IE……というかスタイルシート及びRUBYタグに対応したブラウザでの閲覧を激しく推奨します。


2004/07/21

Recurring Nightmare 第13話「Maggot Carrier」

   1


 陽が沈み、世界を闇が包む頃、そして同時に人類の英知の象徴たる街の灯が最も輝く頃になっても、司書は1人、机の上でカード遊びをしていた。
 世界中の珍書、貴書、稀覯書を集めたこの図書館の中でも特に珍しい、否、存在しないことになっている本ばかりを保管した、明らかに他と比べて照明が少ない一角は、古い本が漂わせる独特のかび臭さとは別に、どこか陰鬱な雰囲気が立ち篭める。
 細心の注意を払って乾燥状態を保っているにも関わらず、何故かそこに存在するある種の湿っぽさのようなものに一片の頓着も――司書としてあるまじきことではあるが――見せることなく、手元だけを照らす小さな灯りの下で、カードをシャッフルしては数枚抜き出して置き、また束ねてはシャッフルを繰り返す。
 その姿は、怠けているようにも、或いは苛立っているようにも見えただろう。職務を放棄して遊技に没頭し、そして何か思い煩うことがあるゆえに意味もなくカードを切る。ランダムに取り出され、机の上に展開されるのを見てはその結果が気に入らず、なかったことにして初めからやり直し。気を紛らわすために始めたはずの遊技が苛立ちを加速させてゆく。そんな子供の占い遊びのような光景に、確かによく似ている。
 が、実際のところ、司書はその不毛な行為をこの上なく楽しんでいた。
 束ねられたカードが手の中でほんの一瞬、宙を舞い、再び手の中に戻るその手触りを。カードを抜き、机の上に晒す瞬間の幾度繰り返しても飽きることなく湧き上がってくる不思議な高揚感を。どこまでも不本意でしかない結果を出し続けるを。司書は、酷く愉しんでいた。
 司書にとって、これはやり直しでも繰り返しでもない、なのだ。
 たとえシャッフルしようとも、束ねるときに順番で山へと積まれた事実は無くならない。それは直接次の占いに似た結果が出る、というような形で反映される偏りではないが、ただリセットしてやり直しているように見えて、思わぬところで影響する。一時、以前と同じ結果が出たように見えて、やはり次には違う結果が出る――シャッフルの手つきも、回数も、速さも、変えていないつもりであるにも関わらずだ――。そんな積み重ねの妙といったものがあるように感じて、司書はその占いの繰り返しをただの1つとて同じものとは認識していなかった。
 それはつまり、遊技に終わりは来ないということ。
 或いは、永い永い積み重ねの果て、いつかは繰り返しに気付くときが来るかもしれない。延々と計算を続けた結果、ある無限小数が循環小数だと証明されるような時が、ひょっとしたら来るかもしれない。ありとあらゆる要素を消費し尽くしたその時こそ、司書がカードの束への興味をなくす時なのかもしれない。
 その時が楽しみなのか、それとも、怖いのか。
 意味のない問いかけだろう。司書は、そんな時が決して来ないと確信しているのだから。
 今はただ、カードをめくり続ける。

 幾百度目か、それとも幾千度目か。或いは幾万、幾億度目かもしれない。
 「魔術師」のカードを引いたところで、司書にはふと思い出すことがあった。
「そういえば、かの魔術師はどうしたね?」
 司書は億劫げに顔を上げ、電灯を落として3メートル先も見えない図書館の中央、その虚空へ向けて声を飛ばす。
 誰もいないはずのその空間からは、かくして、女の声が返ってきた。
「それは衛宮士郎ジェレイターのことかな。それとも響谷蘭丸プラクティカス? 遠坂凛フィロソファス? ひょっとして暴君ネロアデプタス・イグセンプタスのことかな?」
 闇が揺らめく。それは錯覚だったのかどうか。
 音も匂いも気配もなく、存在感なるものを構成するあらゆる要素と無縁であるかのように現れ、黒髪の女は薄暗い灯りに照らされた一角へと歩み寄ってきた。
 呼びかけた司書は当然というべきか、驚きもせずに一言答える。
魔術師メイガスのことだよ」
「ああ、大十字九郎サード・オーダーかい」
 納得がいったとばかりに深く頷く女だが、しかし喜悦に裂けたその唇が、初めからその言葉を待っていたと語っている。本当は話したくて仕方がない、しかし自分から言い出すのもどうか。そんなことを考えていた子供の笑みだった。
「相応しき神の玉座エアーズ・ロックに収まってもらったよ。辰人君はこれ以上ないほどに囮としてよく機能してくれた。まさかあんなに上手くいくとは思わなかったよ」
 未だ興奮冷めやらぬ様子で、女は熱っぽく語る。
 自分と対等の分身すらぶっつけ本番同然に囮に使った策謀は功を奏し、仇敵を鎖に繋ぐことに見事成功したのだ。滅ぼした訳ではないにせよ、一泡吹かせてやったくらいの意味はある。
 だからその歓喜も無理からぬことではあったが、実際のところ、女は仇敵がこの世界へやってきたこと自体を歓迎しているようにも見えた。この女にとってはあの大がかりな罠もこれから始まる戦争も、遠い街で出逢えた友人の肩を叩いて再会を喜び合うようなものなのかもしれない。
「オーストラリアの太陽が沈む頃。イギリスじゃ昼前のことさ」
「ふむ。成程、それで世界は泣いているのか」
 司書は窓もない壁にちらと目をやり、合点がいった、と小さく呟く。
 外では今もって降り続ける雨が街を覆っているはずだ。それが意味するのは憐憫か、叱咤か。或いは、ただ哀れみを乞うように助けを求めているのか。
 だがそれも永くは続くまい。星の危機意識は聡く、霊長の生存本能は強い。外宇宙より飛来した外敵かみに対し、頼りにしていた狩人達が役に立たないと悟れば、滅びを待つことなく世界は英雄を選別にかかるだろう。今頃はその運命の中からちょうど良い配置の人間を捜しているに違いない。

「魔術師といえばもう一つ」
 司書は、もののついでのように付け加える。
「私に質問しに来た者がいたよ。大英博物館にいたらしいが、随分必死だったのだろうね。側に迷い込んできた」
「へえ?」
 女は、面白そうに形の良い眉を片方動かし、目で続きを促す。
「訊いてきたのはなんと、魔導書《水神クタアト》についてだ。かの博物館にも一冊あったはずだが、きっと断られたのだろうね。それから、かような高位の魔導書がいかなる存在なのかと」
「ふふ。それで君は?」
「真剣に知識を求める者に対し、私は寛容だよ。勿論、正直に正確に真実をありのままに教えてあげたとも」
「ぷっ、あっはははははは!」
 その物言いに、思わず女は吹き出してしまった。
「そりゃご愁傷様だ。当分、魔導書なんて言葉は耳にしたくもないだろうね」
 または、魅入られて蒐集家と化すか、だ。覚悟無く神秘の最奥を覗いた者に、他の選択肢はない。かの仇敵ですら、かつてはそのおぞましさに泡を食って逃げ出し、自ら記憶を閉ざしたほどなのだ。
 しかし、司書は静かに首を振り、女の言葉を否定する。
「いや、意外に頑丈な神経をしていた。彼女は正気のまま帰って行ったよ」
 多少、嫌な思い出にはなるだろうがね、と付け加える。
「ふむふむ? それは意外な適性だ。主役でないのが惜しいほどだね。つまり君は彼女に語った訳だ。神秘の最奥、怪異の中の怪異、幻想の中の幻想、最高位の魔導書がであると」
「うむ。それが如何なる神なのか、教授したのは純然たる親切心からなのだが、嫌われてしまったようだ。仕方がないので、君が言ったとおりの者を紹介しておいたが、問題ないのかね?」
「ばっちりだよ。もう放っておいても運命は勝手に廻り出すさ」
 彼女は、かの地の主役であるしろき王と風を駆る少年へのメッセンジャーとして正しく働いてくれることだろう。
 狂ってくれてもそれはそれで面白かったのだが、今回は彼らにとって幸運に働いたらしい。
「ふふ。かの王はかなりの強運の星の許に生まれたようだ。行く先々で泣き顔と死体ばかりな誰かさんとは大違いだね」
 女は嘲笑う。すんでのところで破滅を逃れたかに見える魔術師を。解決策を捜すべく奔走する騎士を。
「では、僕はそろそろお暇するよ。もう1人、古い友人が城へ来ているんだ」
「顔の広いことだ」
 遠くなる気配無き気配に呟きを返し、そして司書は黙する。
 再びカードを切り、そして時には無限の書を読み耽りながら、ただその尖兵が同胞を解放する悲願の刻を待つ。
(祈っているよ、此度こそ我等の悲願が、君の憎悪あいが成就されんことを)
 司書は途中だった遊技を再開し、山から上の1枚を引く。
 カードは案の定、「運命の輪」だった。
「さて……円環を為しているのは、誰の運命なのだろうね?」


   2


 ロンドン郊外にあるその屋敷は、雨雲に遮られて星明かりをも奪われた夜の闇に覆われ、さらにそれだけではない、目に映らない何かに包まれてそこにあった。
 それは喩えるなら、透明な毒の霧とでも表現するべきか。ただ重く全身に纏わり付き、誰にも気付かれず、ただその不快さだけが増してゆく。見ることの出来ないそれはいずれ喉を侵し、肺を萎ませ、腹に沈殿し、そしてやはり透明な嘔吐となって溜め込んだ胃の中の闇とともに吐き出されるのだ。
 屋敷を覆うどこか粘り気のある空気は、そうして吐き出され続けて久しい泥がうずたかく山をなしているような、まともな人間は近付くことはおろかその視界に入れることすら拒絶するような、質量さえ伴った瘴気とも言うべき魔の気配に満ちていた。

「――っ、――!」
 その屋敷の中、ただ1つの窓さえない部屋には、ゆらゆらと揺れる蝋燭の小さな灯りに照らされながら蠢く何者かの姿があった。
 蝋燭の放つオレンジの光に色を失っている派手な服が、同じような大きさの何かを持ち上げている。大きく、小さく、時に小刻みに、時にのんびりと、ぶかぶかに膨らんだ服が揺れる。
 時折漏れる、鳴り損ないの笛の音のようなか細い音は、揺れる服のリズムに合わせ、その者に掴まれた何かが発しているようであった。
「ほぉらほら、もっと激しくいくわよん?」
 立っている側が、声を発した。それは幾十年もの年を経た老人のようにしゃがれた、それでいて若い力強さを感じさせる野太い男の声であり、そして同時に快楽にはしゃいで裏返っている甲高さがあった。
 狂えるピエロ、ティベリウスは言って言葉通りにその身体をがくがくと前後に動かす。
「――――っ! あ、が」
 空気が抜けるような小さな音を発するだけだった物体は、その時になって大きく跳ねたばかりか、喉の奥から泡立つような濁った悲鳴を響かせた。
 その物体は、生きた人間だった。女である。
 骨張った両手で腰を掴まれ、折れんばかりに仰け反る女は、衣服を引き裂かれ、その股と結合したティベリウスの下半身を支点にして宙に浮かされていた。ティベリウスが掴んだ女の腰を揺らすたび、下半身から伸びる長大な肉の凶器に貫かれたその股は文字通り裂けて鮮血を散らす。
「が、っぃ、――――!」
 全身を震わせてその身に奔る激痛を表す女は、感電したように飛び出さんばかりに白目を剥き、舌はぴんと伸びて大きく開いた唇から覗いている。唾液が喉に溜まっているのだろう、あげる悲鳴は泡立ち、掠れてくぐもっている。抵抗する気力はおろか、己のいる状況を呑み込めているかどうかも怪しい。
 いや、建物の外側にすら人間が近寄りがたいほどの瘴気がのだ。その根元、原因たる中心部である部屋で、平常を保っていられることの方が異常なのだ。女は犯されておらずとも、そこでは当たり前の呼吸すら恐怖の対象であったろう。
「ほぉらぁ、鳴いてばっかりでアタシを愉しませるだけじゃダメよん。報告、あ・る・ん・で・しょ?」
 ティベリウスは言葉通り歓喜と愉悦そのままの声で囁きながら、女の腰を左手で掴み直す。ざくり、と爪が突き刺さって再び鮮血が吹き出すが、既に下半身には痛覚はないのか、女は小さく痙攣したのみで、もはや拒絶の声すらあげることがない。
 ティベリウスはそして、空いた右手でその長い爪を刺し込みながら乳房を鷲掴みにし、仮面の下部、開くというより亀裂のように裂けた口元から舌を1メートル以上も伸ばして、だらしなく開いたまま閉じることも忘れた女の唇、そこから覗いている舌に絡ませる。
「――――ぁ」
 ショックで惚けていた女も口腔内にはまだ感覚があったのか、その瞳に微かな光が戻る。だが、未だ意識の覚醒には至らないのだろう、それ以上の反応はなく、自身の舌とティベリウスの触手じみたそれがべちゃべちゃと絡み合うに任せている。

 その下、ティベリウスの足下には、破られ引き裂かれた女の衣服とともに、円形のメダルの付いたペンダントがあった。触腕でとぐろを巻く大蛸を上から見下ろした形を刻んだ黒い刻印。邪神崇拝結社コスモ・マトリックスの証である。
 ティベリウスは、屋敷へやってきた信者を己の領域へと引き摺り込み、その肉体と精神と魂を犯しているのだった。
 何故、と問う機会すら、女には与えられない。
 ネクロノームの乗り手発見の報に対し、派遣されるアンチクロスと協力体制をとれ、との臓硯の命に従い、ロンドン郊外の屋敷へと現状の報告に来た。そこまでは良かった。あからさまな狂気と腐臭を撒き散らす魔術師に勧められるままに、これも処世術とワインを傾け、今まで嗅いだことのない香り、口にしたことのない素晴らしい味に感動したところまでは覚えている。しかし、次の瞬間気が付けば、この道化姿の魔術師に従って私室へと歩いていた。その狂った欲望を隠そうともしないこの男に従って、まっとうな結末を迎えるはずがないのは子供にでも分かることだというのに、だ。
 いや、それを言うなら、まともに社交的な付き合いをこの男が、さらに言えば妖術師とさえ揶揄される魔術師がするはずがなかったのだ。勧められたワインをただの一滴でさえその舌を濡らし喉を通し、胃に納めてしまうことが、断じて処世術などである訳がない。
 尤も、直接問わずとも、ティベリウスに限ってただの遊び、欲求の発散以外の理由で行動することなどあり得ない。そういう意味では、女は既に答えを得ていたし、己の運命に絶望するに十分な状況であることは疑いのないことであった。

 そうして何の抵抗も出来ず衣服と身体と血と肉と尊厳を奪われ、今はただ在るはずもない清浄な空気を求め、水槽に浮く魚のように喘ぐ。
「ん〜ふふん?」
 舌を伸ばしたまま、ティベリウスは器用に鼻を鳴らして嗤う。その視線の先には、その腐った舌が入り込んだ女の唇がある――
「! んぐぅぅぅっ!」
 そのざらついた感触とむせかえるような腐臭とともに口の中に転がり込む、小さな滓のようなものが何なのか、その時になって女は悟ったらしい。死の淵まで沈みきっていた意識を不幸にも表層まで引き摺り出し、くぐもった悲鳴をあげながら首を振り、いやいやをして拒絶の意志を示す。
 だが、時は既に遅い。いや、いつならば間に合ったのか、という時が存在しない以上、遅いというのも正確ではなく、こうして無駄な抵抗に涙を流すこともやはり彼女の運命といえたのかもしれない。その悲嘆、恐怖、嫌悪、絶望、すべてがティベリウスの快楽となる以外に何の意味があったろうか。
 いずれにせよ、その姿に気をよくしたティベリウスによってその長大な肉の塊を身体のさらに奥へと突き込まれ、その舌はますます伸びて喉に入り込み、いよいよ女は全身をティベリウスだけでなく、その小さな物体群にも犯されることになる。
 裂けてティベリウスの足の太さほどまでも拡がった股から血液とともに、ぼとり、と何かが落ちた。
 それは子供の手の指ほどもあったろうか。丸く細く、赤い血にまみれながら、その物体の本来の色であるらしいピンク色を一部だけ覗かせていた。
 蛆、である。
「んぐ、んぁぁぁっ!」
「ぎゃはははははは! ん〜イイわイイわ。ずっごくイイ声よん。けどほら、言わなきゃいけないコト、あるでしょ? 早くしないと、脳味噌ン中までアタシの突っ込んじゃうわよん?」
 言いながら、ティベリウスは腰の動きをさらに激しくさせ、仮面の口から伸ばした舌をゆるゆると女の喉から引き抜いてゆく。女は痛みを通り越した嘔吐感にも似たその感触にまたも全身を痙攣させ、腹を突き破らんばかりに激しく収縮する胃の蠕動に意識を追いやられそうになる。
 そこへ届くのが、身をかがめて囁く残虐な道化の声である。
「ちゃあんと言えたら、それでお終いにしてア・ゲ・ル」
「――――!」
 はたして、その言葉がどの程度彼女の救いになり得たか、それは定かではない。
 コスモ・マトリックスの女信者は、自ら唇を噛み切って意識を浮上させ、怨敵ネクロノームを妥当する打倒を帯びたアンチクロスへの言葉を構成するべく、必死に頭を回転させ始めた。
「きょ……きょうか、んぐぅぅぅっ……協会……に……敵対い、意志、が、あぁぁぁっ……あ、り」
「ふむふむん? まァ当然よね。けど今すぐどうこうってモンでもないでしょ。違う?」
「は……い……」
 喉と舌への圧迫は止めても、その下半身から伸びる凶器を止めるつもりはない。腰を揺らしながら、息を乱すこともなく、ティベリウスは女の言葉に耳を傾ける。
 侵され、犯され、冒されながら、女は必死になって言葉を吐き出す。息を吸うだけで電流のように全身を奔る激痛の中、意識を辛うじて保ち、1秒でも早い救済のために職務を全うする。
「《門》出現……によ……る……混乱が……激しく、反抗作戦……には、およ、そ、1週間ほど、は」
(日和見だこと)
 ティベリウスの芯にある妖術師としての冷徹な思考が、ネクロノームやその他の妨害を加味した計画の進行速度を計算する。
 結論として、女の報告が正確であるなら、協会は文字通り敵ではない。
 魔術協会にも油断ならない者が複数おり、そんな存在が刺客としてやってくる可能性は実際のところ低くないが、まさか1日や2日でアンチクロスとの戦争が終わるとは彼らも思ってはいまい。
 臓硯の声を受け、1年前から周到に準備してきた計画は、《門》が開いたことでほとんど成功したも同然なのだ。実戦部隊の派遣に今から1週間もかけていたのでは、おそらくはもう手遅れだ。
「ふうん。で、ネクロノームは? ていうかぶっちゃけデモンベインをこっちに持ってきてるかどうかが問題なんだけど」
 その名を口にするときだけ、ティベリウスは動きを止めた。ほんの僅か、その声音も真剣味を帯びている。
 もし、そのことについて何故と問われれば、ティベリウス自身も答えに窮したろう。或いは、そんな事実そのものをもなかったものとして扱うに違いない。
(なーんか、ムカつくのよね)
 息の絶え絶えという体で言葉を連ねる女の声を聞きながら、ティベリウスは心中でひとりごちる。
 魔を断つ者という意味を与えられた、生まれてこの方聞いたこともないその鬼械神の名は、同時にそれを口にした少女の姿を思い起こさせるのだ。クラウディウスのようなではない、心底の蔑みをこの不死身のアンチクロスへと向ける暴君の瞳を。
 アレの存在はどういう訳かその心をざわつかせる。動いてもいない心臓が引きつり、ありもしない全身の毛がよだつのを感じる。
 暴君にもデモンベインにも、これ以上深く関われば――
「――!」
 ぶるり、とティベリウスの全身が震えた。女の内臓に汚濁が染みてゆく。
 痛み以外の感覚など既に無かったろうが、その穢れが放つ瘴気に魂が耐えきれなかったらしい。女は口を途中まで言葉を発した形にしたまま、全ての動作をぴたりと停止させた。
 その一瞬ののち、びくんびくんと爆発するような勢いで全身を痙攣させて無数の傷口から黒い血を噴き出させ、上を向いたままやはり黒い血と蛆の混じった吐瀉物を吐き出し、それを喉に詰まらせながら白目を剥いて、今度こそ慈悲深き闇の奥へと意識を埋没させた。

「あーらら。アンタがあんまりイイもんだからもうイッちゃったじゃない」
 力を失った女の身体を床に落としながら、戯けたようにティベリウスは笑う。
 ほんの一瞬想像したが身を凍り付かせ、気が抜けた、とは決して言わない。認めない。信じない。あるはずのないこと、あってはならないこと、は記憶に残ることさえ許されない。
「さあて困ったわねえ、途中までしか聞いてないのよね報告。ちょっと遊びすぎたかしら。ぎゃははは!」
 その哄笑の不自然な激しさを自覚しているのかいないのか、ティベリウスは無理矢理に己のテンションを高めながら、考えてはならない何かから思考を引き剥がして思案する。
 さすがに肝心なことを聞かずに死なれてはまずい。ティベリウスもティトゥスほどの怠け癖ではないにせよ仕事熱心なタイプでは勿論ないが、その仕事を命じたのがあの少女であれば話は別だ。
 早々にネクロノームの足取りを掴み、そしてそのどれかが持ち去ったという《神》を発見しなければならない。代わりの報告員を寄越させても構わないのだが――
「ま、悩んでもしゃあないわね。どうせヤることはヤるんだし」
 言ってティベリウスは、その下半身から細い触手を何本も伸ばす。それらは床でぐったりとしている女の身体に纏わり付き、少しずつ持ち上げてゆく。
 そのさまを眺めながら、ティベリウスは刃物のように尖った数十センチの長い爪を持つ両手で器用に印を結ぶ。

 ――ワムス
 ――マゴット
 ――妖蛆ウェルミス

 女の下腹部が、正確にはティベリウスが注いだ汚濁と蛆の群れが爆ぜた。
 そこから現れたのは一冊の本。ルードヴィヒ・プリンの手になる著書、世界最高の魔導書の一、《妖蛆の秘密》デ・ウェルミス・ミステリイスである。
「我が声に応えよ、《妖蛆の秘密》――」
 ティベリウスがその書に手を触れながら、人ならぬ声で呪文を唱えてゆく。歌に合わせて踊るように、触手は女の半分だけの身体にうねりながら入り込む。
 そうして喉を逆に通り、口腔を貫き、鼻を抜けて触手が女の脳に達したとき、その身体はもう一度だけびくんと震えた。
「うふふ。ごめんなさいねえ、お先に失礼しちゃって。さあ、今度は最後まで聞いたげるから、安心してアタシの質問に答えなさい――」


   3


 己が身を蝕み続ける怠惰という名の病魔は、彼にとって如何なる死病よりも重い。
 常日頃から嫌悪し、侮蔑している悪趣味極まりない道化師のサポートに回らされながらも文句を言わないのは、結局のところ嫌な仕事に素直に従うのと、抗議して前回の失態を突かれて話がややこしくなるのでは、後者の方がより面倒だと判断したからである。
「さて、面白い話でも聞けておれば良いがな」
 長らく使っていなかったのか、ところどころ埃をかぶっている応接間のソファに深々と腰掛けながら、ティトゥスはちらと私室があるらしき方向へと視線を走らせる。
 あのコスモ・マトリックスの女は助かるまい。
 やりようにも反吐が出るが、あの男がその無闇に攻撃的な衝動を発散させるその目的は、ただの娯楽なのだ。そうするのが楽しいから、犯す。殺す。喰う。飽くことなどあり得ない。あの蛆が湧き時の流れが止まった脳には、満足という言葉が存在しない。奴は、どれだけ快楽を貪ろうと腹八分目より先には進まないのだ。
 倫理も道徳も存在しない妖術師の集団、アンチクロスにも、ただ1つだけ戒律がある。欲するところを為せ、だ。
 権威に、力に、権力にどこまでも貪欲なアウグストゥス。科学と魔術を用いて神の御業を真似る、傲慢なるウェスパシアヌス。ひとたび火がつけば己の身すら顧みることなく憤怒に身を灼くカリグラ――いずれもその欲望つみに忠実な、逆十字を背負うに相応しき罪人達だが、その唯一の法に最も近いところにいるのが、或いはあの飽食のアンチクロス、ティベリウスなのかもしれない。
 ――だが、それを言うなら。
「……そこまで分かっていて、あの女に興味が持てぬ拙者もまた」
 度し難い、という意味では、なんら変わることがないのだろう。嫌悪するのはティベリウスの下劣さであり、その結果生まれる犠牲ではない。そして真実、嘔吐感すら催すほど嫌悪しているにも関わらず、結局はそれをどうこうしようとは考えないのだ。
 いつものことと言えば、いつものことだ。ティベリウスの暴虐のみならず、何もかも面倒になるこの怠惰も。
(――下らぬ)
 ティトゥスの意識は、その一言に尽きる。

 かつて自分がいた世界は、止まっているように見えた。
 いつのことか、平穏で、平和で、そして果てしなく退屈な日常に埋もれ錆び付いていく自分に気付いたとき、我慢が出来なくなった。そんな日常を許容する世界が堪らなく憎かった。
 そして彼を何より憎悪の虜としたのは、何もない、ただ続くだけの世界を当たり前のように受け入れ、あまつさえ未来への希望など持って暮らす住人達だ。あそこにいてはならない、自分はそんな中で生きるべきではないと悟ったのと、ほぼ時を同じくして出逢ったのが《屍食教典儀》である。
 それを手にした運命が、どのような必然と偶然が絡み合った結果であるのか、ティトゥスは興味がない。そうあるべくしてそうなったのだろう、という程度のことである。
 そうしてただの男は力を手に入れた。退屈な平穏を捨て、血湧き肉躍る世界の住人となれば、その腹に沈殿する病も吹き飛ぶのではないかと、そう思った。
 だがどうだろう。確かに強力な、そう、当初思っていたよりも遙かに強大な力は手に入れた。生きる世界も変わった。相手にすべき者も一癖二癖あって当然の猛者ばかりだった。
 しかし、自分は変わらなかった。
 名を捨て、過去の一切との決別を果たし皇帝の名を襲名しようとも、その病魔は相も変わらずその身を蝕み続ける。
 まさに、度し難い。

(やはり、拙者を満たし得るは魂が放つ白き閃光のみ、か)
 奴には、見えたろうか? ティトゥスは、青い鬼械神を夢想する。
 見えていたら良いと思う。
 互いの魂を削り合うような白熱の瞬間に脳裏を奔るそれは力の証、戦士の証であるとティトゥスは信じている。彼が強者を求めるのは、ひとえにそのレベルでの戦いに身を灼くためであると言って良い。ただ倒せれば良いという問題ではないのだ。
 実際のところ、衛宮士郎にティトゥスの本気の剣を完全に模倣することはおろか、近付くことさえも不可能なのだが、それでもティトゥスの模倣だけが奴の溜め込んだ芸である筈もない。
 そういう意味で、再戦が楽しみな相手ではあるのだが……
(いない、な)
 正直、ここロンドンにデモンベインが持ち込まれた可能性は低いと感じている。
 ネクロノームの乗り手には空間転移を使いこなす術者もいる。ゆえに時間の経過に関係なく、世界中のどこに飛んでいようと可能性だけなら存在するのだが、今更彼らが協会に保護を求めるとも思えない。ならば、むしろここは最も確率が低い場所ということになる。
 では何故、大導師はここへ2人ものアンチクロスを向かわせたのだろうか?
 ネクロノームとは鬼械神2機を以てあたるべし、という理屈も分からなくはないが、それにしても7人のアンチクロスを2人ずつ、5機のネクロノームに当てることなどできるわけもない。単純な算数の問題だ。
 ネクロノームの乗り手がこの地にやってきたというのが真実であれ、《門》の情報を探りに来ただけならばそうそう長居するとも思えない。
 これではまるで、ただ協会を刺激するために――
「ふむ? 可能性はある、か」
 ふとした思いつきに引っかかりを覚え、ティトゥスは思案を巡らせる。
 なにせ正体不明、本当にアンチクロスなのかどうかもよく分からない少女だ。実力に関して疑う余地はないが、さりとて最強であればアンチクロス、などという理屈があろうはずもない。
 今は協力的だが、内部情報を探るためにアーカムの財閥が出資しているとかいう対邪神組織あたりが送り込んだ虎の子の密偵という可能性も考えて然るべきだ。
 そして協会やその他の外敵、眠る猛獣の尻尾を踏ますようにしてその重い腰を上げさせ、戦力を分散させるつもりではないと何故言える?
 と、そこまで考えたところで、再びティトゥスは全身の力を抜く。
「そうであれば、良いのだがな」
 そう、敵ならば望むところ。魔力量では桁が1つか2つばかり違うが、それでも人であるならば斬って斬れぬこともあるまい。
 ただ惜しむらくは、今しばらくデモンベインとネクロノームはお預けだろうということ――
「――退屈なことだ」
 ティトゥスは疲れたように苦笑し、
「そぉんな退屈なティトゥスちゃんに、そしてアタシに嬉しい美味しい気持ちイイビッグな朗報よん?」
 ティトゥスの背後、いつの間にか音もなく開いていた扉から、下品な声がそれに応えた。

「ほう?」
 振り返りもせず、片方の眉を上げて聞き返した。
 声に驚きはない。腐臭といい魔力といい、ティベリウスはとかく隠密行動に向いていない男だが、そもそもティトゥスが周囲の気配を読み違えることなどあり得ない。
「うふふ。イイ汗かいたわぁ」
 ティベリウスも驚かせるとは初めから思っていなかったようで、残念そうな風もなく、ワインの瓶とグラスを長い爪で器用に挟んで運びながら部屋の奥、屋敷の主が座るべき上等なソファへと歩く。
 やはり埃をかぶったその席に些かも頓着を見せることなく、どっこらしょ、と掛け声混じりに腰掛けて、ティベリウスはその長く鋭い爪をコルクに刺し込んで力任せに引き抜いた。
「飲む?」
「いらぬと言った筈だが」
「残念、美味しいのに」
 屋敷に到着したときと同様、にべもない即答に今度は少しばかり残念がりながら、仕方なく独り手酌をすることに決めたらしい。グラスを傾け、仮面の下部に空いた口らしき穴へと直接流し込む。
 貴様に味が分かるのか、と思いはしたが無論聞くことはしない。それが酒の味であれ酒を飲むという行為の味であれ、美味いと言っているのだからティベリウスには美味いのだろう。どうでもいいことだ。
「それより貴様。何か言っていたな、朗報だと」
「そう、そうなのよ。んもう、臓硯ちゃんたら凛ちゃんと犯っちゃ駄目って言うんだもの、独り占めするつもりなんだわ。アルちゃんと3Pでチンコ蟲プレイよきっと、なんてマニアックで羨ましぃっ、なーんて思ってたら、案外粋な計らいするわあ」
 よくぞ聞いてくれましたとばかりに身を乗り出して、やけに饒舌に語り出す。この男が馬鹿騒ぎをするのはいつものことだが、今回はなにやら特に琴線に触れる物があったらしい。
「知りたい? ねえ知りたい? 知りたいでしょ知りたいわよね知らなきゃ人生の半分損よねむしろアタシが損するわとにかく聞い」
「早く話せ」
 ぴしゃりと言ってやると、む、と唸ってようやく止まった。
 ティトゥスが本気で苛ついているのがようやく伝わったのか、ティベリウスは愛想笑いらしき物を浮かべて宥めにかかる。
「や、やあねえ。短気は損気よお? もう、この話聞いたらティトゥスちゃんだってビンビンよビンビン」
「早く話せと言ったぞ」
 こちらはティベリウスと同じ空気を吸っているだけでも我慢がならず、それが伝わってないはずもないというのに、此奴は何故に愛想など振りまこうというのか。いや、理解はしている。要するにからかい、ただ焦らしているのだ。よほどその掴んだ情報をティトゥスが気に入るという確信があるらしい。

 ひとしきり無駄なお喋りを続け、ティトゥスの殺気から不純物がもう少しでなくなりそうな頃になって、ティベリウスは本題に移る。
「ねえティトゥスちゃん。聖杯戦争は知ってわよね?」
「――む?」
 意外といえば意外な言葉に、一瞬思考が停止する。
 知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らない。

 曰く、サーヴァントと呼ばれる人間霊を招喚し、使役して殺し合わせる魔術師達のゲーム。
 曰く、優勝賞品はあらゆる願いが叶うとされる聖杯。
 曰く、およそ200年前から定期的に行われ、既に5回を数える。
 曰く、その第5回が行われたのはつい最近、2年前であったらしい。

 うろ覚えの知識からそんなことを話してみる。それなりに事情通の魔術師といえど、聖杯戦争と呼ばれる物についての知識はおそらくそんなものだろう。協会や教会に所属していれば、また話は違ってくるのだろうし、城に戻ればもっと詳細な情報もあるのだろうが。
「ま、そんなもんよね、アタシもそうだったし。で、その2年前の第5回優勝者が、クラウディウスの連れてきた凛ちゃんだってのは?」
「――ふむ。それは大した魔術師なのであろうな。確かに初耳だが、それがどうした」
 鼻を鳴らし、先を促す。
 クラウディウスによれば、その遠坂凛は大した抵抗もできずに気絶させられたらしい。魔術適性が非常に高いという話であったから、良き鬼械神まどうしょと巡り逢えれば望ましい相手にもなろうが、仮定の話だ。ティトゥスは、現在の遠坂凛に興味はない。
 だがその反応に対し何が面白いのか、ティベリウスはふふん、と意味ありげに笑ってみせる。仮面の裏でその瞼はおろか眼球すら存在しないはずの眼窩で、幻の目が可笑しそうに細められるのを、ティトゥスは確かに視た。
「んじゃあ、聖杯戦争で招喚される使い魔サーヴァントって何のことだと思う?」
「何のこと、だと?」
 使い魔は使い魔だろう。人間霊と聞いた覚えがあるから、どこぞの亡霊でも使役するのではないのだろうか?
(――いや)
 ティベリウスは、ティトゥスがその情報を気に入るという前提で話をしている。そしてティベリウスもだ。この男と気が合う、などという状況はティトゥスにとって想像するだにおぞましいことだが、逆に言えばそこまでの価値があることだというのか?
 そう、例えば、招喚されるのがただの亡霊ではなく――
「英霊、なんですってよ」
「――ほう」
 ティベリウスの言葉に心底の感嘆の声を返したのは、これが初めてではないだろうか。耳にした事実は、それほどまでに驚くべきことだった。
 英霊。
 それはつまり、死した英雄のことだ。
 過去、歴史の転換期に必ず現れた、否、持てる力で自ら時代を支え、変えてきたと言っても過言ではない者達であり、語り継がれ、積み重ねられた伝承、伝説、そして神話によってその存在は多くの人々にとって信仰の対象ですらある。
 ただの遊技同然に思っていたが、聖杯戦争とはそこまで大規模な魔術が為されていたのか。
「む。遠坂凛がその優勝者だと言ったな」
「うふふーん。気付いた?」
 引っかかる。
 ティベリウスの上機嫌な理由。そしてティトゥスもそうなるという確信。犯す対象の選り好みをしないはずのティベリウスをその気にさせ、強者を求める怠惰なティトゥスの腰を上げさせる要素。
 それはつまり――
「カリグラちゃんが手こずったって可愛い子ちゃんがいるって話、覚えてる?」
剣士セイバーと名乗ったそうだな――真逆」
「そ。ティトゥスちゃんビンゴ! いるらしいのよ、このロンドンに、凛ちゃんが招喚した英霊が!」
 今度こそ、ティトゥスは絶句した。
(英霊が現界している、だと?)
 いかなる業でか、それを為した遠坂凛とやらにも驚嘆するが、そんなことよりも、これは思ったよりも幸運なことなのではないか? そしてあろうことか、己はそんな状況において、退屈だなどと考えていたとは、間抜けにもほどがある。
 ――が、確認しておかねばならないことが1つある。
「建前ではあろうが、大導師は協会所属の者には関わるなとの言であったが?」
「それもばぁっちり。協会ってばアタシ達にビビっちゃってるから、凛ちゃんをどうするかで揉めて、セイバーちゃんったら今フリーなんですって! うふふ。これはもう神様の思し召しって奴よね」
「――く、くく」
 気が付けば、掌に汗が噴き出していた。
 それを拭うこともしないままに、音もなく立ち上がる。
「ティトゥスちゃんたらヤるって決めたらせっかちねえ。相変わらずなんだから。けど流石のアタシも歴史上の人物とヤれるなんて滅多にないし? 早い者勝ちよ」
「よかろう。不用意に近寄って刻まれぬように気をつけるのだな」
 早い者勝ちという言葉とは裏腹に、落ち着いた様子で手をひらひらと振っているティベリウスを尻目に、応接間を足早に出る。
 おそらくは居場所に関する情報でも握っているのだろうが、その様子では喋るつもりもあるまい。目的は決まったのだから、無駄なことを聞くよりも鼻が曲がりそうな腐った屋敷から早々に出た方が良いに決まっている。
「うふふ。やる気出てきたわあ。あ、もしアンタが先に見つけても、ヤることヤっちゃったらアタシにもマワしてねん。両手両足がくっついてるなら死体でも良いわよん?」
 ハイテンションな声を背中に受けながら、誰がそんなことをするものか、と心中で呟きを返し、ティトゥスはティベリウスがなんとかいう教祖から受け継いだという屋敷、《古墳館》バロウズを後にした。

 屋敷を出たすぐの通りで、人とすれ違った。
 全身を覆う鼠色の雨具のフードを目深に被っており容姿は見えないが、低い身長、華奢な体格からおそらくは女性であろうと思われる。
「失礼。そちらのお屋敷がカーステアズ氏のお宅でしょうか」
「ふむ?」
 走ってきたのか、息を整えているらしいその少女が発した声に、一時、立ち止まって首を傾げる。
 ティベリウスの偽名であろうか、それとも人違いか? 或いは、ティベリウスの先代とやらの名か。
「捜しているのが古墳館であるなら、そうだ。その主に関わることを勧めはせぬがな」
 良心が咎めたというわけでもなかったが、らしくもない忠告をして、名も知らぬ少女、おそらくは今宵2人目になるだろう犠牲者に背を向けて歩き出す。
 後ろから礼らしき声が聞こえたような気がしたが、そのときにはもうティトゥスの頭はまだ見ぬ剣士のことで一杯になっていた。
(――さて、どこから当たるか。協会組織にぶつかるわけにはいかないが……)
 それは不可能というものだろう。アンチクロスがこの街にいるだけで、十分過ぎるほど刺激することになるはずだ。
 その上で、可能な限り大導師の意向に従うならば――
「ふむ。確かクラウディウスが破壊した遠坂凛の住居があったな」
 その実態が魔術師の教育機関だか培養機関でも、表向きはただ大英博物館への雇用率が高いだけの大学学生寮。訪問して何の問題があろうか。
(うまく縁ある物でも見つけられれば探知も楽になろうというもの)
 目標を見つけた途端、全身に漲り始める力、面倒な作業も大したことではないと思える自分に内心苦笑する。
 そしてその苦々しさを塗り潰すほどの兇笑を浮かべながら、ティトゥスは市内へと続く道で足を速めた。



「――その主に関わることを勧めはせぬがな」
「そうですか。ありがとうございます」
 そう言ったときには、長身の男は既に歩き出していた。
 忙しげな様子はなく、悠然とただ歩いているだけだったが、土砂降りというわけではないにしろこの雨の中で気にした風もないのは、奇特といえば奇特といえた。
 どこか気になって、少女は男が角を曲がるまで、しばしその後ろ姿を眺めていた。
(今の人物……かなり)
 時代劇の役者と言っても良さそうな侍風の男だったが、実際にあの男と殺陣を演じられる者はまずいないだろう。
 その者が一流であればあるほど、あの侍の眼光、一挙手一投足から放たれる空気が、本物の殺気であることを身体が理解してしまう。知らず腰が抜けるか、得物を取り落とすか。なんにせよまともな舞台にはなるまい。或いは、傍に寄るだけで失神する者すら出るかもしれない。
 気質を隠すすべも知らない粗暴な男なのか、それとも隠してなお抑えきれない興奮が身を包んでいるのか。いずれにせよあからさまな闘志を漲らせて歩み去った姿に、何故か嫌な予感を覚えた。

 ――もし、仮にあの闘志の向く先が自分だったとして、今の自分は勝てるだろうか?

 そんな仮定を立ててみる。
 戦士の性を刺激されたというには男の眼光は異様に過ぎ、手合わせを望むには邪気が強すぎたが、しかしその殺気に憎悪の穢れは感じなかった。
 漏れ出る剣気はその全てが内向きで、斃すも破られるも己が為――そんな求道者めいた孤高の魂を感じ取ったがゆえに、そんなことを考えているのかもしれない。
(ああ……つまり、私は)
 重ね、比べているのか。
 あの見知らぬ男と、ミスを繰り返し、それが取り返しの付かないことになってはいないかと考え続けている焦燥から脱却したいと藻掻く自分を。
「――無様な」
 一言呟き、頭を振って邪念を追い払う。
 と、その拍子にフードが脱げ、美しい金髪がこぼれ出た。降り注ぐ雨をたちまち髪が吸ってゆく。その不快感は、胃に溜まる焦燥という名の泥を表しているように思えた。
「急がなければ」
 知らず呟き、固く拳を握りしめながら、セイバーはルヴィアゼリッタに聞いた魔術師の屋敷《古墳館》の敷地へと足を踏み入れた。


   4


 正直なところ、ルヴィアゼリッタは手詰まりと言えるほどではないにしろ、袋小路に近い状態に陥ったように感じていた。
 明らかに本調子ではないセイバーの手前、毅然としたところを見せたが、投げ出したくなる一歩手前というのが彼女の精神を表す言葉としては最も正しいだろう。
 車を用意するという執事の言葉を断り、らしくもなく傘をさして屋敷から寮までの短くはない道のりを歩いているのは、考えを纏める時間が欲しかったのが一番の理由である。
「目的……そして目的地。そして魔導書。それから、彼女を連れ去った理由」
 考えねばならないことはいくらでもあり、そしてそのどれもが推理に足る情報が少なすぎる。そも、どこへ行けばそれが得られるというのか。今はまだ、セイバーに感謝されるほどの物を手に入れてなどいないのだ。
 そのうち魔導書については、確かに多少の知識を得ることには成功したのだが――
「――! っ、ふぅ……」
 背筋を奔った不快感に慌てて思考を止め、溜息をつく。
(あんなこと、話せるわけがない)
 そう馴染んでいるとは言い難い図書館だが、それでも空気からしてまるで違う場所から流れてきているかのような異様な空間に迷い込み、見覚えのない司書から聞いた話というだけでも疑わしいというのに、内容といえば聞いたこともない外宇宙から飛来した神だの、かつての地球の支配者だの、目覚めただけで人類が滅亡するような存在の復活だのという与太話。ただでさえ参っているセイバーにそんなことを話せば、怒り出すか、逆に心配をかけてしまうだろう。
 ――否。
(違う)
 そう、違う。ルヴィアゼリッタがセイバーに対し口を噤んだのは、信じられなかったからではない。
 からだ。
 それほどに司書の言葉は理知的で含蓄に溢れながら、この上ない臨場感と畏怖と狂気を持って彼女の脳髄に突き刺さった。
 踏み締める大地、吸っている空気、経験した過去、信じていた未来、好きな食べ物、嫌いな生き物、今、そこにある現実。その全てが嘘になってしまうような、鉄筋コンクリートで補強された家に住んでいたはずが、目が覚めたら地上数千メートルに吊られた薄氷の板だったかのような錯覚。
 自分が当たり前だと思っていたものは幸運どころではなく純然たる奇跡の賜物で、本来なら身じろぎ1つで真っ逆さまに落下してしまう世界に住んでいたと知らされるようで。
 怒った途中で話を打ち切っていなければ、その場で嘔吐していたかもしれない。
 そして何より、話が進むにつれ、ならばその絶望に身を任せてしまえばいい、と囁き始める自分が怖ろしかった。
 魔術師がまずすべきことは無駄を覚悟すること。幼い頃から叩き込まれたその精神がなければ、実際に絶望していた可能性は低くない。
 話したところで自分の言葉ではその恐怖の万分の一も伝わるまいが、今の己の状態を人に開示することで、自分が恐怖していると認めることで底無し沼に嵌ってしまうのが怖かったし、それがセイバーに伝播してしまうのも避けたかった。
(《穴蔵》の人達も、こんな気持ちなのかしら)
 魔術協会の中でも特に秘密主義色が強いエジプト支部の錬金術師達は、その高度な計算能力で「答え」を得たのだと、まことしやかに言われている。
 つまり、膨大な情報を得てそれらを多角的に処理することで遙か未来を算出することを得意とする彼らは、逃れられない人類の滅亡を知ってしまい、それに対抗するために必死になって強力な兵器を秘密裏に開発しているのだという噂があるのだ。
 多くの魔術師達と同じくそんな話を鼻で笑っていたルヴィアゼリッタも、あんな出鱈目な神話を聞かされては、ある種の共感めいたものを――
「な、何を考えているんですか、わたくしは!」
 慌てて否定し、思考を引き剥がす。
 危ないところだった。油断すれば寄ってくるその思考は、まるで心に虫食いができたようだ。自身の心の腐敗に湧いた蛆は、その腐敗した肉ごと落とさなければ殺せない。
 思考の切り替えという簡単なようでいて実に難しい作業は、確かに優秀な魔術師であるルヴィアゼリッタの意志力があってこそと言えたろう。
 隠し通したつもりだったが、この調子ではセイバーには何か感付かれたかもしれない。
 なんにせよ、今は他に調べるべきことがいくらでもある。魔導書については紹介された――紹介者があの司書であることが実に嫌な予感をかき立てるが――魔術師のところへ向かったセイバーが同じ見解に達したときだけ、今の話をすることにしよう。

 そう決めたところで、ちょうど目的地の学生寮が見えてきた。
 図書館以上に通い慣れない道だったが、地図は上手く頭に入っていてくれたらしい。数えるほどしか訪ねたことのない――そして人数も決して多くない――友人の部屋に行き、怪しい人物が来なかったか、凛が浚われた状況はどんなものだったか、もっと念入りに聞いてみるのが今回の目的だ。
 投資を怠ってはいないらしい上品なマンションは、しかし上を見上げればまるまる部屋1つ分の大穴が穿たれ、工事現場のような色付きのビニールがかけられていた。今は暗くなってよく見えないが、昼間は来てみれば、周りが小綺麗な外観になっている分かえって痛々しく見えたことだろう。
 その外壁を溜息でもつきそうな面持ちで眺めながら入り口まで歩くと、なんとガラスの扉までが破壊されていた。破片が散らばっていないことから、昨日の「巨人」の出現の際か、或いは敵が侵入する時のことなのだろう。
(あら?)
 とすれば、まるきり外敵同然の入り方で、敵は凛を浚ったということなのだろうか。
 ふと気になって、管理人室に回線が繋がるはずのボタンを押そうとした手を止め、試しに扉に空いた大穴をくぐってみた。
 数歩進むと、背後でその自動扉が開く。内側からは無条件に反応するようになっているのが、マンションの入り口の構造だ。しかし案の定というべきか、警報が鳴る様子はない。その場で10分ほどぼうっと待ってみても、警備員が駆けつけてくるようなこともなかった。
 仮にもいたるところで敵を作り、秘密主義でならした協会系魔術師の入居を前提とした寮だ。住人であることを示すキーか、管理人に取り次いで貰わない限りはたとえ本当の住人であろうと入れないセキュリティが敷かれているはずなのにも関わらず、だ。
「――やはり」
 積極的か消極的かは分からないが、協会側にも協力者がいたことは確実なようだ。或いは、凛とセイバーが事件前に、協会は敵の脅迫に屈し、不干渉を決定したと考察していたのは正解だったということか。
「業が深いとは、まさにこのことですわね」
 ルヴィアゼリッタは今度こそ、盛大な溜息をついた。
 彼女もさすがに協会のことを純粋で求道的な研究者達の集まりだと思うほど夢想家ではなかったが、こうまで俗な面を見せられると怒りも湧いてこない。結局は人間の組織だということだ。
 構わず階段へ向かおうとしたところで、管理人と話をしておくべきかかもしれないと気が付いた。
 セキュリティの解除を行ったのが誰かは不明だが、とりあえず寮の管理人である可能性は今のところ3番目に高いと言って良いだろう。セキュリティ会社の社員を買収した可能性が2番目、その両方に話が通っているのが1番目だが。
 たとえ無関係でも、責任がないとは言えない立場だ。少々キツく腹を探られるのも致し方なしと諦めてもらうとしよう。

 そう思い、階段を通り過ぎて1階の一番奥の部屋へと近付いたときだった。
「――! ――っ!」
 なにやら言い争っている、より正確には誰かが一方的に怒鳴っているらしい声がドア越しに響いてきた。
「お客様かしら」
 野次馬根性ではないが、問いつめようとした矢先にその対象が誰かと揉めている、という状況は実に興味深い。
 とはいえ、基本的には防音仕様のマンションだ。玄関口近くで怒鳴っているらしいことは分かってもその内容を聞き分けるとなると、条理の範疇にある人間の耳では不可能だろう。それでもなお聴きたければ、条理の範疇にない耳を作る、という少々真似をする必要が出てくるのだが……
 だが幸か不幸か、その口喧嘩だか激論だかは、ルヴィアゼリッタに常識外の手段を用いてまで役に立つかどうか分からない会話を盗み聞きする是非について考える機会を与えることなく、決裂という形でその収束を見たようだった。
「――ったよ。あの大穴空いてる部屋にゃ誰も住んでなかったし、ガス爆発で部屋が吹き飛んで、バイクが突っ込んで入り口が割れた。そうなんだな!?」
 がちゃり、と音を立ててドアノブが回り、自棄糞気味の啖呵らしきものを吐きながら、少年が飛び出してきた。肩を怒らせた少年は、歩いてきていたルヴィアゼリッタに気付くと頭を下げて軽く会釈らしきものをしながら、脇をすり抜けて駆け出す。
「あら? 貴方」
 ルヴィアゼリッタの声も聞こえていないのか、少年は開いた自動ドアから外に出ようとしている。
 当初の予定通り管理人を締め上げるか、少年を追うか。悩んだのは本当に一瞬だった。
「ちょっと貴方、お待ちなさいな!」
 少年は怒っていた。
 それはつまり、その部屋に住んでいたはずの誰かについてか、或いはそこを襲撃した何者かについてか、何らかの確信があるということだ。そのことについて口を噤んだらしい管理人よりも楽に情報が聞けるかもしれない。
 ルヴィアゼリッタは即断し、後を追いかけた。



 少年の足は速かったが、寮の前の通りが曲がりくねったものでないのが幸いし、すぐに捉まえることができた。
「っとと。何だ、俺、ひょっとして何か落とした?」
 立ち止まった少年は、怪訝な顔で革のジャンバーのポケットを探っている。
(やはり)
 見覚えがあると思ったが、その服装といい、一房青く染めた前髪といい、今朝ぶつかった少年に間違いない。
「何も落としてない……よな? 走って追いかけてきてさ。ほら、濡れちまってるじゃないか」
「っ……いえ……そうではなくて」
 全力疾走などすれば、傘など役にも立たない。見れば、肩やスカートに黒く染みができてしまっていたが、しかし今はそんなことを気にする場合でもない。
 ルヴィアゼリッタは息を整えながら、さて何としてこの偶然、得難い情報源を味方につけるべきかと素早く思案する。
 正直に全て話せれば良いのだが、相手の目的も分からない。
 出てくるときに管理人に怒鳴り散らした内容からして敵の一派ではないという確信があるが、同じ事を調べているようでいて、当然こちらにあって相手にないもの、その逆があって然るべきだ。最悪こちらが吐き出すだけで終わる、というのは避けたい。
 では何と言えばいい。便宜上、相手の役に立つ同志であることをアピールでき、話すことでアドバンテージを失わない共通情報。
 それは何だ。遠坂凛か、魔導書か、《門》か、はたまた日本の航空機墜落事故か。
 それでは弱い。魔導書は今回の件にどの程度関わっているか不明な段階であるし、現場で取り合ったというセイバー以外は知らない情報でもあるから公開は保留。ジョーカーにするべきだ。
 しかし他の要素ではこの少年の気を引けるか心許ない。他に何かないか。
(ガス爆発――バイクが突っ込んで――)
 少年が激昂して口走っていた言葉を思い出す。
 大学の公式見解がどんなものか正確には知らないが、そんなものなのだろう。そしてここで問題なのは、そのことに対して少年が遺憾の意を表していたことだ。まるで、そんなはずがないだろうとでも言いたげに。まるでそのことについては確信を持った正解を知っているとでもいうかのように。
(ままよ――)
 数秒にも満たない思考ののち、ルヴィアゼリッタは小さく息を吸って、
「貴方……アンチクロスについて探っているのではなくて?」
 と、切り込むように言い放った。

 数秒の間があった。
 少年は驚いたように目を見開いた後、その時になってようやく警戒心が芽生えたかのように鋭い目つきでこちらを見据えてきた。
「……お姉さん、ひょっとしての人?」
 どこまで知っているのか、とその瞳が語っている。猜疑心を丸出しにして隠語まで使ってきた少年の態度に、しかしルヴィアゼリッタは心の中で快哉を叫んでいた。
 間違いない、この少年も負い目キズありだ。まっとうな方法では情報が得られずに手詰まり寸前に陥っている、自分やセイバーと同じ状況にある者だ。自分の一言が警戒心を呼び起こしたということは、核心に近いところを突いたということ。普段ならば関わりたくないところだが、今はむしろ協力者としては申し分ない相手だ。
 注意深く言葉を選びながら、ルヴィアゼリッタは少年を誘導しにかかることにした。
「ええ、貴方が思っている通りのですわ。けれど貴方の出方次第では――」
 そこで言葉を切る。
 どうする、とは言わない。聞きようによっては、そして少年が抱えているキズによっては「従わなければ協会に突き出す」という脅迫にも取れるだろうし、「自分が満足できるだけの報酬が得られれば、機密事項の漏洩も辞さない」という交渉にも取れるだろう。
 ここで過剰な反応を示すようなら、残念だがお別れだ。だが、乗ってくるようなら――
「良いぜ。どうやら困ってるのはお互い様みたいだ」
「……え?」
 かくして、返答はあった。
 それは狙い通りの協力を取り付けたも同然のものだったが、しかし。
「わたくしが、困っているように見えましたか?」
 ポーカーフェイスには自信があったのだが。勘が鋭いというのか、それとも自分の境遇を知ってなお交渉を持ちかけてきた事実からの推測だろうか?
「え、あ、いや、なんとなくだ、なんとなく」
 が、少年は何故かその言葉にこそ驚いたように、誤魔化すように愛想笑いを返してきた。何か気に入らないことでもあったのか、拳骨で自分の側頭部など叩いている。
 不審な態度ではあるが、さりとて危険を感じるような仕草でもない。
 どういう意味なのかと考え込みそうになったところで、少年は先手を打ったように声を重ねてきた。
「気にしないでくれ。とにかく俺はお姉さんの思ってる通り、ちょっとワケありで《門》とアンチクロスを追ってるんだ」
「……ええ。まあ確かに、お互いそのことが分かれば十分ではありますわね」
 不問に付したのは言葉通りの理由よりもむしろ、毒気を抜かれるような妙に人懐っこい笑顔と、そして何より、寮を飛び出すときの声のせいだった。事件を無かったことにする協会側のやりように憤りを感じている、という事実に共感を覚えたのかもしれない。
 ともあれ、互いにあまり動きを協会へ悟られたくない身だ。協力を取り付けたのならそうそうに戻り、情報を交換すべきだ。
 そう判断してルヴィアゼリッタは、少年がついてくるのを確認して、通りを歩き始めた。
「え、どこに行くんだ?」
「わたくしは寮生ではありませんから。こんな雨の中で立ち話もなんでしょう。紹介したい者もいますし」
 正確には、少年が万が一敵に回りそうな場合の保険と護衛だが。
 とにかく、屋敷に招待するのもあまりよろしくはないだろう。一度電話して、屋敷の者に席が離れたレストラン――勿論、まともに食べられる物を出すところで――を見繕わせよう。
「へえ。どんな奴?」
 思えば、気が緩んでいたのかもしれない。
 手詰まりを意識していた矢先の降って湧いたような、まるで誰かがそう決めたかのような運命の巡り合わせに、敢えて開示する必要のない情報を口にしてしまっていた。動きをできるだけ人に悟られたくないならば、当然必要事項の交換は互いにだけ通じる場で行うべきであったのに。
「ええ。頼りになる剣士セイバーを」
 彼女はいつ頃戻るだろうか、どんな話を聞いてくるだろうかと考えながら、正体不明の少年に対するちょっとした牽制のつもりで、その名を口にしてしまった。
 そして。

「――ほう。その剣士、是非拙者にも紹介して貰いたいものだ」
 その些細なミスは、考え得る限り最も聴かせてはならない者の介入を招いてしまった。

「誰だ!」
 通りの先から届く殺気に対し、誰何の声を発する少年。
 だが、既には動いている。
(雨で……人の気配に気付けなかった……? そんな馬鹿なことが!)
 ルヴィアゼリッタは混乱する頭の中で、視界にほんの一瞬、黒い影が映ったような気がした。
 直後、鳩尾に鈍痛。
「え――何……が」
 起こったのか、とは聞くまでもない。何か固い、棒状の鈍器のようなもので突かれたのだ。しかしそう理解したときには、砕かれんばかりに強打した横隔膜が肺を爆発的に押し上げ、完全に呼吸の自由は奪われていた。
 薄れゆく意識の中で、どさり、というもう1人が倒れる音と、つまらぬな、という心底退屈げな男の声を聞いたような気がした。


Next「Hollow Warrior」
戻る