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1
人が汗を流し、涙を流し、血を流したところで、それが大した量でなければ気にも留められない。
しかし、それを冷酷と呼ぶのは語弊があろう。茶飯事と受け入れるまでもなく、要するに人は識っているのだ。それが大事ではないと。
疲れ果てた働き手には微睡めるベッドが、声を上げて泣く子供には母の暖かき愛が、苦痛に呻く怪我人には仁術たる医学が手を差し伸べる。それらが全て、日常を脅かす非日常ではないと、人々は一目で理解する。
天候、気象についてもそう。
それが木々を薙ぎ倒す竜巻となる風でなく、家々を押し流す洪水を起こす雨でなく、山々を嘗め尽くす業火を呼ぶ稲妻でないなら、やはり人々にとってはただ「良くない天気」でしかない。
そうしてロンドンのみならず、まるで人の流れに待ったをかけんが如く世界の主要都市を中心に丸一日に渡って降り続いた雨も、結局のところそれだけでは異常気象とすら呼ばれることなく、少しずつ弱まりつつある。
そんなものでは、人の歩みは止められない。人間は世界の都合など考えることもしない。
しかし、そのおかげで多少、人通りを少なくする程度の効果はあったといえるかもしれない。そう例えば、闘争に飢えた戦士を動きやすくする程度、或いは、激突する者達が周囲を気にする必要がない程度には。
その瞬間は、近い。
脇屋光頼は、地面に寝かされた女を庇う位置を取りながら――さほど意味のある行動とも思えなかったが――ティトゥスを睨み続ける。
雨が収まり、その名残のように緩やかに流れる風の中、1人泰然自若としながらも陰鬱な空気を漂わせる侍は、そんな光頼の眼光にも当然というべきか、なんら動じた様子もなく切れ目の見え始めた雲を見上げ、目を細めている。
その姿は、風の音を聴いているようでもある。或いは、どこかから駆けてくる誰かの足音でも聞き分けようというのか。
だがそうした他者の存在から一切の関心をなくしたかの如き体を晒そうとも、この男が油断をしている、などと考える者、そしてその判断を迂闊な行動へと繋げてしまう者は己が大きな過ちを犯していることに気付くことになるだろう。
その過ちは敵が油断をしている、という判断のことではない。何故なら事実、この侍は周囲の人間になど意識を向けていないからだ。
だが現実として、光頼が動けば――そう、例えば得意の空手で対抗しようなどとすれば――即座に首が飛ぶだろう。
アンチクロスといえば鬼械神。普段ネクロノームの乗り手として活動している光頼にはそんなイメージが強かったが、実際には鬼械神を喚べるほどの魔術師であるがゆえのアンチクロスだ。生身ならどうにか出来ると考えるのは間違いである。
或いはそういう考えが過剰に光頼の動きを縛っているのかもしれなかったが、女との会話中に割り込んだとはいえ2人を容易く気絶させた手際、否、純然たる速度はとても常人の動体視力が追えるものではなかった。7人の猛者の中でも、生身での接近戦においてティトゥスはさらに別格と考えるべきだ。
そう、ティトゥスが油断をしているのは事実。だが、その油断を突ける者を相手にこのような姿を見せる男ではないのだ。今、その頭を占めているのは姿を消して空間に待機しているネクロノームと、いずれやって来るという剣士のことだけだろう。
ゆえに、光頼はただ待つしかない。
敵が関わった土地に1人降り立ち、一瞬で捕らえられたのは己のミスであるから、そのミスもまた己で挽回せねばなるまい。さらに危機に陥った女性をも救ってみせれば、挽回できる程度の失敗ではある。
問題は、セイバー。
女魔術師が頼りになる剣士と呼び、目の前の戦闘狂がネクロノームとの対決を渋るほどの相手だ。実のところ、本当に来るのか、という疑問は光頼の頭にはない。
ただ、ティトゥスは己に先んじてティベリウスがセイバーと戦っていると言った。そしてかの妖術師はセイバーに敗れ、ここへ追いやられてくるだろう、とも。
(それは……マズいんだよなあ)
流石にアンチクロス2人を相手にその場を離脱する隙を見出すのは難しい。余程の幸運か、呼吸のあった連携を以て臨まなければ、かなりの高確率で為す術もなく死ぬことになる。
「あんたらは――」
そんな内心の焦りに押されたか、或いはそれを押し込める為にか。光頼は知らず口を開いていた。
自覚はなかったが、やはり酷く緊張していたらしい。渇いた口腔に気付いたのは声を発した後だった。光頼は咳払いをするようにして唾液で舌を濡らし、精一杯の虚勢で敵を問いつめる。
「ここで何をしてやがったんだ? 《門》が開いたってのもあんたらの仕業か? 何が出てきたってんだ? 目的を果たしたってのに戻ってきた理由は何だ?」
意味があるか、といえば、どれも意味のない問いかけだったろう。
全て、光頼がここへ来た理由。敵と戦う為に必要な情報を求める言葉ではあるが、その敵自身に詰問したところで満足な答えが返ってくるはずもなく。返ってきたところで、それが信じるに値するものかどうか。
「さて、な」
呟きを返したティトゥスの声には、やはり怠惰があった。
答えるのが面倒で、しかし隠し通すほど情報に価値を感じてもいない。どうでもいい、という言葉がしっくり来るような、そんな静かな声だった。
「拙者にもアレがどんな意味を持つのか、正しく理解できている訳でもないのでな。謀の類はアウグストゥスらに任せている」
完全な嘘ではないが、やはり全てを語ってもいない。光頼の得た感触はそんなものだった。真相をぺらぺらと喋る侍の姿を期待していたわけではなかったが、その思わせぶりな物言いは気になるところではある。
続いて言葉を重ねようとした光頼はしかし、濡れた土を掘り返すような音に気付いて口を噤んだ。
ベントゥスの攻撃によって無数の穴を穿たれた大地、その中心が盛り上がっている。カボチャほどの大きさだったその隆起は、ずるずると明らかに土ならぬモノを引き摺る不快な音を立てながらあっという間に人間大の大きさへと膨れ上がり、さらに細かく変形し色を付け、腐臭を撒き散らす道化へと変わった。
「ふん。手酷くやられたようだな? ティベリウスよ」
振り向くティトゥスの声に、初めて嘲りが混じった。
対する道化、2人目のアンチクロスであるティベリウスはティトゥスの嫌味に応える余裕もないのか、仮面を赤く染め、震える声で恨み言を吐いている。
「何よアレ……何なのよアレは……聞いてないわよ
意味不明の呟き――或いは叫び――は、心情の正直な吐露というよりも、裡なる怒りを意識的に呼び起こすことでテンションを保とうとしているようにも見えた。
押し寄せる何かに対し手当たり次第に視界内の物体を積み上げてバリケードを築き上げるような、放っておけば表層まで這い上がってくるある感情を別のもので埋め尽くそうとしているかのような。烈火の如く憤るティベリウスには、そんな必死さが伺える。
尤も、光頼にしてみればそれどころではない。
何を思ってそんなに泡を食っているのかはともかく、状況は動いたのだ。迅速にその場を離脱しなければならないのだが、流れは最悪の形になりつつある。
(セイバーが一緒にくるんじゃなかったのかよ!)
心中で毒ついてもみるが、それで好転するわけもない。光頼は素早く倒れた女を抱きかかえ、すぐにでも動ける態勢を作りながら隙を窺う。
「ん……」
抱えた女が、身じろぎとともに呻き声を漏らす。数十分か、数時間か。光頼には既に時間の感覚も怪しいが、共に気絶させられた即席の仲間は、どうやらようやく目覚めつつあるようだった。
湿った服か、それとも光頼の腕が気になるのか。不快そうに顔をしかめながら、女はゆっくりと瞼を開ける。
「目、覚めたかい?」
「う……く。ええ。御免なさいね、御寝坊さんで」
薄く微笑みながら発した軽口は不覚というよりも、むしろ状況の正しい認識から来るものであったろう。先に来るべき己の身体を抱きかかえた光頼への文句を省略したことが何よりそれを物語っており、また、場に充満する強烈な悪臭と殺気と魔力は、余程鈍感な者でない限り笑っていられるものではない。
「で、俺たちはここからちょっと逃げ出さなきゃならないんだが、ええと……」
「ルヴィアゼリッタ。ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトですわ」
「わりぃ、そういや聞いてなかったんだっけ。俺は脇屋光頼だ。……で、ルヴィアゼリッタは体力には自信ある方かな」
魔力は、とは訊かない。
例の大学の関係者と名乗った以上、彼女も魔術師ではあるのだろうが、まさか自分の逃亡の為にアンチクロス2人を相手の魔術合戦をけしかけるほど、光頼は鬼畜でも馬鹿でもない。
ルヴィアゼリッタは光頼の手を借りながら地面に足をつけ、道化と侍へと油断なく視線を走らせながら答える。
「そう……ですわね。多少なら」
その多少という言葉がどの程度を指すものなのか吟味しながら、光頼は立ち上がり、どうしたものかと思案する。
2人の視線の先では、ティベリウスが我を取り戻したのか、緑の仮面に卑下た笑みを貼り付けて光頼らを新たな標的と認識したようだった。
「あら、あらあらあらあらあらあら。こぉんなところにも美味しそうなコがいるじゃなあい? アタシ、さっきセイバーちゃんのせいで中身を全ぇん部置いて来ちゃったのよねん。そしてらもう疼いて疼いて。折角だからお相手して下さるぅ?」
最悪だ。
光頼は声に出さず吐き捨てる。ティトゥスの注意さえ逸らせればなんとかなるかと思ったのが、こうなっては脱出は至難を極める。ある程度のリスクを覚悟すれば、どうにもならないというわけでもないが……
「ふ。幸運であったな、脇屋よ」
と、そこでティトゥスが微かに笑う。
そこにあるのは嘲りや苦笑ではなく、紛れもない歓喜だ。常人並みの五感しか持たない光頼には分からないようなことも、ティトゥスは既に察知しているらしい。
「ひ――!」
「あ――」
遅れたティベリウスの悲鳴に続き、光頼もその正体にはすぐに気付くことになる。
足音もなく、風切り音さえ追い抜いて、ティベリウスの疑似空間転移に遅れること僅か数分。白銀の弾丸が一切の減速なく広場へと突っ込んできた。
2
「ひ――!」
執念が見せた如何なる奇跡か、それとも奇跡の星の許に生まれし英雄ゆえの鋭敏さか。
何キロを何分で走ったのかも分からぬまま、魔力が逃げ込んだ先へと辿り着いたセイバーを迎えたのは、やはり息を呑むような悲鳴だった。
見れば、再生を終えたらしいティベリウスと見覚えのある侍、そして悪意と殺気を振りまく2人と対峙する少年にルヴィアゼリッタ。
状況を瞬時に把握し、セイバーは舌を打つ。
この状況も察して然るべきだったはずのことだ。自分はどこまでミスを重ねれば気が済むというのか。
ともかく、人質を取られる、という最悪の事態は避けなければならない。セイバーは彼らの盾になるべくさらに加速する。
しかし、常人の目には高速で移動する一塊の物体としか認識し得ないはずの彼女に、ただ1人反応してみせた者がいた。
古墳館の門前ですれ違った侍風の男は、その口元に禍々しさすら漂わせる歓喜の笑みを貼り付け、左手を腰の鞘に添えながら正面に躍り出る。
「――拙者はティトゥス。逆十字の一なり」
予感した名。セイバーの前に姿を現した新たな皇帝が名乗りを上げる。
「尋常な決闘が望みだ。我が渇きに応えよ、剣士――!」
両者の距離、およそ30メートル。
セイバーの視線はルヴィアゼリッタ達とティトゥス、そしてティベリウスに注がれ、それぞれの距離を正確に計る。
目の前の敵に時間を食うことこそ愚の骨頂。敵の危険性はどうあれ、まずは前衛をやり過ごして味方を救出しなければそれ以降は戦闘にすらならないのだ。
正面からの打ち合いを確信した侍の隙を探しながら、セイバーは己が不可視の剣《風王結界》を出現させる。ずしりとかかるその重量はしかし、自ら主を選ぶかのように手にぴたりと貼り付き、主たるセイバーもまた、共に難敵を打ち破ってきたその剣に応え、脚にさらなる力を篭めて加速を続ける。
20メートル。
黒き侍は未だ得物を抜く様子を見せない。
だが、僅かに身を沈め、柄へと添えられたその右手からは確かな剣気が線となって幾重もの楕円を描き、侍の周囲を球のように囲んでいるのがセイバーには視えた。
一虫たりとも逃すことなく、万敵全て寄らば斬る。
そんな宣言をしているかのような気迫は、まさしく結界。いわゆる居合いとは別の構えであるが、その抜刀の瞬間を見誤れば、その境界線に踏み込んだ如何なる戦士も直後には首が飛んでいるに違いない。
抜きつけは通常の打ち込みに比較してやや遅れるとされるが、目の前の男を見ると、己が剣が抜き身である事実が不利なことであるかのようにすら思えてくる。
10メートル。
そして、立ち居を以て実力を悟らせるほどの闘気もさながら、その双眸に宿る喜色はどうか。奔る弾丸と化して前進するセイバーを凶器と認識していないはずもあるまいに、そのさまはまるで待ち焦がれた想い人を迎えるかのようにただ純粋。
(だが――)
そう、だが。それに気圧されるセイバーでもない。
胸には誓い。手には剣。
その2つがある限り、騎士は竜種にすら恐れをなさぬ――!
衝突。
烈風の如くして踏み込んだセイバーは、全力を篭めたその両手に握る不可視の斬撃を右袈裟に一閃。対するティトゥスもまた、反応して身を捻りながら抜刀にかかる。
ティトゥスは至近に接近した
風よりもなお迅く鞘走る刃。だが、そんな紫電の抜き打ちを以てしてなお、セイバーの剣はさらに速かった。振り下ろされるその途中でありながら散り輝く青白い魔力の火花。その光にも照らされることのない刀身は、爆発と衝撃に押されるようにして速度を増す。そのさまはまさしく大地へと突き立つ雷光の如く。
舌打ちなどする暇もなく、ティトゥスは刀の軌道を変えて剣を受け止める。が、そんな半端な防御が通用する剣ではない。古来より折れず曲がらずを謳い文句としてきた世界最強の白兵戦武器は、セイバーの読み違えた威力を殺しきれず、刹那にも満たぬ剣戟ただ一合で砕かれ、真っ二つになった。
「ぐ――」
呻く声もまた、余分。ティトゥスは呼吸さえ殺しながら右半身を捻り、刀を代償として僅かに速度を落としたセイバーの剣をやり過ごすと、その勢いのまま空いた左手を正面に伸ばす。その先には、ちょうど脇を擦り抜けんと走るセイバーの姿。
「――!」
今度は敵を無視して通り過ぎようとした愚者が背筋を凍らせる番である。苦し紛れに出された只の掌底のように見えるティトゥスの左掌に、セイバーの未来予知じみた直感が過剰なほどの危険を告げる。
その正体を見極めることもなく、瞬間、セイバーは前進を即座に諦め、斬撃を超える魔力で慣性を相殺し、なりふり構わず全力で後ろ向きに跳んだ。
だがセイバーによる俊足の後退に、あろうことかティトゥスの神速の踏み込みは追いついてきた。セイバーが不可解な危険を予感した左掌には、その中心に輝く金属片が見える――
(――暗器か?)
そう思った一瞬は、しかし裏切られた。掌の中心から
セイバーは首を頭ごと振って躱しながら着地、バランスを崩した姿勢すらそのままに下から上への斬撃で奇怪な左腕を落とさんと再び踏み込む……が、その時にはティトゥスの右手から生えた刀が間に入り、左腕を庇っている。火花を散らして静止する剣と刀。だがそこに重ねられる左刀の第2撃。辛うじて躱すが、体勢を不利なままにはしておけず、セイバーは歯噛みしながらも襲い来る二刀を捌きつつさらに後退せざるを得ない。
今度の跳躍は、ティトゥスも追っては来なかった。が、それもそのはず、風のように広場の中心へ向けて飛び込んだセイバーは、いつの間にかその入り口に押し返されていたのだから。
この一連の攻防、僅か数秒。裂かれる空気も打ち鳴らす刃も遅れて音を伝えてくる世界の出来事である。
そんな光景を、光頼やルヴィアゼリッタはおろか、ティベリウスさえも動きを止めて眺めていた。
仮面で表情は見えない――仮面が無かったところで見えはしないだろうが――が、まっとうな人間の顔で表現するなら、ぽかん、と口をだらしなく開けているような状態だろうか。純然たる戦力ならばともかく、ティトゥスと剣技で互角かそれ以上の存在など存在しないと思っていたのは間違いないだろう。
光頼にしても、ティトゥスが生身で戦うところを見たことがある訳ではない。刀の使い手だということは分かっていたが、仲間の後光院あたりならは良い勝負をするのではないか……そんなことまで考えていたが、流石にそれは無理そうだ。
なにせ、特別光頼の目が良い方ではないにせよ、動作に対し純粋に動体視力が追いつかないのだ。彼らが何合打ち合ったのかすら分からない。分かるのは――
(アンチクロス2人の意識が……逸れた!)
光頼はその隙を見逃すことなく、後ろを向き、ルヴィアゼリッタの手を引いて全力で走り出した。
「行くぞ!」
「え……あ、はい!」
ぬかるんだ大地やそこかしこに残る瓦礫に足を取られないか、などと考える余裕はない。とにかく一秒でも早くその場から逃れ、態勢を整えるのだ。
「く、この、待ち――ぎゃばらッ!?」
気付き、慌てて追いかけようとしたティベリウスが、先にティトゥスを襲った不可視の攻撃を受けて悲鳴をあげながら吹き飛ばれる。
ルヴィアゼリッタは怪訝な顔をしていたが、さりとて手品の種を説明している暇がある訳でもない。飛び込んできた少女もかくやという勢い――と、思いたい――で、とにかく走る。
屋敷跡といった風の広場が放置されていることから考えて、それなりに都市を外れて遠くまで運ばれたのかと思ったが、敷地外に出てみれば夜明けもそう遠くないこの時間にも関わらず遠くにぽつぽつと灯りが見える。いわゆる郊外なのだろうが、中心部から車で何時間もかかるような場所ではないと思えた。
「ちょっ、ちょっと貴方!」
走る光頼の横からルヴィアゼリッタの焦った声がかかる。思い切り掴んだ手を引っ張って疾走する――速度はある程度抑えてはいるが――自分への抗議かと思い、謝罪の言葉を用意しようとした光頼だが、予想外というべきか、お嬢様然とした上品な服に薄汚れた光頼の革のジャンバーという実にミスマッチな格好をした女魔術師は、特に必死な様子もなく光頼の横を併走していた。
眉を寄せて何か文句がありそうな顔ではあるが、走る速度自体へのものではないらしい。むしろそのペースには余裕すら感じさせる。
「なんだよ?」
「なんだよ、じゃありません! 逃げるのなら、もっと速く――」
「ダメだ」
どうやら速さを抑えて走っているのがお気に召さないらしい。言いながら逆に光頼を引っ張って加速しようとしたルヴィアゼリッタを、しかし光頼は一言の日本語で制止する。その言葉に篭められた強い調子か、それとも言葉が分かってもらえているのか。減速して再び並んではくれたが、納得できないのだろう、不満顔である。
光頼は相手が女性だから、気を遣って全力疾走していない訳ではないのだ。
「あいつにアンチクロスを2人も任せる訳にはいかないだろ。追いかけてくるのがティベリウスの野郎なら、相手をするのは俺達が引き受けるべきだ」
「俺達って……」
ますます困った表情を作り、眉間に皺を寄せるルヴィアゼリッタ。
その表情には憤りだけではなく、どこか弱り切ったような不安が覗いていた。落ち着いてみると、光頼が掴んだ――今では、どちらかというと逆に光頼の手を引いて急かしている形だが――手は汗ばみ、小さく震えているようにも思える。
と、そのことについて光頼が問いかけようとした時、突然ルヴィアゼリッタはその手を振り解いた。そのままの勢いで後ろを振り返りながら、残った手で光頼にそのまま走れ、と合図をする。
「おい、なにを――」
するつもりだ、と光頼が抗議の声を上げるよりも早く、ルヴィアゼリッタは懐に差し込んだ拳を引き抜き、なにやら小さく呟きながらその手に掴んだ数個の石をその場に放り投げる。
閃光、そして遠くで響く甲高い呻き声。
後に残ったのは、衝撃で引き千切られたらしき数個の肉片。瞬間的な高熱で灼かれたのか、腐臭ではなく焦げ臭さが漂っている。
「あいつの触手か。……ごめん、手伝わせちまった。協会はあいつらとは関わりたくないんだろ?」
走って追いついてきたルヴィアゼリッタはお気になさらず、と短く答え、しかし先ほどの脅えを含んだ眼で光頼を睨み付けてくる。
「今はなんとかなりましたが、手持ちの石もそうはありませんわ。それにあの信じられないほどの魔力。それでも――」
「いや、良いんだ」
女魔術師の分析が間違っているとは思わないが、しかしどうやら1つまだ知り得ていない情報があるらしいことを悟り、光頼は表情を緩ませる。
先ほどの行動から考えても、どうやら彼女は我が身可愛さよりも光頼を案じてそんなことを言っているのだろう。自分が巻き込んだとでも思っているのだろうが、それは誤解というものだ。
(それに)
脅えか嫌悪か。いずれにしろ女性にそんなものを抱かせたまま戦わせるような真似が光頼にできようはずもない。
「良いんだ。あんたは逃げてくれて良い。あいつの相手は、
のたのたと追いかけてくる不快な気配を感じながら、光頼は決然と言い放った。
3
逃げる2人。
魔術師である女性を一見無力なように見える少年が引っ張って走る姿に憧憬の念を感じながら、セイバーは安堵の溜息を漏らす。
ティトゥスの戦いに加わるか、彼らを追うか。一時そう迷ったらしきティベリウスの胴体は、何者かが空中から放った不可視の攻撃によって上下に分断されて潰された。
先ほど直接相手をしたセイバーをして驚愕するほどの速度で再生し、怒りの声を上げながら追いかけていったが、そうそうのことでは彼らに追いつけまい。
万人並みとは言わないが、あの不快極まりない道化の身体能力自体はさほどでもない。ルヴィアゼリッタとて一級の魔術師には違いないのだ、敵が例の疑似空間転移を使わないなら、逃げおおせるくらいのことは問題ないだろう。
先ほどの不可視の攻撃をしてのけた何者か――敵か味方か不明だが、どうやら敵の敵ではあるらしい――がいるのなら、ティベリウスに関しては当面問題ないと思えた。
ならば、己の役目は――
「――驚いた」
ティトゥスの掌からさらに伸ばした双刀に柄が生まれ、両手に納まるのを見ながら、セイバーもまた油断なく剣を構え、再度の突進に備えて筋肉を引き絞る。
間合いはおよそ五間。両者の力量ならば一息で詰められる距離だ。
「よもや魔術師を相手にこうも打ち合うことになろうとは。サムライとはかくも神秘の業を使う者達なのか」
身体から予備の武器を生やしてくるとは、流石のセイバーも面喰らう。加えてその技量は本当に魔術師かと疑うほど。
その姿から、かつて戦った神域の剣士を想起せずにはいられない……が、当然ながらというべきか、全く違うタイプの技を使う。
2年前の強敵、アサシンはただ剣のみに専心する求道者めいた研鑽の末、魔法の域に辿り着いた紛れもない天才だが、ティトゥスは意識を向ける対象を剣ではなく人に絞った、まさしく修羅の剣と言える。血と脂で斬れなくなってゆく刀、その寸分違わぬ代替を必要な時必要な場に用意する、その為に編み出されたのが己が裡から剣を生成する魔術なのだろう。
「第十の皇帝よ。貴公の魔術、肉体改造の延長線とみたが」
「然り。修羅に人の部分は必要ないのでな、《屍食教典儀》の力は酷く拙者と相性が良い」
興奮を隠しもせず、血走った目でティトゥスは笑う。
太刀二刀を大上段に振り上げ、背後で交差させる独特の構えは、初見にも関わらずセイバーの首筋に不快な静電気を流す。理解しているのだ。余分なことに意識を囚われればそこで胴体とは泣き別れの運命だと。
(それに、この男……剣が視えているな?)
視覚化しているわけではないと思いたい。ただ踏み込みの間合いや腕や手首の角度、そして打ち込みから読むことは出来る。何より、セイバーが初太刀を折った時、ティトゥスはその残った部分を《風王結界》を滑るように奔らせたことを覚えている。転んでもただでは起きないというべきか、その時に長さを測られてしまったのだろう。
2年前のアサシンには、刀の予備がなかった。ゆえにある程度安全な打ち合いを繰り返すことで慎重にセイバーの剣の正体を探っていた。それを可能とした時点で天才と呼んで差し支えない技量ではあったが、いくらでも得物を失えるとなれば、多少実力が落ちる者でもこのような無茶な計測方法が使えるという訳だ。
(……できる、な)
状況を確認し、息を呑む。
その力、確かに人の域を超えている。ティベリウスはおろか、カリグラすらも比較にならない。白兵戦最強のアンチクロスの姿がそこにあった。
「拙者も訊こう。先の一太刀、あれほどの神業を身につけた者がそうそういるとも思えぬ。過去の英雄よ、お主の名を教えてはくれまいか」
(神業……か)
真実の神業の使い手を思い出していた矢先の言葉ゆえに、セイバーは内心で苦笑してしまう。
今ここに至り、再度自覚する。己を最も優れたサーヴァントたらしめていたのは剣技ではなく、その身体能力を維持する潤沢な魔力であると。
今のセイバーは、解けゆく毛糸玉のようなものだ。幾重にも巻かれた糸をいくら解いても玉の形を損なうことはないように、魔力を消費したところで身に付けた技も知識もそのままの形で使用できる。が、形は同じでもやはり大きさは違う。そうして解き続ければ少しずつ小さくなり、いずれはただ長いだけの毛糸となり形を失うことになるだろう。
とはいえ、消滅はまだ早い。2年前に胸に刻んだ、ある少女の剣となる誓い、ある少年の盾となりたいという願いを満足いく形で果たすまで、自分はまだ消えるわけにはいかない。それに――
(――私は、まだ私の
漠然とした答えは既に得たように思う。だが彼、今は青年となったあの少年の口から聞きたい、と思うのは、欲だろうか――?
「私は、セイバー」
2年前から呼ばれ続け、既に本名よりも彼女にとって親しみ深いものになりつつあるその名は、しかしティトゥスには不満なようであった。露骨に片眉を跳ねさせ、不快そうに頬をしかめる。
「名乗る気はない、と?」
ティトゥスが何を望んでいるか、それは理解している。
しかし、否、だからこそセイバーは、落ち着いて首を横に振る。
「貴公が
戦の神などと持て囃されたその偉大なる真名に比べ、ただ剣士という無骨な役職名を表す素っ気ないあだ名の、なんと暖かいことか。
きっとそのぬくもりは、その名を最も頻繁に口にする人々の暖かさで、
「
同時にそう呼ばれることを嬉しいと感じている、己の胸に宿る灯火の熱に違いない。
セイバーとしてはただ心情と誓いを再確認するだけの宣言だったが、しかしその言葉にティトゥスは殊の外驚いたようだった。
一瞬、大きく見開いた目をゆっくりと細め、息を吐く。
そして少しだけ苦々しさの滲む口調で、意外な台詞を吐いた。
「――失礼した。謝罪しようセイバー。お主が強いのは、英雄の偉業ゆえではないのだな」
殺気も闘気も損なうことなく、否、むしろ鋭さを増しながらの、しかし心底の謝罪だった。誤解で戦士の誇りを傷つけるところだったと、彼なりに後悔しているらしい。
全力であたるべき強者はこうでなくてはと、その両刀が語っている。
「拙者の故郷ではその心、忠と呼ぶ。……不可視の剣が輝いて映る筈だ。堕した修羅には決して発し得ぬその白銀、魂魄が放つ信念の色であったか」
もはや問うまいとばかりに、静かな剣気がさらに温度を下げる。セイバーも応え、《風王結界》を正眼に構え直す。
此度の静止は驚愕を呑み込む為ではなく、回る独楽のそれ。ひとたびきっかけが与えられれば、その時点で先ほどのような激しい火花を散らすことになる、見かけ上のみ不動の必殺である。
「拙者が勝てば――」
ややあって、再度ティトゥスが口を開く。自らそのきっかけを作るつもりなのだ。
「その真名、聞かせて貰うぞ」
セイバーも僅かに顎を引くのみの、小さな首肯を返す。
「約束しよう。だが私が勝てば――」
「お主の知りたいことを1つ」
ティトゥスもまた、頷く。今度こそ、互いに必要な言葉はなくなった。ゆえに、その先にあるのは剣戟の火花と、どちらかの血のみ。
その約束が果たされることなど、互いに期待していない。生きて残す手加減など出来る相手ではないことを理解したがゆえに、交わされた言葉である。
「拙者は、強者の
「私は、主の救済を――」
求めるものをその手にする為、全身の筋肉がこれ以上ないほどに収縮し、
『――己が力で!』
互いの雄叫びを合図にして、先に倍する速度で両者の身体は矢となって放たれた。
「俺……たち?」
魔力を通した両脚があげる、運動による負担とは別の悲鳴に顔をしかめながら、ルヴィアゼリッタは先ほども言われた言葉をオウム返しに呟く。
それは言葉を発した少年と、自分のことを指しているのだと思った。が、よくよく考えてみるとその直後の台詞と矛盾する。
(ごめん、手伝わせちまった――)
協力することを前提にしているなら、あそこで謝るのは変だ。背後から迫る触手に気付かなかったミスをフォローさせてしまった――という意味でも通るが、少々据わりが悪いのも事実だ。
やはり、彼には自分以外にもう1人、味方がいるということだ。
「っ、けれど、あれが貴方の言うようにアンチクロスだというなら――」
反論しようとしたルヴィアゼリッタを無視するようにして、光頼は立ち止まる。
「このあたりならまあ、大丈夫かな。日本と違って住宅地っつっても建物が密集してないのは良いことだよな」
「しているところは、していますけど――」
なんとなく返しながらも、言われた通り見回す。気が付けば、屋敷跡――というより煉瓦の破片と腐った木材が転がるただの広場という方が正しいかもしれないが――からは結構な距離を稼いでいた。
しかし、確かにセイバーの邪魔をする危険性は低いかもしれないが、あの強大な魔力を誇る魔術師にどう対処するというのか。
それほど速くはない、だが確実に近付いてくる道化。陰鬱な気配を纏わりつかせ、卑下た笑みの貼り付いた緑の仮面は、その裏にある好色さと残虐性を些かも隠しはしない。
「うふふ〜ん。観念しちゃったのかしらん。ひょっとしてアタシと戦う気だったりして。このお・馬・鹿・さ・ん♪」
嘲りの言葉とともに、その下半身で何かが蠢いたのが見えた。
魔力が凝縮され、細長い物体がこちらへ向けて伸ばされる。刺突というよりも空間の汚染とでも呼んだ方が相応しいそれは、高速で回転しながら不可思議な硬質で以て迫る、何ものかの腐敗した臓腑。
太さは人間の腸程度ながら、ペン先ほどにも先端を尖らせた長大な臓腑ドリルは計2本。それらは矢のような勢いで2人を狙っていた。
「さぁっきはよくもやってくれたわねえ! 犯すトコなくなるまで穴開けてヤってあげるから覚悟なさいッ!」
「く――」
魔術師ならぬただの少年にはその奇怪な触手の発射の瞬間を悟れまい。そう判断して前に出ながら再度宝石を取り出そうとしたルヴィアゼリッタだが、意外にも素早く反応した光頼はさらに前に出て、魔術での防御を手で制す。
「ちょっと貴方、死ぬ気!?」
「死ぬ気はあんただ、下がってろ、巻き込まれるぞ!」
そんな短い口論が決着を見るよりも早く、触手はその眼前まで到達し――そしてルヴィアゼリッタは、すぐそばで巨大な
「……なんですって?」
不相応に緻密。不必要に壮大。不加減に巨大。即ち、大魔術。
確かに触手は人の身である彼女らにとって危険な凶器ではあったが、そこに現れた魔術は、まるでミサイルでも防ぐつもりなのかというほどの膨大な魔力で編まれた、明らかに場違いで非効率的なものだった。
そこには、盾があった。直径は5メートルほどか、人間2人を覆って余りある円形の青色が突如として出現し、それに触れた触手は音もなく千切れ飛び、分解されて塵も残さず消え去った。
「空気……?」
その正体は空気、否、異妖なる不動の暴風というべきか。5メートルの薄い円形に圧縮されてなお荒れ狂う嵐は、その領域内の物質を分子間力すら断絶させんばかりの勢いで吹き荒れ、無遠慮に通過しようとした妖術師の攻撃を細切れにしてのけたのだった。
光頼の顔に驚きはない。だが彼の仕業でないのは確かなのだ。その身体から発せられる生命力は常人と比べれば若干高濃度の魔力といえたが、それだけといえばそれだけのこと。これほどの大魔術を行使する以前に、魔術の才能としてすら数えるべきでないレベルのものである。
「げ――アンタ、ひょっとして……ッ、ティトゥスちゃん聞いてないわよアタシ! パイロット捕まえてたなんて!?」
流石に慌てたのか、ティベリウスの悲鳴混じりの怒声が聞こえる。
しかしルヴィアゼリッタの驚愕に比べれば、動揺とすら言えないものに違いない。
「これが、貴方の――?」
「味方」の力だと。
霧散してゆく青い光への驚愕で後半が掠れた呟きにしかし、少年は力強く頷き、その相棒の名を高らかに呼ぶ。
「ベントゥス、もう出てきて良いぜ!」
かくして、劇的な変化は彼らの背後で起こった。
巻き起こる旋風。だがそれは遅い来る触手を消滅させたような暴虐なものではなく、張りつめた緊張を解く吐息のような柔らかさがあった。舞い上げるような、押し出すような風に巻かれ、ルヴィアゼリッタの長い金髪は揺れ、肩にかけられたジャンバーがはためく。
そうして少しずつ範囲を広げながら風は弱まり――再び凪へと戻ったそこには、信じられないものが存在していた。
「なんて――――出鱈目な」
初めに見えたのは、巨大な掌だった。明らかに金属の光沢を放ちながらどこか液体のような流動性を感じさせるそれは、先ほど妖術師の攻撃を防いだ青い盾が出現した位置にあった。ちようど手の甲か、手首あたりにその盾はあったことになる。
振り向けば、そこにはその腕の持ち主に相応しき偉容がいた。
喩えるなら、その巨人は地球上のどの生物のものにも似付かない巨大生物の骨で作った鎧を纏う、異形の狩人だった。2人の後ろで膝をつき、左腕を差し伸ばしている巨人の正確な全長は分からないが、20メートルをやや下回るくらいだろうか。右手に握られた長大な棒状の金属は、槍か、或いは杖に見える。
この巨人が「ベントゥス」。光頼が頼りにしている相棒の名。活動する魔術回路の本数など、至近で見ているルヴィアゼリッタにも把握しきれない。五百か、それとも千はあるのか。
転移で現れたのかと疑うほどの完璧すぎる迷彩。今まで存在すら感じさせなかった膨大な魔力の塊が今、隠す必要性を失って、或いは顕す必要に迫られてそこに出現していた。
ベントゥスは、低い男の声で小さく呻く。
『光頼、〈乗り手〉抜きでの魔術行使はそろそろ限界だ。早くわたしの中へ』
「おう」
光頼がベントゥスの外骨格のような装甲を駆け上り、胸部に開いた穴へと飛び込んでゆく。と、そこでルヴィアゼリッタは呆然としていた意識を無理矢理現実へと引き戻すことに成功し、情報交換をまだしていないこと、預かったジャンバーを返していないことを思い出した。
「――さっきの寮で!」
後でまた会いましょう――咄嗟のことでそんなメッセージを正確に伝えられた確信はない。だが、拡がった時と同じく液体を思わせる動きで閉じられてゆく胸の穴で、少年が頷いたような気がした。
いよいよ距離を詰めてくるティベリウスが怒りの声をあげる。
「まァた出てきたわねネクロノーム! いっつもいっつもいっつもいっつもアタシ達のお楽しみの邪魔をしてくれちゃって! どうせならアタシがそこの可愛い子ちゃんと5,60発ヤってから出てきなさいっての!」
罵声を受けながら、ベントゥスはゆっくりと立ち上がる。生物的なフォルムを持ちながらやはりどこか機械的な印象だった
ベントゥスは右手の長大な杖を振り、正面の道化に向ける。
「行くぜベントゥス! 今度こそあの腐乱死体を風葬にしてやろうぜ!」
踏み出すベントゥスから響く光頼の声を聞きながら、ルヴィアゼリッタはその場を少しずつ離れながらもそのまま逃げる気にはなれず、ベントゥスと道化の妖術師へ交互に眼を彷徨わせていた。
4
ティトゥスの使う太刀二刀という技を、セイバーはついぞ聞いたことがない。
剣豪宮本武蔵が創始したとされる二天一流を挙げずとも、いわゆる「二刀流」とは太刀と脇差しを使うものであり、その脇差しは攻撃用ではなく、相手の得物を押さえ、或いは払うことで隙を作り、本命たる利き手の太刀で勝負を決める流れを基本戦術とする。
セイバーも二刀流のなんたるかについてそういった基本的な部分はある程度理解しているつもりだが、ティトゥスの戦いは何もかもが常識外れだった。
同じ得物を使うために両方が攻撃用であり同時に防御用でもある、という事実だけではなく、そもそも扱う刀から違う。2年前のアサシンが扱っていた物干しと呼ばれる大業物よりはやや短いにしても、全長およそ四尺、刃渡りだけで三尺というのは日本刀としては破格の長さだ。
剣道に使用される竹刀はその軽さ、そして鞘から抜くという課程が必要ない故に最長114センチメートルという西洋の太剣並みの異常な長さが許容されるのであり、それに迫る長さの鋼を片手で軽々と制御するティトゥスの筋力とは如何ばかりのものか。
(高位の魔導書……か)
舌打ちでもするような思いで、《屍食教典儀》とティトゥスが呼んだ書名を思い出す。
つまるところ、そういうことだ。カリグラのような水妖の制御能力やティベリウスのような不死性を持たないからといって、彼らと同格である筈のアンチクロス、ティトゥスを魔術師として劣ると考えるのは間違いだ。
肉体強化、そして改造と言えば地味に聞こえるが、これは立派な高等魔術である。人間の肉体は魔術的な加工が非常に難しい。単純な効率で言えば、意のままに動く別の肉体を用意した方が早いほどだ。あくまで自分自身であることを通し、かつここまでの効果を得ようと思うならば、確かに最高位の魔導書などという外道の知識も必要になるだろう。
加えて、失った刀を再生成できるという点も戦術の幅を大きく広げている。
セイバーのような特別な剣ならばともかく、武器が破壊される可能性というのは常に存在する。そこに補充が利くだけでも十分な効果があるが、先ほど《風王結界》の刃渡りをその感触で測ったように、失うことを前提とした行動をペナルティなしで行えるということにもなるのだ。
振り下ろされる二条の白刃。
音もなく迫る死を確かに目視して躱しながら、セイバーは水平にした剣を裂帛の気合いとともに突き出す、否、撃ち出す。
比喩抜きで拳銃弾並みの速度を叩きだしたその剣に、ティトゥスはしかし引き戻した二刀をぶつけてみせる。受けですらなく、ただなりふり構わず横から当てて軌道を変えるつもりの行動は功を奏し、胸を穿つ筈だった《風王結界》はティトゥスの右肩口を僅かに裂くに留まった。
どれほど正確に間合いを読んだとて、やはり正確な形状が分からねば音速で迫るその力を誘導しきるような真似は不可能に近い。普通は気付くことさえないか、そこで中途半端な受けを試み、己の得物を破壊されてなお胴を貫かれているところだろうが、ティトゥスの見切りもまた、正確で迅い。
「――――疾ッ!」
セイバーの威力に負けて折れ曲がった刀を棄てたティトゥスは一度後退し、再び踏み込む間にはその両掌から二刀を生やしながら、速度の面でセイバーに僅かに劣りながらも縦横に走る左右の斬撃を巧みに使いこなして胴を、腕を、脚を、そして首を狙う。
「く、この――!」
未だ生成が完成していないことを逆手に取った形の刀はコンマ秒刻みで長さを変え、《風王結界》とは別の意味で間合いを読ませない。対するセイバーが下した判断は、腕ごとその得物を断つというものだった。
セイバーは反射的に受けに回ろうとする剣を敢えて遅らせ、突き出されたティトゥスの左掌、その先にある未だ十分な質量を持ち得ているとは言えぬ二尺弱ほどの刃に白銀の右篭手を接触させ――そこに爆発を起こす!
「なんと!?」
奔る青白い火花。その手に握るのではなく、直接掌から刃を生やしていたティトゥスは、その衝撃に煽られて弾かれる刃を放すこともできず、ぐらりと態勢を傾けてしまう。その鎧の硬度や構造ではなく、内側からの魔力の爆発でダメージを無効化するセイバーの
苦し紛れに首を薙ごうとする右の刀を背を曲げて躱し、下から上、縦一文字に振り上げた剣は無防備なティトゥスの左腕を両断する――
――かに見えたその瞬間、しかし再びセイバーの脳髄を危険信号が灼いた。
左刀は目の前に。右刀はたった今躱した。ティトゥスの懐にある今、セイバーを傷つける要素など何もない。無い筈だ。にも関わらず、その直感は一瞬後に首を落とされる自分の姿を脳裏に映し出している――!
理屈も疑問も棄て、今回もセイバーはその直感に全てを預けた。
足下で起こる魔力爆発。慣性に対し完全に逆行する形で跳躍しようとする筋肉の悲鳴を無視し、何もない空間であるはずの自身の左側に剣を振りながら全力で後退した。
再び開く間合い。刀の完成を急務とみたらしいティトゥスも、その場に留まっている。
(……なんだ? 今のは)
冷や汗を拭う隙を見せる訳にもいかず、セイバーは剣を構え直しながらそのティトゥスを見据えるが、己が感じた死の正体には皆目見当が付かない。あの瞬間は間違いなく確かに、外から内へと真横に薙がれた右の刀は戻っておらず、その上でセイバーは左側、即ちティトゥスの右から来る刃を予感したのだ。
(
あり得ない方角からの斬撃を、一振りで同時に2つ以上の閃きを見せる神域の剣技かとも推測するが、この世にそんな剣士が2人もいては堪らない。何より、そうであるならばセイバーが予感したその瞬間、刃が実際に振るわれていなければおかしい。気付かれたからといって、確実に相手を傷つけ得る攻撃を止める意味がないからだ。
しかし事実としては、やはりただ何の危険もない空間でしかなかった。直接的な刃はおろか、魔術的な罠すら設置されてはいなかったのだ。
不可解な直感の働きに眉を寄せるセイバーに、ティトゥスは唇を吊り上げてにやりと笑う。
「自身では使うつもりは無かったのだが……な。流石は、と言うべきか。技はおろか意よりもなお早く危機を察知する直感とは。お主の世界に奇襲などという言葉は存在しないのだな」
必殺を逃した相手に贈られるそんな賞賛にも、嫌味1つ返せない自分が恨めしい。
感じたのは負傷ではなく一太刀で首を刎ねられる死。今回は躱したが、だがその正体を見極めねば次も上手くいくとは限らない。このまま戦術の幅を狭められ、いずれ致命打を喰らう可能性も否定できない。
(だが、正体が分からぬならば――)
セイバーは軽く跳んで足踏みし、筋肉の不調がないことを確認した上で、再度の突進をすべく全身に魔力を纏う。先ほどからかなりの無茶をしていることは自覚しているが、しかしここで仕留め損なえば後々憂いを残すことになろう。
敵をここで迅速に倒しきるか、それとも逃し、道中半ばで力を使い果たすか、再戦で倒れるか。自身と、そして主の命に
(――確かめるまでのこと!)
三度、セイバーは白銀の弾丸となる。
「アンタらは……目障りなのよォォォッ!」
ティベリウスの下半身から伸びるドリル状の触手はさらに数を増やし、ベントゥスの胸部コクピットめがけて一斉に襲いかかる。
道路に仁王立ちするベントゥスは、あるものは杖で打ち払い、またあるものは青い盾を出現させて防ぎながら、腰から伸びるパーツ、喩えるならパイプオルガンか大型バイクの気筒を思わせる形状の連なった細長い円柱部分を変形させる。
『光頼』
「あん?」
やはり変形は液体的だった。青く輝く眩い光を先端から発しながら、円柱はそれぞれが枝分かれし、鞭のようにしなり、鎌首をもたげる。
そうしたかと思えば、風切り音。何十本あるかも不明な金属製の青い触手は、そこにあったのが嘘であったかのような速度で先端を伸ばし、次の瞬間にはティベリウスを刺し貫き、悲鳴を上げさせる暇もなく衝撃で爆砕させていた。
『風葬とは、野晒しにして自然の風化を待つものだ。風を操って死体を処理することではない』
「細けぇよ! 良いだろそんなこと!」
「……何をしてらっしゃるのかしら、あの方達は」
その暴虐な光景に比してどこか緊張感に欠けるベントゥスと光頼の会話に頭痛を覚えながらも、ルヴィアゼリッタは魅入られたようにその巨大な異形を見つめていた。
何が気になる、という訳ではない。
その巨大さも、形を変える不思議な材質も、頭頂部の五角形も、それ自体がルヴィアゼリッタの知識や感性になにがしかの影響を与えるものではなく、また記憶の端に引っかかる、ということもない。事実、見覚えなど無いのだから当然のことである。
だが、特定の何かではない、ベントゥス――ティベリウスはネクロノームと呼んでいたか――が発する空気というべきか、曖昧な感覚が彼女の神経を刺激するのだ。
その正体が分からないというより、推測を進めること自体に禁忌を感じるような――どうして彼は、
ぞくり、と背中を奔る氷点下の電流に、ルヴィアゼリッタは慌てて思考を振り払う。
(駄目……考えては)
聞いて未だ一日も経っていない今、強すぎる印象を持つあの神話は少々精神に堪える。まして何故、自分は初めて見たアレを見て、そんな出鱈目話の物的証拠かもしれないなどと思うのか。
そんなにも危機感が煽られてしまうのならここから立ち去ってしまえばいいと自分でも思うのだが、しかし何故か目を離すことができない。
ルヴィアゼリッタのそんな疑問や感慨を余所に、戦闘はさらに激化の一途をたどりつつあった。
否、それは戦闘ではない。単なる一方的な攻撃だ。ベントゥスの触手が、かまいたちが、時として直接振るわれる杖が、およそ10分の1程度の大きさしか持たぬティベリウスを破壊する。
そう、破壊だ。殺害ではない。
尋常でない破壊力、魔術師はおろか戦車でさえも10台は楽に抹消できるだけの攻撃を受け、事実ティベリウスは悲鳴すらなく粉砕され、その腐った肉片と蛆を撒き散らしている。
そんな一方的な展開であるにも関わらず、何故攻撃は終わらないのか。
心なしか、圧倒的であるはずのベントゥスの方に焦りが見て取れるような気がするほどのその原因。それはティベリウスの不死である。
腹を貫かれ胴を両断されては残ったどちらかに半分が生え、頭を吹き飛ばされては再び頭が出現し、足だけを残して完全粉砕してもなお、残った足首には蛆が湧き、寄り集まって肉と化し触手をなし、触手は絡み合って肉体を形作る。そうして気が付けば道化服まで生成されて、元通りのティベリウスがそこにいるのだ。
だがなお、ベントゥスの破壊も止まらない。
ベントゥスの機体内を奔る魔力は膨大だ。攻撃に使われる魔術は明らかに対人戦を想定したものではなく、非効率的極まりないものだが、ティベリウスの一目見るだにおぞましく、そして驚異的な再生にもまた魔力を使うなら、いつかどこかでどちらかが倒れることになるのは自明だ。ベントゥスには遥かに劣れども、ルヴィアゼリッタから見ればやはり破格の魔力を持つティベリウスだが、このままの展開ならば殺しきることも不可能ではないようにも見えた。
――このままの展開なら、だが。
「ティビ――マグナム――インノミナンドゥム――」
風に乗って耳に届いてくる小さな声にルヴィアゼリッタが気付いたのは、戦闘が始まって数分後のことだった。
眼球に魔力を通し――あまり遠目は得意ではないが――、嫌悪を抑えながらティベリウスを凝視したところで仮面に隠されたその口の動くところが見られる訳でもないのだが、よく見れば確かに、粉砕され、吹き飛ばされながら、仮面の下部に開いた穴はかくかくと揺れるようにしてぼそぼそと意味不明の言葉を紡いでいるようだった。
「シグナ――ステラルム――ニグラルム――」
(呪文を――唱えている?)
信じられないことだった。あれほどの――まっとうな人間ならば軽く100回は死んでいる――ダメージを受けながら、魔術を行使する精神力があるというのか。そも、攻撃を受けるたびに粉砕されるその肉体のどこにそんな魔術回路があるのか。
そして、意味はおろかどこの言語かも分からないというのに、何故こんなにもその不気味な呪文は精神を揺さぶるのか。理解し得ないものを、何故あってはならないものだと感じているのか。
――わたしはといえば、まったくなにも理解できない痴呆のように、ぼんやりと坐りこんでいた。どうして悲鳴をあげて、逃げ出すか、それとも友人からあの凶まがしい書物を奪いとろうとしなかったのだろう。私はなにもせずにじっと座っていた――
(識らない! そんな話、読んだことない! 聞いたことなんてない!)
識っているはずのない知識、見た覚えのない物語はしかし、外部から流れ込むものではなく、己が裡から喚び起こされるものだった。
分かっている。本当はそれをどこで得たのか。自分はあの閲覧室で、否、世界で、なにを聞き、なにを幻視した――?
「唱えさせるかよ!」
響く光頼の声。応えるようにベントゥスの放った青い横向きの竜巻がティベリウスの身体を肉片に変え――
「――エト・ブファニフォルミス・サドクァエ・シギラム!」
飛ばされた生首が詠唱を終えた。
そしてその生首は空中を回転しながら、ベントゥスよりもさらに後ろ、嫌悪に思考を支配されながら戦いを呆然と見守っていたルヴィアゼリッタに向けて、確かににやりと笑ってみせた。
「――え?」
己の裡から心を侵してゆく異界の知識と戦っていたルヴィアゼリッタは、咄嗟に気付くことができなかった。
暴虐を為す圧倒的な敵と戦っていた妖術師が唱える魔術。その標的が自分だったのだということに。
5
「きゃあああ!」
突如として背にのしかかってきた重い感触に悲鳴をあげ、振り向くが、しかしそこには何もいない、何も見えない。だが確かな質量を持った何者かはルヴィアゼリッタの肩に体重――なのだろう――をかけて押し倒してくる。
何が起こったのか分からない。混乱していた矢先だということもあるが、あの生首の道化が発動させた魔術は、ルヴィアゼリッタに対しては何も放ちはしなかったはずなのだ。火球、衝撃波、氷柱、光線、武器、魔力波、何一つとしてだ。
だが現実として、ルヴィアゼリッタは何か重いものによって大地へと押しつけられ、身動きを封じられている。
(気持ち……悪い……っ!)
魔力は感じない。気配も、熱も、鼓動も、息遣いも何もない。にも関わらず
しかもこの肌触りはどうか。濡れた草むらに倒されただけでも不快だというのに、不可視の癖に何故か人間大の大きさがあると分かる何者かは、一切の熱を発していないのにどこか生ぬるさを感じさせる蛸や烏賊めいた軟体動物の柔らかさで、全身をまさぐるように蠢く。
そんな腕か、触腕か、それとも頭かもよく分からないものが這い上がり、首筋に触れてきた時、発狂しそうなほどの恐怖が脳裏を占める。不可視の異形が何者かなど分からない。しかし理解してしまったのだ。これから自分が何をされるのかを。
「は、あ、あ――――――――!」
刺されるような小さな痛み。そこから先の感覚はなかった。ただ何かが身体から失われてゆく気怠い虚脱感と、意識の底から闇が迫ってくるような疲労感。
(息が苦しい……胸が……痛い……!)
激しくなる動悸は、肺や肋骨を破壊してしまうのではないかと思うほど。何かが急速に失われていく肉体を救おうと限界以上に働く臓器が、そのために自滅を招こうとするしているかの如く。
じわり、と目の前に赤が拡がった。
比喩ではない。今まで不可視のままだった正体不明の何者か、異界の生物とすら思しき異形が、薄く色付き始めていたのだ。
その色は赤。その体積分に薄められ透けて見えるオレンジ色に近いそれは、ほんの僅か、少し少しずつ色を濃くしてゆく。
(吸われる……吸われてる……わたくしの、命……
朦朧とする意識の中、遠くに転がっている生首が見えた。
ケタケタと笑う仮面、細長いフードを被ったそれが、ルヴィアゼリッタには何故か――昼間の図書館で出会った司書の顔に見えた。
整った中性的な顔、物腰は紳士的で、目の前の道化とは似ても似付かないはずのその顔はしかし、そっくりの嘲笑を浮かべている――
「い――ゃ――――――」
悲鳴すら満足にあげられず、意識が闇の底に沈んでしまうと思えた。
が、その時、救いの手は差し伸べられた。
「離れ――やがれぇっ!」
衝撃。それがあの巨大な異形に乗り込んだはずの少年による体当たりだと気付いたのは、液体を吸って重くなったらしい赤と透明の怪物もろともに弾き飛ばされてからだった。
怪物が離れることはなかった。だが身体の数点には激痛とともに空気の感触。首筋と、その他吸い付いていた部分は衝撃で剥がれてくれたらしい。
光頼はさらにルヴィアゼリッタの上にいる怪物を蹴り飛ばす。吸い付いてきた瞬間にはどれほど力を篭めても離れてはくれなかったそれは、一定量の血に満足したのか、それとも油断か、バウンドしながら数メートル転がってゆく。
「やっちまえ、ベントゥス!」
待機していたベントゥスは、声に応えて光頼の後ろから硬質化した触手を伸ばす。人間を容易く粉砕する金属製の槍とすらいえるそれに打たれ、かくして正体不明の異形は潰された蚊のように大地に鮮血を撒き散らして消滅した。
――だが、怪物を潰した結果として、その瞬間潰されなかった者がいる。
「おーっほっほっほ! 正義の味方って大変ねえ。分かってても策に嵌らなきゃなんないし! あのまま無視してやられてたら、アタシも危なかったわん」
「ティベ――リウス」
倒れたままのルヴィアゼリッタはすぐにでも眠ってしまいたい疲労感と苦痛に苛まれながら、首を回す。その先には、再生を終え、その手に黒い装丁の本を抱えたティベリウスの姿がある。
「さぁあこれからが本番よん! 今までやられた分――」
緑の仮面で嘲笑するティベリウスは、まさしく道化のようにオーバーアクションで腕を振りながらお辞儀をする。再び顔を上げた時、その仮面は激怒を表す赤になっていた。
その憤怒と、そして限りない渇望を全身に顕す飽食の道化は、その全身から巨大な魔力を放出しながら絶叫する。
「――まとめてブッ
その瞬間を、この戦いに関わる者全てが感じた。
「な――この魔力! あの巨人の同種か!」
慌てて飛び退きながら、剣を構えることも忘れてセイバーは驚愕し、
「は――随分と手間取っているな、ティベリウス?」
己が半ば差し向けたことも満足に情報を与えなかったことも棚に上げ、ティトゥスは嘲笑う。
そして――
「いよいよ決着、か」
いずことも知れぬ図書館で、カードを繰る手を止めて司書もまた呟いた。
瞬間、大地に巨大な光の魔法陣が発生した。
五芒星を描くその光から急速に、ティベリウスの再生すらスローモーションに思える勢いで大量の蛆が湧く。大群は次々と発生しながら山を作り、数秒で50メートル近くまでの大きさをなした。
それだけでも、嫌悪に嘔吐するには十分であったろう。だが事態は無論それだけに留まらない。
50メートルの塔のような山を作り上げた蛆の大群は一斉に羽化し、蠅となって周囲へ飛び立つ。
「あ……あ……」
予感に、ルヴィアゼリッタは身を震わせる。
見たくないものが、あの狂気の世界を否定する為には絶対にあってはならない現象が起ころうとしている。
そう、あの司書は。あの奇妙な世界の支配者は、自分に何を教えた?
――最高位の魔導書は。
視界すら覆う蠅の濃霧はしかし、次の瞬間には跡形もなく消え去っていた。
後に残ったのは、蛆が作った山と同じだけのサイズを持つ赤黒い巨人。書によって魔導蛆が羽化した蠅の王――
――魔導書は、神を喚ぶのだよ。
「あ……やっぱり……そういう……ことなのですわね」
「お、おい、どうした! ――あてられたか! だから逃げろって……」
『そんなことを言っている場合ではないぞ光頼。早く決着を付けなければ被害は――』
呆然としているルヴィアゼリッタを、少年が抱き起こして怒鳴ってくる。が、彼女には反応する余裕がなかった。
ほんの十数時間前に脳へと叩き付けられた禁忌の記憶、信じたくない情報を出鱈目だと信じる為の防波堤に、小さな穴が開く。
結局は、混沌
――神とは……
「つまり……」
そうつまり、欲しい情報の半分方は正解を既に得ていたということ。
「アレの頂点に立つ者こそが、
偽神の像が動き出すのを見つめながら、ルヴィアゼリッタは戦慄の中、酷く苦々しい声で呟いた。