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2004/08/12

Recurring Nightmare 第14話「Hollow Warrior」

   1


 門を潜ろうとするセイバーには、その広壮な邸宅はまるで生きているように見えた。
 古来より迷い込んだ人間を喰らう怪異なる洋館の物語は存在するが、イメージしたのはそういったものではなく、ざわざわと枝を揺らして咆吼する巨大な樹木と、それを覆わんばかりに集ってカリカリと歯を立てる無数の蟲だった。
 蟲の略奪が大木を侵し、悲鳴を上げさせているのか、それとも進んで樹液を与えている大木が蟲を冒し、駆り立てているのか。
 そのどちらであるにせよ、篭もる怨念は如何ばかりであろう。蝕まれ続け、それでもなお命を育むという義務を背負った大木と、ただ盲目的に毒を啜ることだけしか考え得ないよう変質し、やがて骸となり樹木の養分と成り果てる虫達と。
 見た目では少々歴史を感じさせる程度の古い屋敷だったが、その実、怪異といえば確かに怪異としか言いようのない、ただ腐るだけの現象がそこにあった。
 誰か建てたものかは知らないが、ここまでの土地も珍しい。怨念の量という意味ではセイバーの主達の故郷にある公園も近いものはあったが、ここは災害跡ではなく、住居なのだ。
(異常を外に漏らす結界は三流……とは、シロウの言ですが)
 しかし漏れ出てくる邪気が一級となれば、差し引きでその屋敷の主は何流ということになるだろう?
 そんなことを考え、ごくり、と知らず喉を鳴らしながら足を踏み入れた瞬間、セイバーはまるで泥の池に落ちたような錯覚を受けた。
(ああ……駄目だな)
 何が駄目なのか、という明確な答えは得られなかったが、とにかくそう思ってしまったのだから、やはり何かが非常によくない場所なのだろう。
 質量すら伴う高濃度の瘴気に覆われた屋敷は、その住人がまっとうな人間ではなく正道たり得ぬ妖術師の住処だと雄弁すぎるほどに語っていたが、さりとて魔術、魔力そのものに危機感を抱くほどセイバーもお行儀の良い世界の住人ではない。そのセイバーの直感を刺激するのだ、危険性という点では察して余りある。
 尤も、それでこそ、という思いがあるのも事実ではあった。
 大英博物館において《ネクロノミコン》と並んで絶対に閲覧許可が下りない書物の1つとされる《水神クタアト》、そしてルヴィアゼリッタの奇妙な嫌悪。そして、《門》から出現した少女を巡る戦い。……感じてはいるのだ、もう既に、なりふりなど構っていられる状況ではないということを。
 セイバーの胸中を表す言葉は、虎穴に入らずんば虎児を得ず、というよりも、溺れる者は藁をも掴む、といった方がより正確であったろう。
 ずぶずぶという幻聴を聞きながら屋敷の門を潜り、玄関前のベルを鳴らす。
 ややあって扉が開き、姿を現したのはスーツ姿の女だった。
「夜分に失礼致します。私は――」
「お客……様……ですね。どうぞ」
 生気のない瞳をした女は、どこかぎくしゃくとした不自然な動きでお辞儀をする。
 首から提げられた黒いペンダントが、笑うように揺れた。



「おほほ。いらっしゃい、可愛らしいお嬢さん。お客様なんてホントに久しぶりでアタシ、嬉しいわあ」
 案内されて薄暗い応接間へとやってきたセイバーは、歓迎の意を表す男の姿に心底ぎょっとした。扉を開けた女に続いて入った姿勢のまま、ぎくりと身体を強張らせる。
 無理もない。目の前で道化の如く大袈裟な身振りで頭を垂れている魔術師は、気配に敏感な者ならずとも一目で分かるほどに生命の匂いを発していなかった。
 鎧めいたぶかぶかの衣装と仮面で、人間としての輪郭が露出していないから……という問題ではない。生物として当然あるべき息遣いが、生命として感じられるべき躍動感が、欠片たりとも存在していなかった。
 それでいて、おぞましくも仮面の奥に隠された双眸から放たれる濁った光は、まごうことなき人間だけが放つ知性のそれであった。狂気と欲望と凶暴性を秘め、或いは惜しみなく顕し、そしてなおそれを自身の意志で扱う力あるものの眸だった。
 まさしく魔術師。まさしく妖術師。まさしく魔人。
 しかも、部屋に充満する強烈な臭いはどうか。どこから漂ってくるのか不明だが、どう考えても腐った肉の臭いとしか思えない。
 戦慄の中でセイバーは、流石に魔書の主として大英博物館から紹介を受けるだけのことはあると、奇妙なところで納得していた。
 だがそれは、セイバーが魔導書という存在に対し、直感を働かせていたということでもある。
 つまるところセイバーは、見る者全てに不快感を抱かせずにはいないこの腐った道化をその万民と同じく嫌悪しながら、そんなモノが魔導書の主であること自体には、不思議と何の違和感も感じていないのだった。
 英雄としての勘、尋常なる生命としての本能、カリグラとの戦闘経験、それともルヴィアゼリッタの嫌悪か。いずれによるものかはさておき、セイバーは自分が求める魔導書なる存在が例外なく外道の知識で編まれた怪異であることを正確に理解していた。
(……しかし)
 普段ならば決して関わらず、主にも近寄らせないタイプだが、しかし今回の件にこの道化姿の魔術師が関わっていないなら現状、問題はない。状況を考えれば、得体の知れぬ妖術師に協力を仰ぐ程度の妥協はやむを得ないだろう。
 悩むとしたら、法外な代価を求められた時のことだが――

「うふふ。どぉしたの、勇ましい剣士さん?」
「――いえ。失礼しました」
 笑い――嘲笑に聞こえた――を含んだ声に応えながら、セイバーは勧められたソファに座る。
 腰を下ろした瞬間、埃が舞った。吸い込まないように呼吸を調節しながら、正面の道化と気付けば睨み据えるような目つきで対面していた。
 しかし、やはりというべきか、道化の妖術師はセイバーの視線など意に介した風もなく、先程の女に運ばせた2つのグラスにワインを注ぎ、片方をセイバーの側に寄越す。
「お話するんだから、やっぱ舌を湿らせないとねん。この雨の中、寒かったでしょお? 暖まるわよん」
 言いながら、自身も仮面を外すことなくグラスを傾ける。こぼれたワインが仮面を伝って緑色の服を濡らすが、当人は気付いていないのか気にしていないのか、拭うこともしない。
 ごくりごくりと喉を鳴らし――本当に飲んでいるらしい――飲み干した道化は、早くも2杯目を注ぎにかかっている。
「どうしたの、美味しいわよん?」
 道化はセイバーの当惑を見透かしたかのように、からかうような声を発してくる。喋るたび跳ね上がる語尾に嘲られているような気になるのは、見た目の印象が悪過ぎるせいだけだろうか。
 とはいえ、今相手の機嫌を損ねるメリットがあるわけでもない。直感がちくちくと首の後ろを刺す針のようにして告げる正体が何なのかは未だ判然としないが、それを確かめるためにも、場を停滞させるのは良いことではないだろう。
「――何でもありません。それでは、ご厚意に感謝して」
 応えてセイバーは意を決し、妖術師の差し出したワイングラスに口をつけた。


   2


 ティベリウスはセイバーがグラスを傾けその喉を動かすのを見て、心中で喝采の声を上げていた。
(勝ったわよ、ティトゥスちゃん?)
 ティトゥスを追い出し、さてどうやって獲物を誘い込むかと悩んでいた矢先にこれだ。なんとかいう富豪だか貴族だかの令嬢が匿っているという話であったから、2,3日がかりの罠になるかと思っていたのだが。
(流石はコスモ・マトリックスってトコかしら、情報が正確で助かるわほんと)
 舌なめずりをするような心持ちで、ティベリウスはまさしく聞いた通りの姿をした華奢な少女を仮面の奥の腐った瞳で観察する。
 いわゆる暗器、隠剣の類は持っていないと思われる。ソファに座らせる程度のことで音を出すほど間抜けでもあるまいが、剣士を名乗るに値する得物が無いことを確認できれば十分だ。引き寄せか作成か、いずれにせよ武器を魔術的手段で用意する必要があるならば、そうさせなければいいのだ。
 気付いているかどうかは不明だが、この古墳館に入った時点でセイバーはこのティベリウスの腹の中にいるも同然。その内面に踏み込むことこそできないにしろ、装備品などわざわざボディチェックをするまでもない。
(それはそれで、すっごく楽しそうなんだけどねん)

 美しい少女だと思う。
 邪魔にならないようにか、後頭部で纏められた自ら輝いているかのような金髪。こちらを真っ直ぐに見据える強い意志を秘めた緑の瞳。その健康的な血色を見せながらなお白い肌。狂気に冒された稀代の人形師の手になる作品かと思わせるほどの完璧さ、人とは思えぬほどの素晴らしき生命力に嫉妬すら覚える。
、そしてそれ以上に、その存在を知った時にも増してこの少女を手に入れたいという欲が膨らんでゆく。
 この少女は一体どんな味がするだろう?
 何物にも侵されぬ誇りに焦燥という名の彩りを添えた聖緑の瞳を恐怖に歪ませ、可愛らしいとすらいえる小さな口からは震えた声。捕まえた自分が恐怖が長続きするよう、飾り気のない服を少しずつ少しずつ焦らすように引き裂き、白い肌に爪を突き立てた瞬間、少女は空気をつんざくような甘い悲鳴を響かせる。すかさず舌を挿し込んでは少女のそれと絡めながら、歯の本数を数えるようにして口腔を舐め回した挙げ句、既に分泌されなくなって久しい唾液の代わりに腐汁と蛆を窒息するほどに流し込み、自身の舌をそのまま押し込んで栓をする。もがき暴れるか細い手足を拘束し、内臓を切り刻んでワインのように甘い鮮血をゆっくりと味わいながら、数十本もの自分自身で全身の穴という穴を犯し尽くして少女から気力も精力も失われた頃、その瞳孔から噴き出るほどに激しく汚濁をぶちまけるのだ。
 考えるほどになんと刺激的。行儀良くソファに座る少女の痴態を脳裏に浮かべるそれだけで絶頂を迎えそうだ。

 が、そんな下劣な妄想をおくびにも出さず――とはいえ別段隠しもせず――、ティベリウスは卑下た笑みが貼り付いた仮面の下部をケタケタと鳴らしながら、先ほどから続くセイバーの言葉を吟味する。
「ふむん。魔導書、魔導書ねえ。なんでそんなのが知りたいか分かんないんだけど……でもお嬢さん見込みあるわあ。アタシ達の世界は魔書を持たない奴を魔術師とは呼ばないんだから」

 それは嘘ではない。
 アーカムを中心とした魔術結社、そしてその系譜に連なる勢力の多くはただ魔術が使えるだけの新参入者ニオファイトを魔術師とは認めない。
 尤も、それは魔導書の危険性を克服したことによる称号であるだけではない。
 かつて魔術師の総本山にして最大勢力である魔術協会は、神の御業以外の神秘を実力で否定する教会との緊張関係を緩和する為、その妥協点として教会によって焚書指定された稀少な魔導書を公的に「無い」ものとして扱い、神秘の研究よりも保存を優先したことで、所属する魔術師のほとんどが単独で能力を開発せざるを得ない状況になった……という歴史がある。
 一部の結社が書を持たぬ魔術使いを魔術師と呼ばないのはそういったことに対する多分に選民思想を含んだ揶揄の色合いが強く、実際のところ、ただ魔導書との契約に成功してみせれば実践級魔術師かといえばそうとも言えないところではある。
 しかし、彼らアンチクロスの持つ最高位のものとなれば真実、力ある魔術師の証明として申し分ないであろう。
 アウグストゥスのような自らの力で本来無関係な書物を魔導書へと昇華してみせた神域の天才を例外としても、妖蛆の秘密、水神クタアト、セラエノ断章、エイボンの書、屍食教典儀……いずれも魔の書と呼ぶに相応しき神秘の最奥であり、またそれらと契約してなお自己を保てる魂の強さは、世界中を見渡してもそうは並ぶ者もいまい。
 そういう意味で、セイバーが魔導書についての知識をこの古墳館に求めたのは正解であり、そしてこの上なく不幸な選択であろう。

 ティベリウスは使の女に命じて、一冊の本を書庫から持って来させた。
「それは……?」
 怪訝な顔に得意げな笑みを返し、ティベリウスは女から受け取った黒い装丁の書物、幾度となく読み返したページを開き、セイバーの前に置いた。
「ねえお嬢さん。ワームってご存知?」
這う虫ワーム?」
 セイバーはドイツ語で書かれたその難解な書物に目を向けながらも、ティベリウスの発した言葉に顔の疑問符を大きくする。
「そ。ミミズ、蛆、カイチュウ……そういう虫のことよん。……突然だけどお嬢さん。アナタにはアタシがどう見える?」
「え? いえ、その……」
 さらに唐突なティベリウスの言葉にセイバーは混乱を深めながら、何と返答したものかと言い淀む。
 それはそうだ。いくら見るからに不快な相手でも、面と向かって「腐った死体のようだ」とは言えまい。他のアンチクロスか、または憎き敵対者達ならば歯に衣など着せる訳もなく、はっきりと舌に乗せてくるだろうが。人を罵倒することにかけては人後に落ちないと自負するクラウディウスなど、ここぞとばかりに思いつく限りの罵詈雑言を浴びせて来るに違いない。
 尤も、言い淀んでいる時点で特徴を正確に掴んでいる証左ではある。
「おっほほほほ。良いのよ正直で。んでね、ここでの問題はアタシが腐ってることじゃなくて、腐ってるこうして魔術師として永らえてるってことなの」
「……はあ」
 納得いかなさげな生返事。言っている意味は分かるが脱線としか思えないといったところだろうか。
 その様子に気をよくしながら、ティベリウスの解説は続く。
「虫は昔から医学にもよく使われてね。蛆虫マゴットに壊死した細胞を喰わせるなんて方法は何千年も前から行われてたの」
 原始的な方法であるから、その蛆自身が媒介する病原体に対する対策など、当時は至らない部分も多かったが、立派な医療法である。近年になり、抗生物質が効き難い体質の人間を対象として無菌培養した蛆を使う方法が見直され始めているが、ティベリウスにしてみればとしか言いようがない。
 何故なら、かのルードヴィヒ・プリンは放浪生活の中で出会ったシリアやエジプトの魔術師、妖術師達の知識から、16世紀のうちにはより完成した形でその技術を確立していたのだから。
 即ち、一切の外界からの汚染を赦さない、赦すはずもない手段。魔術情報体による妖蛆の無限生成という到達点である。
 実のところ、魔術的にただ肉体を再生するのも年齢を固定するのも、さほど難しいことではない。問題点は永い期間を経て魂が腐敗することだ。
 《妖蛆の秘密》は、そうして魂に合わせて腐った形へと作り替えられてゆく術者の肉体を無限に湧き続ける蛆に自ら喰わせ、そうして得た蛆の活力と構成魔力を新たな肉体の生成にあてる。
 肉体そのものを失ったところで、書がある限り蛆は無限である。結局は体積分の蛆を発生させたのちに肉体を構成し、減った分は余所から供給すれば良いのだ。そういう真似ができる程度には、《妖蛆の秘密》が蓄えた概念と魔力は強い。
 臓硯のような完全な不老不死を求める気持ちも分からないではないのだが、ティベリウスにとってはそれで十分事足りる不死なのだった。
「――そういうコトで、遥か古代から人間の生命に密着してきた蛆虫を信仰の対象にするイカれた宗派ってのも、世の中にはあるわけよ」
 そろそろ、頃合いだろうか?
 話しながら、ぎくしゃくと歩く女をセイバーの傍に寄らせ、ワインの代わりを注がせる。セイバーは遠慮していたが、注がせるだけならと思い直したのか、それとも機嫌を損ねて会談が途中で打ち切られることを怖れたのか、させるがままにすることに決めたらしい。黙ってティベリウスを真っ直ぐに見据えてきた。
 十分に話に集中していることを確認し、ティベリウスは仕上げにかかることにした。
「医療に関係してきたからか、それとも皮膚の裏側で飛び跳ねてるさまがそう見えたのか。それは分かんないけど、そうした人達は蛆虫に、動物の生命や身体を操る力があるとも考えていたの」
 セイバーは既に、目の前の本にも傍の女が注ぐワインにも注意を払わず、半ば身を乗り出すようにしてティベリウスの演説の全体像、そしてそれが自身の求める情報とどの程度重なるものかを吟味している。
 大した精神力だと感嘆する。
 マスターを奪われ、微かな希望を求めてやって来た先は瘴気と腐臭渦巻く妖術師の城。息をするのも嫌悪するような空間の中、今すぐにでも帰って身を清めたいに違いない。
 目的の為に堪え忍ぶその姿は実に感動的で――そして実に蠱惑的。

 ティベリウスは、少女を見た瞬間からの妄想を実現させるべく、号令を下す。
「――例えば、こんな風にねん」
「な――に?」
 セイバーの驚いた声。
 ティベリウスの声に応じるようにして、肩を寄せ合わんばかりに接近してワインを注いでいた女がセイバーに組み付いたのだ。
 突然のことに対応が一瞬遅れる。如何な英雄とて、その一瞬の油断こそが命取りになるのは歴史の語るところだ。

 ――――ワムス
 ――――マゴット
 ――――妖蛆ウェルミス

 まるで肉食獣が上げる勝利の雄叫びのような呪文に、セイバーに組み付いた女が
「な――カーステア……」
 悲鳴とも怒声ともつかない声もかき消える。何故なら、爆ぜた女の肉体は、その体積を優に倍する蛆の大群となってセイバーに頭から降りかかったからだ。その重量にか不快感にか、ソファからずり落ちそうになりながらもテーブルに手を突いて持ち堪え、敵意に燃える瞳で道化を睨み据える。
 祝福とばかりに、ティベリウスはワインが注がれたばかりのグラスを掲げ、必死に倒れるのを堪えているセイバーへとぶちまけた。ワインを浴びた蛆はまるでその味に喜ぶかのように、白い柔肌を、そしてその奥の内臓を租借せんと活発に蠢く。
「おーっほっほっほ! カーステアズ師謹製のこのワイン、美味しかったかしらん?」
 哄笑をあげながらティベリウスはその鋭い鉤爪で奇怪な印を素早く結び、それを蛆たかりセイバーに向けて一声叫ぶ。
「バッド・トリップ・ワイン!」
 テーブルの上で開かれたが闇色の霧のようなものを放ち、セイバーの身体にかけられ、そしてにあるはずのワインと結びつく。
 セイバーは今度こそ、水よりも遙かに重い質量を持った瘴気と蛆の腐海へと沈んでいった。


   3


 郊外の適当な空き地に運んできた2人を降ろし、ティトゥスは1つ息をつく。
 空き地は、より正確には屋敷跡といったところか。廃屋と呼べるほど住居の名残を見せているわけではなかったが、敷地を囲むように柵や門の跡らしきものがあり、また板張りの床だったものだろう腐った木片がところどころにあった。
 取り壊されたのか、それとも何か災害にでも遭ったのか、そしてそれがどれほどの期間、放置されたものか。知る由はなく、また知る必要もないことだが、まるで戦場跡といった様子のその土地に何か惹かれるものを感じて、ティトゥスは決闘場としてそこを選んだのだった。
 降り続く雨の中、しかしティトゥスは全く濡れた様子がない。微かに流れる空気が髪を揺らすことすらない。まるで外界と隔絶された幻か何かのように、その侍の姿は何物にも侵されることなく存在していた。
 ゆっくりと歩きながら、ちらと足下を見下ろし、女の豪奢ではないが富裕層にいることは察せられる上品な服が雨晒しにされることに、多少の罪悪感めいた苦々しさを感じる。が、しかし結局は特に対策を講ずることもなく、ティトゥスは茫洋と空を見上げる。
 その目で闇の中、雨雲の状態が察せられた訳でもなかったが、流れる空気から湿っぽさが薄まったように感じる。
 朝方から降り続けた雨は夜半を過ぎてようやく心なしか弱まり、その音を鎮めつつある。このままなら、そう時を待たずして雲は切れるだろう。
 尤も、そのことに対してティトゥスが特に感慨を抱くことはなかった。来るべき決闘の瞬間に、互いが全力を出せるならそれでよい、と思うのみである。
 空を見るティトゥスが考えたのは、別のこと。

 ひゅん、と小さな、そして不自然な風の音が響いた。

 ティトゥスはその音を訝しむこともなく、静かに瞼を閉じ、耳をそばだてる。
 再び、二度三度とティトゥスの周囲で風が吹く。かと思えば、連続した音は次第に間隔を短くしながら、初めてその着物を揺らし始めた。外界の音は遮断されていき、雨もまた地面に落ちることがない。秒増しに風は強くなり、ティトゥスの髪が巻き上げられる。
 不可思議なことに、その強風は極めて局地的に、より正確に言うならティトゥスの周囲にのみ発生していた。遠くを見るまでもなく、屋敷跡の敷地外はおろか、倒れて眠る2人の男女にもまた一切の影響がない。
 袖が破れ、小さく血飛沫が飛んだ。
 音の正体は正真正銘のかまいたち。旋風で生まれる真空がまるで狙いを定めているかのようにティトゥスの周囲に発生し、その皮膚を傷つけているのだった。
 が、ティトゥスはその暴風、そして己の傷をもさほど気にした風もなく、目を閉じたまま悠然と立つ。
 左手は腰に。そこにあるのは四尺の鋼を包む黒い鞘。ティトゥスは暴風を過ぎて既に小さな竜巻と化しつつある風の中、腰をゆっくりと沈めながら、すぅ、と1つ息を吸い――
「――――疾ッ!」
 それをやはり一息で吐き出した。同時に、鯉口を切る微かな音が鳴る。
 起こったのは、それだけだった。だがそれだけで、ティトゥスを取り囲む竜巻は瞬く間に凪へと変わり、元の緩やかな雨が大地を叩き始める。
 仮に気絶している2人が目を覚ましていたとしても、何が起こったのかを視認できたかどうか。空間をも断裂せんばかりに振り抜かれた一太刀、魔力を篭めた斬戟がその身を襲うを斬ったのだと、結果から理解は出来たろう。だが、抜かれた筈の太刀は既に鞘へと納められており、またその銀光が閃くのをしかとその目で見たのか、と問えば、その確信も露と消えるに違いない。それほどにその刹那を物語るものは存在せず、ティトゥスは一瞬前となんら変わった様子もなくそこに立っていた。
 しかし再度、微かな音がティトゥスの耳朶を打つ。先ほどの吹き付ける風のようなどこか大雑把なものではなく、もっと絞り込まれた、質量を持った細い物体が空気を貫く鋭いものだ。
 それを捉えると同時に、今度こそティトゥスはそれと分かる動作を示した。
 鞘にあてられた左手も閉じられた瞼もそのままに、右足を半歩退いて上体を反らす。その刹那ののちには、ばしゃん、と水溜まりを何かが叩き、跳ね上げられた水滴が着物の裾を濡らした。
 いや、それだけならばむしろ軽い被害と言えたろう。何故なら、その風切り音はティトゥスから逸れること僅か数センチ、反らされた上体が一瞬前まであった空間を通って水溜まりを打ち、のみならず大地に直径数十センチにも及ぶ大穴を穿ってみせたのだから。
 間髪おかず連続する風切り音。ティトゥスはそれに従い、または先んじるようにして舞うように跳ね、空間と大地を穿つ不可視の何かをやり過ごしてゆく。
 ティトゥスの移動に合わせ、風切り音もまた苛烈さを増す。しかしどれもティトゥスに傷を付けるには至らず、大地の穴を増やすのみである。そのうち1つでも身体に接触すれば致命打となるのは確実であるはずなのだが、その一打が発生しない。
 そんな意味のない追いかけっこのような時間は、長くは続かなかった。
 足を退き、或いは跳び、そうして少しずつ円を描くように移動していたティトゥスが、自らの運んできた2人の寝かされた場所へと近付いた瞬間、風切り音はまるで嘘だったかのように消え去った。
 一時前の怪異を表す痕跡は大地に穿たれた無数の大穴と、ティトゥスのところどころが裂けた着物のみ。その1つ1つが人間を楽に絶命させうる凶悪さであったことを示すには、些か小さすぎる痕跡というしかない。
「――やめておけ。風の」
 ややあって、そこに何者が存在しているのか確信した声で呟く。
「他者を慮った微風が拙者を刻み殺すよりも、拙者がの首を刎ねる方が早いぞ。其処の女やら諸共、細切れにする心算であるなら、話は別だがな」
 果たして、再びティトゥスを取り囲もうとしていた新たな風は、その忠告とも恫喝とも取れる言葉に気圧されるようにして動きを止め、今度こそ空間には静寂が降りた。
 その事実に満足したかのようにティトゥスはようやく瞼を開き、何者も存在しないかに見える虚空を見上げて唇の端をにやりと歪める。
「お主等、魔術機もまた我等と同じく、人機一体を以て初めて力を発するものであろう。その機を奪う野暮はせぬ故、拙者がセイバーと決着をつけるまで、其処で見ているが良い」
 ぶおん、と呻るような風鳴りが応える。
 事実、呻っているのかもしれない。そのを破られた屈辱に、そしてその乗り手の首を掴まれた窮地に。
 或いは、ティトゥスの言葉に驚嘆しているか、呆れているのかもしれない。
 今、ティトゥスは仇敵の命を握る圧倒的有利な状況にありながらそれに頓着せず、ただ決闘の相手を待つ間、干渉を防ぐ為の材料として使い、あまつさえこう言ってのけたのだ。前だと。
 《古きもの》が持てる技術の粋を結集した殲滅兵器ならずとも、多少なりと力を誇る者ならば看過できる台詞ではない。
 しかしそれは、余裕ではないのだ。
 このティトゥスの精神を理解できる者はいまい。なにせ、当人すらも正しく把握していないのだから。
 外敵を正しく恐怖し、そして戦力を正しく分析し、その上でなお戦う。
 ティトゥスにとり、強者と戦わない自分、白い閃光を見ていない自分は死んでいるも同然なのだ。恐怖も窮地も、そのために付随してくる不可避なリスクであり、デメリットなのだった。
 鬼械神という操者の魂を燃料にして力を発揮する危険極まりない戦機を扱うことについても、ティトゥスは怖れていないわけではない。ただ、それ以上に鬼械神がもたらす力がティトゥスの生き甲斐に必要不可欠であるだけなのだ。

「……で、その肝心のセイバーとやらは来るのかい?」
「来る」
 背後で何かが起きあがる音。そして少年の上げる苦り切った声に、ティトゥスは首だけを向けながら間髪おかずに答えた。
「根拠は」
「餌は此処に。自ら探し出して来るも良し、其処の女自身に連絡を取らせても良し。或いは――」
 そこでティトゥスは言葉を切り、微かな、しかし禍々しい兇笑を浮かべる。
「――ティベリウスが拙者のところへ追い遣られて来るも良し」
 ティトゥスは、ティベリウスが何のために自分を誘導して屋敷を追い出したのか、おおよそのところは察していた。が、そのままセイバーがティベリウスに敗れるとは微塵も思っていない。
 ティベリウスは滅ぼすことこそ難しいが、さりとて殺されずに済ますことなど造作もない。体力と腕に自信がある戦士なら、なおのことだ。鬼械神は別としても、その真の怖ろしさは少数の強者ではなく、多数の弱者を相手にした時にこそ発揮される。
 ティトゥスとは似通った方向性の力を持ちながら、その実何から何まで正反対の属性を持つ魔術師なのだった。
 ティトゥスの言葉に、あっそ、と呆れ果てたように呟いて、少年は汚れた革のジャンバーを脱ぎ、手で泥を払いながら隣に転がされている女にかけてやっている。不機嫌そうに膝をついて座る位置は無造作な風に見えて、その実ティトゥスと女魔術師の間になっている。大した騎士道精神といったところか。
 先のティトゥスの攻撃による打ち身が痛むのか、時折顔をしかめながらも、少年には畏怖や恐怖といったアンチクロスと対峙する者の多くが抱くべき感情が見られない。その身体の緊張は怯えによるものではなく、引き絞られた弓のそれであり、その瞳は気絶した女の世話を見ながらも片時としてティトゥスから離れることはない。
 戦って勝てる相手とは思ってもいないだろう。かといって恐怖が麻痺した人間の行動でもない。
(信頼、或いは自信……か)
 少年の冷静さの理由に関して、ティトゥスの結論は早い。つまるところ、ティトゥスが最大の弱点たる生身の自分を殺さず、魔術機ネクロノームとの戦闘を望んだ時点で、少年は己が相棒の勝利を確信しているのだった。ティトゥスの言質が信用に値するか否かも不明な状況、仮に真実であったとしても先ほど見せた力量、そして下手な行動を取ればその瞬間にでもその首が刎ねられるということを理解してなお、だ。
 必要なのは相手を倒すための隙ではなく、己が戦闘準備を完了するための隙。そして、ただ待つだけでそれがやってくるというのだから、少年には怖れる理由など欠片もない、という訳だ。
(それでこそ)
 それでこそ魔術機。それでこそ死をも滅するものネクロノーム。そして、それでこそ、選ばれた5人の乗り手の一、脇屋光頼。
 ティトゥスは内心で闘争の歓喜に震え、その躰は今すぐにでも数年来の仇敵との決着をつけんと逸る。事実、セイバーを追ってネクロノームと出逢うなど、何の巡り合わせかと思う。
 しかし、今、鬼械神を喚べば折角のお膳立ても水泡に帰すだろう。相手が50メートルの巨人という隠し玉を持つと知ってなお付き合ってくれるとは限らないからだ。
 強者と戦うという点だけならすぐ近くにいるはずの魔術機でも問題ない。むしろ、十分すぎるほどの強敵だ。しかし歴史上の英雄と戦えるなどという今生で一度あるかなしかの奇跡はティトゥスにとって抗しがたい誘惑である。
 尤も、かといって英雄セイバーを取れば、せっかく興が乗ってきたところである風のネクロノームとの戦いを今は諦めねばなるまいが……
「――――ふ」
「……なんだ?」
 突然笑い出したティトゥスに、光頼は怪訝そうに片方の眉を動かす。
「いや。真逆、こんなことで迷う日が来るとはな」
 退屈だ、とは何処の阿呆が言ったものか。危うく怠惰に任せ、勝手に敵をいないものと決めつけるところだった。《門》が異世界から己の為に幸運でも運んできたかとさえ思うほど、己の渇望を満たす好機であるのに。
 そこまで考えたところで、ようやくティトゥスは鞘から手を離す。
 結局のところ、現状では結論を出すことなどできない。全てはセイバー次第、ということだ。
 見事ティベリウスを撃退してやって来るなら魔術機はティベリウスに譲り、当初の予定通り己が相手をする。セイバーがティベリウスに敗れるなら、英雄といえどそれまでのことと諦め、魔術機で渇きを癒す。
(さて、どうなるかな?)
 どちらにせよ損には働かない事態だという事実に、ティトゥスはほくそ笑む。
 そうしてティトゥスと光頼の間に走る奇妙な緊張を打破する鍵は、互いに見も知らぬ剣士に委ねられた。


   4


 魔術妖術の類を用いる者より物品を贈らるること勿れ。盗めるものなれば盗むもよし。購えるものなれば購うもよし。手に入れらるるものなれば手に入れるは可――ただし贈り物として受け取ること勿れ。供与と雖も遺譲と雖も。

 《妖蛆の秘密》は「サラセン人の宗教儀式」の章の一節である。
 魔術師は贈り物をしない。無償の奉仕をしない。そして絶対に己の秘術を公開しない。妖術師などと揶揄される者達ならば、なおのことだ。
 それを行うように見えるのは、つまり以上のものを受け取るつもりであるということなのだ。
「はぁ……ふぅ……ちょおっと常識知らずだったみたいねん、お嬢サマ?」
「ぐ……ぅ……っ!」
 床に伏したセイバーは苦しげに頬を歪め、息の荒いティベリウスを睨み付けている。
 全身にたかる蛆はティベリウスの魔術によって発した瘴気に覆われ半ば生き、半ば溶けて泥のような状態になり、首から下を拘束している。
 カリグラの言葉によれば、強力な対魔力を誇るセイバーに魔術は通用しない。如何なる攻撃も、操作も、おそらくは再生、強化のような利益を与えるものすら。
 ゆえにティベリウスはセイバーへの直接干渉は避け、あくまでセイバーを縛る物を用意することに全神経を費やした。
 優秀な剣士であるセイバーに「網」を被せるのは実際、なまなかなことではない。そのためには可能な限り注意を引く話題が必要だったのだが、向こうから食い付いてきたのはある意味で意外ではあった。
 異界より渡ってきた精霊を確保する際にカリグラが口走ったという「魔導書」というキーワードだけでこの古墳館へと辿り着いたのだとしたら、剣士などやめて探偵か、或いは秘境の冒険家にでもなった方が良いかもしれないとすら思う。何者かの誘導があったというのならまだしも、だ。
 なんにせよ意味のない自慢話は功を奏し、先ほどティベリウスが犯し殺したコスモ・マトリックスの女を使い、牢を形成する為の蛆という材料をぶちまける隙を作ることに成功した。
 が、それも言ってしまえばおまけのようなものではあった。
 本命はセイバーが最初に飲んだワイン。
 それ自体は強力な依存性を持ち、催眠術にかかりやすくする程度のただの毒ワインだ。それが効くようなら問題はなかったが、肉体を魔術情報体で構成する英霊セイバーにはやはり意味がない。かといって、最初から彼女を傷つけ得るほどに強力な呪いのかかった物を出せば、それと気付かぬほど間抜けでもあるまい。ゆえに、ワインはあくまでちょっとしたを施しただけのワインである。
 その然るべき手続き済みのワインを超々高濃度の瘴気、即ち鬼械神の魔術回路すら一撃でショートさせる霊子攻性体へと変換する大魔術こそ「バッド・トリップ・ワイン」。《妖蛆の秘密》を長年に渡り解読し、蛆の大群を蠅の王へと昇華してみせた小達人アデプタス・マイナー、ティベリウスの最秘奥の1つである。
 本来はこのように短時間かつ独力で行使できるような代物ではなく、《妖蛆の秘密》が持つ究極の魔術との併用を以て実現する業だが、この古墳館こそはティベリウスの工房にして陣地。先代の《妖蛆の王》ジュリアン・カーステアズの代から数々の生贄と信徒、そして主と屋敷自身の怨念を100年以上に渡って吸い続けた、ティベリウスが現在用意しうる最強の魔法陣なのだ。その内にある限り、ティベリウスが確立した魔術で実現し得ないものはないと言って良い。
 そして、全てはカリグラの報告があってこその勝利とも言える。
 魔術師は能力の優劣が勝敗に直接反映されるような戦いをしない。これは戦闘狂バトルフリークのカリグラやティトゥスですら例外ではない。相手が自分に勝るならば、自分が相手に勝る瞬間か、相手が自分に劣る瞬間を用意するのだ。ただ、今回のティベリウスのようにあらかじめ勝ち手段を用意しておく戦略家と、ティトゥスのように心理と技術で実力差を覆すことを好む戦術家がいるに過ぎない。
 いずれにせよそのために必要なのは正確かつ詳細な情報であり、セイバーは前回のカリグラとの戦闘で手の内を晒してしまった。突入してくるタイミングこそ完成ぎりぎりだったが、罠にかかるのは必然だったのだ。

 ティベリウスの下半身から肉の触手が伸びる。異形の贓物はセイバーの白い泥に包まれた身体へと到達し、主の欲望に形を与えるべく腕を掴み、舐めるように全身を這い回る。
「アナタはアタシ達に負けたのよ。セイバーちゅわん?」
 苦痛と嫌悪に苦しげな息を吐きながら、セイバーは目を見開く。
「また……だと……!?」
「うふふ。冥土の土産の出血大サービス! アタシが誰だか教えてア・ゲ・ル。だからアナタの名前もせーてねん?」
 美しい顔が苦渋にまみれるのが楽しくて堪らない。この快楽、何度味わっても飽きることなどないだろう。
 そんな思いに満足しながら、触手でセイバーの服をゆっくりと剥がしにかかる。そして――
「く、ぷぷ、アタシこそはアナタの捜してる愛しい愛しいアンチクロスが一、ティベリウスちゃんよん! ぎゃは、逢えて嬉しい? ねえ嬉しい? アタシもすっっっごく嬉しいわあ。ぎゃーはははははは!」
 思わず漏れる哄笑を抑えることもせず、ティベリウスはその屈辱に添える最後の華とばかりに名乗りを上げた。

「な――――」
 その時のセイバーの顔を、どう表現すべきだろう。
 驚愕。間違いなく、それこそが最も大きな感情であろう。先にも増して大きく見開かれた瞳が何より雄弁に物語っている。
 それでいて同時に納得の色があるのも確かだ。そうだろう。これほどの外道、これほどの鬼才がそうそうたくさんいては堪らない。この道化をアンチクロスと予感した、或いは同じものを感じた直感は賞賛に値する。
 さらには髪が逆立つほどの憤怒。全身の鳥肌が立つほどの嫌悪。歯を折らんばかりの屈辱。守るべきマスターを奪い、そして今、己を穢そうとする汚物。まんまと罠にかかった己自身へと激しすぎる感情がその身を灼いている。
 そしてそれらが絡み合い、混ざり合い、反発し合って向かう先。人の精神を冒し全身を侵す最も重い病。即ち絶望。
 全て。その全てがティベリウスのこの上ない快楽である。誇り高き勇士のこの姿を見るだけで、ティベリウスは全身が絶頂を迎えているかのような錯覚に陥る。そう、過去の英雄、如何なる偉業を成し遂げたものか、現代に至る歴史を支えた存在が絶望する姿をこそ、彼は見たかったのだ。
(――あら?)
 だがセイバーの表情は気のせいかと思えるほど微かに、ほんの僅かだけ、違う感情も覗かせていた。それは意外で、短い時間とはいえ観察していたティベリウスをしても彼女には似つかわしくないと思えるもので、とりあえず無視することにした。
「そうそう。こぉんなに熱烈ラブコール受けちゃァ、教えてあげなくっちゃ悪いわねん? 折角だから、犯しながらアナタは知りたいコト、教えてあげるわよん」
 触手でセイバーの身体を少しずつ吊り上げながら、ティベリウスはゆっくりと歩み寄る。そしてテーブルの上に開かれたままの《》を拾い上げ、仮面を外す。
 そこにあるのは、紛れもない死者の顔だった。腐敗に蝕まれて肉はなく、眼球が腐り落ちた眼窩にはただの空洞。骨にもフードのような頭巾の内側にも、びっしりと蛆が這っている。
 ティベリウスはそのどう考えても合うはずのないサイズ、本来眼球しか入りようのない穴に己の魔書を押し込んだ。が、書もまたそんな物理法則には興味がないとばかりに、粒子となってティベリウスの中の虚空へと姿を消した。
 さらに数歩進むと、長い爪でセイバーの顎を掴み、まさしく亀裂の笑みを仮面に浮かべて自慢話の続きに興ずる。
「そ。アナタもきっと思ってる通り、この《妖蛆の秘密》も《水神クタアト》も最高位の魔導書よん。そのアタシ達が協会との衝突も辞さない覚悟で取りに来た魔導書ったら、一冊だけ」
 そう、多少なりと魔導書に関する知識があれば、精霊を宿すほどの書、彼らが異界よりの出現に歓喜するなど、一冊しか思いつかないだろう。
 それはかの神話を語るに欠かせない最大のピース。
 詩人が狂気と死を引き替えにして書き残し、しかし哀れ、数々の写本を残しながらも原書はいつしか消え去ってしまったという魔法の本。
「《アル・アジフ》っていうのよん。……うふふ、おほほほ! 分っかるかなあ。分っかんないわよねセイバーちゃんには。さ、安心してアタシに犯し尽くされて終わっちゃいなさいセイバーちゃん。凛ちゃんはこれからアタシ達が色々楽しんだげるから!」
 もはや馬鹿笑いとしか言いようのない哄笑を最後に、その臓腑を引き摺り出さんと爪を大きく振り上げた。



 だがティベリウスが魔術師であるなら、曲がりなりにも情報を武器に戦う者であるなら、快楽に包まれようとも、その芯だけは一方退いて、冷静に冷徹に対象を観察すべきだった。ましてや、似つかわしくないという理由で目にした事実を無視する愚行、無視して問題がないと考える思考のエラーなど、あってはならないことだったのだ。
 セイバーの表す感情はティベリウスの最後の言葉でより顕著になり、欲望と快楽に他の思考が入り込む余地をなくした道化に突き刺さる。
 微かだったそれは今やはっきりとした形を作り、その他の感情を浸食すらしつつある。確かにそれは意外で、セイバーには似つかわしくないものだと彼女を知る皆が思うに違いない。
 しかし、事実としてそれはセイバーの顔にある。そういう意味で、彼女にそんなものを抱かせたティベリウスは、まさしく超一流の妖術師どうけと言えたろう。
「そう、か……」
 それは瞳に浮かぶ驚愕でなく、
 髪が燃えんばかりの憤怒でなく、
 肌が総毛立つ嫌悪でなく、
 歯が軋る屈辱でなく――
「私は、のだな」
 ――己が魂魄をも吐き出さんが如き声とともに唇の端を歪に吊り上げる、凄惨な歓喜だった。
 そしてセイバーの全身で魔力が青白い火花を放ちながら文字通りに爆発し、拘束する蛆の群れと触手を粉微塵に吹き飛ばした。

「――?」
 呆気にとられたティベリウスの声は、予想はおろか夢想だにしなかった光景に裏返っていた。そしてセイバーもまた、そんな隙を許すほど甘い剣士ではない。
 数年来の激しさで放出された魔力を白銀の鎧に変え、不自然な態勢からも当然の如く床に降り立ったセイバーは、蛆や触手とともに飛び散った自身の服の切れ端をも一顧だにせず不可視の剣を一閃。反応すらできずにいた道化師の首を刹那の時間もかけずに刎ね飛ばした。


   5


「な、な、な、な、な――」
 刎ねられた道化の首、呼吸も血液の循環も司る機能と切り離されたはずのそれは、部屋の端へと飛ばされ転がりながら、奇怪なことに恐怖と驚愕に震えた声を発していた。
 緑の仮面はいつの間にか深紅に変わり、嘲笑を表すが如く垂れ下がっていた目はつり上がって激怒している。
何故なじぇ!? なんでよ、なんでなのよ!? アンタの腹ん中には――」
 そう、あのワインが。ワインが変じたバッド・トリップ・ワインが、鬼械神すら侵す霊体の天敵が渦巻いて英霊を蝕んでいるはず。
 セイバー自身には如何なる魔術もぶつけていない。ただ、触れた魔術情報体を破壊し麻痺させる毒を作成し、たまたまそれとセイバーが接触していただけだ。これが効かないというのなら、魔法生物の爪すら彼女には傷を付け得ないということになる。そんなことはあり得ない。
 ティベリウスとてアデプト。同程度の霊格を備えた存在の作用ならば、いかな霊体といえど傷を負い血を吐かずにおれないことは看破している。
 事実、浴びせかけられたワインが変質した瘴気はセイバーを外側からは蝕むことに成功し、皮膚が爛れているではないか。なのに、何故そんな魔力を発する活力がある?
「――――らだ」
「……あんですって?」
 首に注意を向けた隙を突かんと立ち上がった胴体に、セイバーは振り向きもせず無造作に片脚を引っ掛け、独楽のようにくるん、と回って力任せに正面へと引き摺り倒し、不可視の剣で十字に刻む。
 呟きは蹴倒される身体と、宿主を斬られて飛び散る蛆の音に掻き消された。だが、まさか、という思いが、そんなことはあって欲しくないという危機意識がティベリウスの脳でその最悪の言葉を補完する。

 彼女は今、、と言わなかったか?

「なぁんで!?」
 それこそまさか。
 勧められたワインを飲んだふりでやり過ごすことが可能か、という宴会芸にもならない難度の問題ではない。飲んでいないというなら、その辺の床にでも吐き出したか袖でも伝って出来た染みがあるのだろう。近寄って嗅げば、部屋に充満する強烈な腐臭に混じってその芳しい芳香が漂ってくるに違いない。
 問題はそこではない。何故、そうしたのか、という動機にこそ、その不可解さがある。
 彼女はこの屋敷が既に死去したジュリアン・カーステアズのものだと思っていた。アンチクロスについても、名乗った瞬間に驚きの声を上げたではないか!
 屋敷に踏み込んできた時の追いつめられた小動物そのままに憔悴すら伺わせた彼女の姿は、間違いなく演技ではなかった。目の前の男が妖術師と知っても、機嫌を損ねるリスクなどそうそう冒せるはずもない。己が体質と神域の対魔力に自信があればなおのこと、魔力も発していないワインを飲まないはずがなかったのに。なのに、何故。
 そんな疑問にセイバーはやはり小さな、己の感情に振り回されるのを厭うかのように抑えた声で、しかし簡単な言葉を返した。
「初対面で、貴様は私を剣士と呼んだ」
「へ……?」
 呼んだ、だろうか。
 呼んだ気もする。捕縛する罠が完成した矢先にやって来た獲物の姿に浮かれて、からかうようにそんな呼び方をしてしまったような気がする。彼女はのに。気にした風もなく喉を鳴らす彼女の姿に、そんなミスなど頭の端にも残っていなかった。
 しかし、偶然彼女を知っていた、或いはこの妖館へと踏み入ってきた勇者への揶揄だとは思わなかったのだろうか。警戒はしても、敵と確信するほどの致命的なミスでもなかったはずだ。
 そう訴えかけようと、ゆっくりと歩み寄るセイバーを見上げる。
「あ――」
 そして、何も言えなくなった。
 その未来すら見据えているかのような緑の双眸を染める静かな烈火が、それで十分なのだと語っていた。
「ぐ――《妖蛆の秘密》!」
 慌てて魔導書に接続し、ティベリウスは肉体の生成を開始する。セイバーの背後で4つに刻まれたものではなく、自身の首から無数の蛆が湧き、それらが寄り集まり、数本の肉の触手と化し、さらにそれらが絡み合って新たな肉体へと変わってゆく。
 如何なる剣士とて、その無限の再生を止める手段はない。どれほどのパーツに分かたれたところで、そのどれをも本体にできるのだから。
 そう、何を怖れることがある? 自分は不死の妖術師、世界最高峰の魔術師アンチクロスの第2位だ。英雄といえどこんな小娘に負ける道理など……!
 そこまで考えたところで、はて、と前にも考えた疑問がよぎる。それはただの興味だったが、今ではとても重要なことに思えるから不思議だ。

 ――彼女は、本当は一体何が出来る、いつどこのどちらさんなのでしょう?

「成程。不死者か」
 英霊は、事も無げにその事実を受け止め、受け入れ、租借し、思考し、そして解答を返す。
「――つまり、塵1つ残さずに灼き尽くせば良いのだな」
 呟いた言葉と同時にその広いとも言えない応接間を、土台から揺るがしかねないほどの魔風が支配した。

「ひっ……!」
 その暴風に未完成の身体から切り離されて壁へと飛ばされ、べちゃりと音を立てて押し潰されたティベリウスの首は、今度こそ心底、セイバーを恐怖していた。
 吐き出すはずの悲鳴は活力を求めて吸い込もうとする肺と反発し、甲高く短い声だけが残った。
 マズい。拙い不味いまずいマずいマズいマズイまズいまズイまずイ。
 第六感とか直感とか、危険信号とかいう次元の話ではない。セイバーの手元から迸った風は、応接間をそれまで支配していた瘴気と腐臭を当然のように吹き飛ばし、引き裂き、今また家具や調度を破壊しつつある。それまでとは別の意味で、この空間はまともな人間なら呼吸すら危うい。
 だが、それは本命ではないのだ。
 彼女はティベリウスを塵1つ残さず灼き尽くすと宣言したのだ。どれほどに強烈な神風を吹かせようと、ティベリウスは完全に分解されることはなく、またそもそも灼かれはすまい。
 つまり、言ってしまえばこの風は前座ということ。
 もし仮に、このティベリウスの魔書が放つ波動にも匹敵する魔力で吹き荒れる風が、その実、彼女の真の狙い、不死者を一切合切灼き尽くすと言わしめた何かを外に漏らさぬよう、ただそれだけの為に存在していた封印なのだとしたら?
 あれは、あれではまるで――
「ヒ、ひゃひゃ、ぎゃひゃひひぇヒャへは!」
 歯の根が合わぬのも構わず、精一杯の虚勢の哄笑でその妄想を打ち消す。
 再度、虚空より招喚した魔書に噛み付くようにして接続し、最秘奥の魔術の1つを発動させる。
「あ、あああアタシ急用思い出しちゃった! ま、まままままた逢いましょう!」
 気の利いた捨て台詞の1つも言えず、恐怖に混乱したまま、ティベリウスの首は床にずぶずふと溶けるように沈み込み、姿を消した。



「逃がす――ものか……!」
 無人となった応接間で舌打ちしながらセイバーは《風王結界》を折り畳み《剣》を封印し直したのち、何故か悉く反対側から鍵がかけられた途中の扉を全て蹴り、体で当たり、不可視の剣で破壊して外へと飛び出す。
 そしてその鋭敏な感覚でほんの微かに残る魔力の残滓、糸のように細く続くティベリウスの疑似転移魔術の痕跡を全速力で追いかけ始めた。
 常人の目に映るかどうかすら怪しい一陣の銀風が、足音1つ響かせることなくロンドンを駆ける。
 雨はもう、降っていなかった。


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