていた敵は、それが持つ特定の機能を目当てにやってきたのではないか。要するに、確実に「それ」でなければならない理由がなければ、かけたであろう手間やリスクと釣り合わないように思うのだ。
だから、敵の目的を、特別な魔導書の機能であると仮定しよう。それでは、出現した魔導書はどんなもので、どんな能力を有しているのか?
それは当然ながら分からない。だが、或いは既存の魔導書が持つ能力から、その延長線上に目的を類推することができるのではないだろうか。
「……む」
思わず、呻いてしまう。
仮定を前提に仮定を重ねることの危険性は無論、理解できている。しかし、そうして重ねられた思考実験の途中で、前提となる仮定を補強する説が見出されることもあろうし、何より今は進む理由が欲しい。間違った推測を早いうちに正すためにも、だ。
とにかく、今は冷静に。思考を重ね、しかしそれに溺れず、小さな事実から丹念に真実を導き出さねばならない。
「こういうことは、シロウが得意でしたわね」
運ばれてきた紅茶を受け取りながら、心を読んだかのようにルヴィアゼリッタが呟く。いや、ひょっとすると、涼しい顔をしていてその実、セイバーの苦悩がそのまま自身のそれであったのかもしれない。
「ルヴィアゼリッタ。高位の魔導書が持つ具体的な能力についてですが」
「そうですわね。そういう方向になりますわよね」
一言でその言わんとするところが分かったのだろう。やはり正体不明の嫌悪を滲ませ、溜め息をつく。
2人がともに同じ推論に至ったのが良いことなのか悪いことなのか、それは判断が付かないが、同じ事を考えていながらセイバーが感じていない感情を抱いているということは、何かそういう情報を手に入れたということなのだろうか。
ルヴィアゼリッタはしばし、どう話そうか、或いは話すべきかどうかすら迷っているようだった。眉間に皺を寄せ、指をあてて揉みほぐしているさまは確かにその好敵手たる女魔術師とよく似ている。
「……直接行って見て頂いた方がよろしいでしょうね。わたくしも上手く理解できているとは言いかねますもの。変な先入観を与えたくありませんから」
ややあって出てきた言葉は、意外なものだった。
「貴女が、ですか?」
「……いえ、理解できないというか、聞いた通りの解釈をしたくないというか……」
できれば、セイバーには違う方向で推論を固めて欲しかった、と言いながら、これまた執事に用意させた小さなメモ用紙にさらさらと住所らしき文字列を書いて渡してくる。
「ロンドン郊外に、大きな古いお屋敷があるそうですわ。なんでもそこの主はこの国にいながら協会の再三の誘いを突っぱねていて、書斎には大変な数の蔵書があり、中には大英博物館やミスカトニックの図書館の最奥にしかないような稀覯書も所蔵しておられるとか」
奇特な人物もいたものだ。魔術の研究を進めるにあたり、協会ほど優れた環境もないというのに。或いは、その必要がないと自身に思わせるほどに資料が揃っているということなのだろうか。
「では」
「はい。大の協会嫌いという噂のその方は、協会の正魔術師であるわたくしに会っては貰えないでしょうが、貴女ならなにがしかの詳しい話を聞けるかもしれませんわね」
確かに、神秘の保存を優先するあまりに研究の進度に関してどこか歪なところがある協会よりも、そういう人物の方が詳しいかもしれない。
メモを記憶するセイバーに合わせて、ルヴィアゼリッタも席を立つ。
見送りのつもりかと思えば、自身も行くところがあるという。
「わたくしはもう一度寮に行ってみますわ。そろそろ日が暮れますし、捕まらなかった友人も戻っていることでしょう」
雇った人間も動かしているのだろうに、こんな時間から自身も働いてくれるという。個人的な頼み、それとも協会の意向に逆らう方針であるにも関わらずだ。頭が下がる思いどころではない。
「……ルヴィアゼリッタ」
凛の荷物から雨具を取り出し、客間を出ながら声をかけた。
はい? と玄関口で怪訝そうに振り向く顔には、既に嫌悪の影はない。本当に魔導書の話題を口にすること自体が嫌だったようだ。
「何故――」
ここまで協力してくれるのか、と聞きそうになり、ぎりぎりのところで口をつぐんだ。それは、明らかに禁句だろう。口にしてはいけないことだ。
言葉は途中で切ったが、その表情からセイバーの言おうとしたことが理解できたのだろう。案の定ルヴィアゼリッタは柳眉を逆立てて一瞬、怒りを顕わにしたが、しかしすぐに挑戦的な笑顔になり、一言だけ言い放った。
「敵は、自らの手で叩き伏せ、敗北を認めさせてこそ勝利したことになるのですわ」
そうではなくて? と階段を下りてくるセイバーを見上げる姿は、主に本当によく似ていた。
「……」
だから必ず取り返せと、無言で伝えてくる瞳に、セイバーは何も言い返すことができなかった。無論、否定ではなく、また呆気にとられたからでもない。
好敵手との意地の張り合い、そして正義の味方を目指す青年との他愛のない会話、そんな1年を彼女が好ましく思っていてくれたことが、何より嬉しかったのだ。
無言で横を通り過ぎて、玄関を出ながらレインコートのフードを被り、そして一度振り返って、では、と短く口にする。
お気をつけなさいな、という声を背に、セイバーは夜の街へと走り出した。
5
さて、脇屋光頼は、この時点でえりと同じ過ちを犯している。
そう、警戒すべきはアンチクロスや協会だけではないのだ。しかし、既に亡いと思われた陰謀組織が、臓硯の命によりカリグラのフォローをするためこの街へとやって来ていたことなど、まさに知る由もない。
正体を隠しているつもりで、実は最初にこの街で姿を見せた時点で臓硯へ、そしてアンチクロスへと報告が為されていることを、光頼はまだ知らない。
そして、セイバーもまた、その1日にして追い詰められた境遇から未だ立ち直りを果たせず、考えが1つ及んでいない。
敵がいて、その背後に組織があることに気付いたのなら、当然、事件が起こったロンドンには既に彼らが入り込んでいるに違いないと、普段の彼女ならばすぐにも思い至ったことだろう。
そう思い至れば、たとえ秘密裏にであろうと、その敵について探る者をこの街で1人にするなど、おそらく考えもすまい。
そこは闇である。
太陽が沈んだから、ということではなく、純粋にその部屋には光を取り込む窓がなく、また光源も用意されていないからだ。
ただ、ずず、ずず、と小さな音だけが響き、動くものが全くない訳ではないことだけが分かる。
しかし、何かをほんの僅かずつ引き摺るような、床を引っ掻くようなその音は、一体何が立てているのか。誰かがいるなら、長時間真の闇の中にいるのは耐えられまい。それとも、心ならずそこにいるのか、或いはそうしなければならない理由でもあるのか。
それもまた、否である。
そこには音はあるが、人間を感じさせる熱がない。息遣いがない。そして清浄なる空気がなかった。
あるのはただ目に視えぬだけの確かな汚濁。光に晒すことが許されぬと、人の領域を穢せばただでは済まないと自ら理解して姿を消した邪悪であることを、灯りが無くともその空気を穢すモノが雄弁に語っていた。
腐臭である。
その正常なる世界から隔離された空間に、在ってはならないはずの光が生まれた。
床に近い、低い空間から発したその光は、円陣の中に文字とも記号ともつかない模様を描いたようなもので、ある種の技術を習得したものならばそれを魔法陣と呼んだろう。
そうして束の間、その汚穢なる空間を照らし上げた光は何もなかったかのように消え、代わりに、ぼう、と薄い光が部屋の四方に灯った。陣の放っていた赤や白といった派手なものではなく、全き法則に従ったオレンジ色の炎である。
そして、それまではなかったはずの人の気配がいつの間にかそこにはあった。
その数は2つ。ただし、まっとうに生の躍動を感じさせる者は1人だけ。
「倫敦……か。転移術具も残りが少ないな」
その生ける者は時代劇の世界から飛び出てきたような侍風の男、ティトゥスであり、
「まァね。特に準備のない場所には直接行けないし、言うほど便利でもないわねコレ」
残りは、それまであった部屋の汚濁と同じ臭いを纏った仮面のピエロ、ティベリウスである。
部屋には案の定というべきか、人ともそれ以外とも知れない動物の死骸と、それに集る蛆があった。丸々と太り妙な光沢を放つピンク色の蛆は死骸を喰らい、またずるずると床を這う。
床中を覆い尽くすほどではないにせよ、大量に湧いた蛆蟲をティベリウスは意外とも言える慎重さで避けて通り、入り口の扉へと向かう。そのさまは恐怖や嫌悪というより、どこか――やはりこの上なく意外なことではあるが――敬意に近いものを感じさせた。
対するティトゥスは紛れもない嫌悪によって踏みつけるのを避け、ゆっくりと続く。
扉を開けると、その下には水が溜まっていた。開けた拍子に入り込んできた水が、部屋に敷かれた絨毯を僅かに濡らす。扉の先には階段があり、直接外に繋がっているようだった。
ティベリウスに続き、雨の降りしきる庭へとさほど頓着することもなく出てきたティトゥスは、そこでようやく人心地着いたように息を吐く。
「お主の加勢に駆り出されるのは慣れたと思ったが、流石に臭くて敵わぬな」
ティトゥスの口から出た、珍しく人間くささのある愚痴に、ティベリウスは吹き出すように笑う。
「そりゃあ、なんたって60年近く前に先代から受け継いだこのアタシの工房だもの。あそこにいる限り、アンタだって勝ち目はないわよん?」
ティトゥスの感じたその嫌悪の正体をある種の圧迫感であると看破し、誇らしげに言うその言葉が真実であるかどうか、互いに試すつもりはないが、しかし確かにアンチクロスたる魔術師のホームグラウンドたる領域で、他の者が敵う道理は無い。
ふん、と鼻を鳴らすティトゥスを置いて、ティベリウスは屋敷の外周をべちゃべちゃと歩いてゆく。
「で、どうする? ちゃっちゃと
「お主の勧める酒を飲む気はないな」
ティベリウスに続いて――こちらは濡れた芝生を音1つ立てずに――歩きながら、ティトゥスの返す返事はにべもない。
とはいえ、この雨の中、本当のこの街に留まっているのかどうかも不明なネクロノームを捜すことに積極的になれるかといえばそうでもなく、ひとまずこの狂えるピエロの相変わらず陰気な屋敷に宿をとるのも悪くはないか、とも考えていた。
七罪のうち怠惰を以て逆十字となったティトゥスが動くのは、目の前に己が惹かれるほどの強者を見たときだけだ。せめてもう1人、関わるなと言われたあの協会に属する者以外で、求めるレベルの戦士がこの街にいることが分かれば、真面目に働く気も起きようというものなのだが……
そんなことを考えて己の度し難い怠惰に都合の良い理由をつけながら、どうしたものかとティトゥスは歩き続けた。