IE……というかスタイルシート及びRUBYタグに対応したブラウザでの閲覧を激しく推奨します。


2004/11/29

Recurring Nightmare 第17話「Confusion in the Ranks」

   1


 赤く染め上げられた世界に響き渡る、禍々しいまでの歓びに満ちた哄笑は徐々に小さくなり、そしてその朱色の光に溶けるように姿を消すと、同時に世界もまた黒の割合が増してゆく。
 仮に太陽が沈む瞬間の赤を断末魔と呼ぶなら、その逆側から滲み出す闇はさしずめ、迫る死の気配か。
 突如としてオーストラリアのほぼ中央に出現した白いドームに一足遅れて現れ、愛機の肩に立つ坊門は、上空で浴びる斜陽と強風にサングラスの奥で目を細め、そんなことを考えながら眼下に出現した神の玉座を眺めていた。
 エアーズロック。本来ならばその巨岩こそが神の座る椅子であると、古来よりそれを信仰してきたアボリジニならば言うだろう。だが今、そう呼ぶにより相応しいモノがその上に現れ、突き刺さる朱色の光に抵抗するようにして白く輝いている。
(いや、或いは……正しくそこに座るべき存在が降りてきた、というべきなのか)
 坊門は、気が付けばその右の掌を左肩へとあてていた。
 喪服のような黒いスーツの下にあるはずの痣。かつては今のような三ツ葉のクローバー型ではなく三叉戟を表していた、神々に選ばれた――或いは、弄ばれた――証の聖痕が、痛むような、熱いような不思議な感覚で、眼下のドームにその中の一柱が存在していることを教えてくれる。
 知らず、頬が歪む。
 坊門は神々を怖れず、またいわゆる憎悪と言えるほどに強い感情を抱いている訳でもなかったが、やはりどこか肌が泡立つような思いは拭えない。
 要するに、それこそが畏怖と呼ばれる半ば直感じみた感情、格の違う存在に対してヒトが覚える根源的な感覚なのだろうと理解する。
 だが、そう理解したところで、それではどう対処するのが正しいのか、という答えが得られることもなく――
「……む」
 思索に耽っていると、それまでの舞い上げるような風とはうってかわった突風に一際強くスーツの裾がはためき、髪が大きく揺れた。
 無論、それで振り落とされるような間抜けではない。が、吹き付けた突風に何か自然ならざるものを感じたのか、眉をひそめて坊門は傍らの愛機へ鋭い声をかけた。
「アカシャ。ドームに変化は」
『若干のエネルギー減少傾向を確認。分あたり出現時のおよそ0.01パーセント程度の割合で現在も進行中』
「突然強くなった、この風は?」
『……魔道素反応、魔術判定値未満。力の行使によるものではない、と推測される』
 ややあっての愛機からの返答に、ふむ、と顎をなでる。
「何か自然に介入してきているのかと思えたが、害はない、か。とすれば無関係か、せいぜい何かの余波のようなものらしいな。神といえど堂々と居座わった挙げ句に指先1つで世界が滅ぼせるという訳ではないらしい。――さて、このペースを維持すると仮定すれば、ざっと1週間で消滅する計算か。が起こるのは、その後かな、それとも前かな?」
『後? 前? 理解不能』
「正直な話、こいつが現れた意味が分からん、ということだ」
 愛機アカシャの問いかけに半ば投げ遣りにそう答えてから、ふと下のコクピットで小さな声のようなものが響いているらしいことに気付いた。
 坊門は飛び降りるようにして器用に胸部内に設計された座席へと戻る。と同時に、アカシャはコクピット内に通信用のスクリーンを用意する。そこには「地」を表す梵字《ア》が表示されていた。
「名和か」
「……ああ、繋がった。良かった。そっちじゃ何か起こってるんじゃないかと思ったんだ」
「ふむ」
 聞こえてきたのは〈地〉の〈n〉、「ヤートゥ」の乗り手である名和公の、どこか少年らしい幼さを残しながらも意識的に低く抑えられた声だった。
 坊門はその声に微かな焦りのような混乱を見出しながら、鼻を鳴らして現状を伝える。
「脚本家気取りの誰かに言わせれば、準備は整った、というところか。この俺を夢で誘導してのけるだけのことはあって、行動は素早い。……それで、何故そう思った」
 ヴァルナに海を、ベントゥスに空を監視させながら、出現した《門》の調査をさせたように、ヤートゥと名和もまた、別の《門》へと向かったはずだった。「そっちでは」という物言いから察するに、名和自身は外れを引かされたようなのだが。
 運否天賦に文句を言うつもりはないが、惜しい、と思う。
 協会や教会はおろか結社の類も入り込むのを躊躇する南米の密林地帯でならば、顕現物の独占も容易いと思えたのだが、出現した《門》自体が外れではしょうがない。
(神だか、運命だかは、よくよく人間社会に混乱を巻き起こすのがお好きらしい)
 尤も、その神が観念的なものでなく、実在のそれであるなら、改めて確認するまでもないほどに明らかなことではあるが。
「何故も何も、オーストラリアに巨大なエネルギー体が出現したのは、多分世界中の機関や結社が察知しているよ。それにヤートゥのセンサーじゃ、そっちを中心にそのエネルギーが少しずつ地球の地脈に流れ出しているのを感知したからね」
「流れ出している、だと?」
 その事実の不可解さに、坊門は再び眉をしかめて聞き返した。
 眼下のドームに、巨大な神のエネルギーが内包されているのは聖痕の伝える通りだ。であるから、当然、アカシャの感知するエネルギーの減少傾向もまたその神の意志によるなんらかの干渉、平たく言えば魔術で消費されているのだと思ったのだが。
 それではまるで――
「まるで封印のようじゃないか」
 ドーム状の結界によってそこを離れることは叶わず、惑星という名の超巨大な檻にして拷問具にじわじわと取り込まれてゆく罠。
 流れ出すのは膨大な魔力だ。力が拡散する範囲にもよろうが、正常な流れが乱されるのには違いない。しばらくは不自然な現象や異常気象が各地で続くだろう。
 だが、逆に言えばただそれだけの影響しか残すことなく、突如として地球に降臨した神は1週間後には世界の修正に呑み込まれ、消える。
(そんなことに一体、何の意味がある? この神が事件の本体ではないのか?)
 混乱を深めながら、坊門は頭を抱えたい衝動に駆られる。

 坊門にとっての始まりは、夢に現れた1人の女だった。
 茫洋とした空間の中、その溢れるほどの慈愛と嘲笑を湛えた深紅の瞳で坊門を見据えながら行われた女の宣言は、ある意味で単純極まりないものである。
 物語を始めよう、と。
 笑い声の止む事なき悲劇を。一片の慈悲も届かぬ喜劇を。一時の静止も許さぬ狂騒劇を。
 その挑戦状めいた啓示を誰もが受けた訳ではないだろう。
 存在との霊的交感を可能とする力、つまるところ受信能力の問題ともいえようが、それ以上に「坊門啓という男に向けてそのメッセージが送られた」ことにこそ意味があると、坊門は考えている。
 それが罠であれ、或いはその邪神おんなが自らに課したルールのようなものであれ、その意図を読み解くことが坊門の役目であり、この乱痴気騒ぎを無事に集結させる鍵だと思っていた。

「神足えりに、合流は明後日だと伝えてくれ。それから、可能な限り交戦は避けろと」
 思考の淵から浮上した坊門は、俺は取り急ぎ行く場所がある、と付け加えて、アカシャの空間の操作を命じる。
 呪文に応えて、アカシャは鳴動し、昏く濃い紫色の光を放ち始めた。金属とも生物ともつかない、触手のような、それでいて硬い棒状の何かにも見える無数のパーツが振動し、共鳴して、巨大な呪を紡いでゆく。
 5基の中でも特に異彩を放つ奇怪なフォルムを持つネクロノームは、眼前に巨大な光の文字を描く。
 梵字の《キャ》にも似たその文字は破裂するように飛び散り、光は拡散し――次の瞬間には黒とも紫ともつかぬ色をした巨大な円形の空間が発生していた。
 否、それを空間と表現するのも正しくない。
 まさしく深淵と呼ぶに相応しい暗黒光を放つそれは、空間そのものというよりも、そこへと繋がる孔であり、坊門とアカシャの呪がこじ開けた断裂であった。
「ドームは?」
「様子見で良い。とにかく刺激するな。俺はこの手のことに一番強い奴らのところに行くことにする」
 名和にそう答えてから、坊門はアカシャをその空間の断裂へと向けて移動させてゆく。
「……え、アーカムに行くのかい?」
 言葉の意味するところが一瞬、分からなかったのだろう。一泊遅れて名和が驚いた声を発してくる。
「連中に今更頼るのも癪だがな。……が、餅は餅屋だ。対邪神を謳うのだから人間の争いには関知しないというのなら、今度こそせいぜい厄介事を背負わせてやろうじゃないか」
 坊門はその驚きに含まれる苦みに同意するような呟きを返しながら、強風に運ばれるようにして雨雲がかかり始めているのを後目に、アカシャとともに空間の裂け目に消えた。


   2


 坊門が神を封じたドームを眺めて、後手に回る己への忸怩たる思いに頭を悩ませているのとほぼ同時刻、或いはその少し前。


 文明と発展が、あらゆる闇を無縁なものとしたかのような眠らぬ大都会にも、やはり影はある。
 人の闇はむしろそんなところにこそ宿るのだ――とでも賢しげに言ってしまえば、或いはそれらしく聞こえたかもしれないが。

 ――いあ! しゅぶ=にぐらとふ!

 だが、そこに蟠る闇は、そんな人の軋轢が生む澱み濁りを集めたような、そんな曖昧な存在ではなかった。
 そこは都心部をやや北に外れた丘陵地帯であり、拡大する街に吸収される前の村落がぽつぽつと存在していたのみの頃と同じく、暗い原生林が開発の手を拒んでいた。
 夜明けの直前という、最も闇の深いその瞬間に歓喜するように、数十人という人間が円陣を組んで何事かを一心に呟き、或いは奇声じみた叫び声を上げている。
 そして輪の数歩内側に立ち、扇動者よろしく腕まで振って、一際大きな声で異界の祝詞を叫ぶ男。
 このアメリカ合衆国はマサチューセッツ州、カントリーからシティと呼ばれるようになって久しい「世界で最も栄える大黄金郷」アーカムだが、その一方で酷く陰惨な、文明社会とは決して相容れぬかようなオカルトの世界をも内包する希有な街であった。
 一心に祝詞を唱える神父姿の男、松明を掲げて群衆を煽るように振り回す者、示し合わせたように「いあ! いあ!」と叫び応える人々――そして何より、そんな集会とも儀式ともつかない空間を演出するのに最適とさえ言える、円陣のさらに外側をぐるりと囲む、1つ1つが人間大の環状列石。
 悪魔を崇拝する者達だと言って、誰もがそう信じるに十分な状況であり、またそう呼ぶになんら欠けたる要素はなかった。
 ある、1つのことを除いては。

 ――いあ! しゅぶ=にどらとふ! 森の黒山羊に千の生け贄を!

 あって然るべき物が、彼らの空間には存在していなかった。
 神父は輪の内側に立っていて、明らかに集団のリーダー的な存在であることを示してはいたが、輪の中心には立っていない。森が僅かに開けたその広場で、環状列石が囲むその中心に何があるという訳でもない。
 何を拝し、何を捧げるにしろ、そこには捧げられる物――或いは者――を受け取る本尊、ご神体とでも言うべき偶像が用意されるのが常であるにも関わらず、そこには偶像化に適した建造物や岩、樹木はおろか、人間が用意した人形の類すら見当たらなかった。
 群衆の前を歩き回りはするが決して輪の中心に立とうとしない神父もまた、神格化されているとは言い難いだろう。
 結局のところ、悪魔、もっと言えば邪神崇拝者であることが明らかな彼らが支配するその空間には、どうした訳か崇められるための神が存在していないのだった。

 ――いあ! よぐ=そとほとふ!

「イア! ヨグ・ソトース! 全にして一、かくも畏ろしき無限の虹色よ!」
 輪に合わせるように叫ぶ神父が聖書の如く抱えた分厚い本の表紙には、とぐろを巻いた蛸を上から見たような姿をモチーフにしたような、奇妙な印があった。
 その内容が具体的にんであるかは不明であるが、少なくとも聖書ではない、およそまっとうな書であるとは言い難い代物であることは間違いない。
「かの地へと繋がる《門》にして《鍵》よ! 開け放たれ、本来の世界を取りもどさんとする我等に恵みを! 人が今支配せし所はかつて旧支配者の支配いたせし所なれば、旧支配者ほどなく、人の今支配せる所を再び支配致さん。夏の後には冬来たり、冬過ぎれば夏来たるが道理なり!」
 神父は呪を諳んじるとともに高揚してゆく精神を抑えることもなく、3月も半ばを過ぎたとはいえ決してまだ暖かいとは言えないこの季節の夜に、顔を真っ赤にし、喉をからして叫び続ける。

 ――いあ! いあ!

 と、まるでそれに応えるように、円陣の中心、何もない草むらがきらりと光った。
 おお、とざわめきが起こる。
 光は消えることなく、少しずつ光量を増し、幾条もの光線となって群衆を貫く。不思議なことに、光は人間の身体によって遮られることもなく、しかしその胴に風穴を空けるでもなく、まるで幻のようにただ一直線に突き進み、邪神崇拝者達を通り過ぎて周りを囲む環状列石群へと正確に突き刺さった。

 ――おお……ああAAHHHあああ……

 光条に貫かれた者達が呻くような、それでいて感極まるような声を出し、咽び泣くようにして次々とうずくまってゆく。
 光を受けた石もまた、赤とも青とも緑ともつかぬさまざまな色を発し始める。
 時を同じくして、別の光が森に射し込み始めた。環状列石を輝かせているそれとは比較にならない圧倒的な光量で、その空間に満ちた闇を祓う。
 夜明けである。
「うあっ、おあああAAHHH!」
「Iあ! しuぶNIぐGGぐらAAATTTTHHHH!」
「よGSSSSおとTTおおおほほほほほほHHHHHTTHふふほふほふふHH!」
 そして、先にも増して人とは思えぬような苦悶と恍惚の奇声が、蹲っていた者達の喉から迸った。
 まるで太陽の下にいるのが耐えられぬかのような、ただ母胎を追放されて泣き叫ぶ赤子のように喚き、転がり、また暴れ狂う。
 そんな阿鼻叫喚の中、めり、という何かが破れるような音が響いたことに、気付いた者がいただろうか。
 初めは小さかったその音は次々と連続する。だが、そのことに気付いた者も、すぐにそれどころではないことを知るだろう。
 その理由は音の発生源にある。
 今もうわごとのように神を称えながら暴れ転がる信徒達の中には、何が苦しいのか己の身体を掻きむしる者がいた。そしてな血を溢れさせながら、なお肉を抉り、その自らが引き起こす痛みに悲鳴を上げるように、長い舌を伸ばして天に吼える。
 変化は、一様のものではなかった。
 体毛が硬く伸びてまるで獣毛に覆われたような姿になる者、手足に鉤爪を生やす者、皮膚の角質がそのまま硬質化して鱗のようになってくる者もいた。口が前に突き出る者、頭蓋を破って角が生える者、瞳の色が変わる者――
「おお、おお! 《門》が開かれるぞ! だ! 我等は同志よりも一足早く神々の徒となれるぞ!」
 その中でただ1人、人の姿を保っていたリーダー格の神父がまごうことなき歓喜に涙を流しながら、朝日にも掻き消されることなく環状列石の中心で大きさを増し続ける光を凝視して叫ぶ。
 光が爆発し、《門》が、開く――

 ――――――――!

 太陽が昇りつつあるというのに、直前まで《門》は輝いていたというのに、瞬間、その場は闇に包まれた。
 燃え盛る松明も、《門》の毒を直接浴びて化け物と化した信徒の爛々と光る眸も、全てがその暗黒光の前に輝きを失った。
 あらゆる感覚を失った信徒達にとって、異界に連れ去られたのではないことを証明してくれるのは、この地方に生息する鳥の啼き喚く声のみ。だが明らかに時刻を逸した、葬送の夜鷹とも呼ばれるそのウィップアーウィルの不吉な啼き声は、信徒達の心を縛り付ける。
 光を失った《門》の開いた世界の中で、彼らは皆、同じ光景を幻視した。
 激突する男と男。そして現れた女の得物に貫かれて倒れる男。
 世界に白い光が溢れ――
「おお――――」
 闇が祓われ、《門》が閉じたことが確認された時、再び神父は感嘆の声を上げた。
 崇められ奉られる対象を置かず、《門》が開くまで何もなかった広場の中心には、1人の女が倒れていた。
 肌や顔立ちからして東洋人だろうか。このようなビリントンの片田舎に似つかわしくない、余所行きの洒落た服を、ぽつぽつと赤い染みで汚している。どれほどの激しい運動をしたのだろうか、足首の靴下にも血が滲み、振り乱した栗色の長い髪に解けたらしいリボンが引っかかっている。
 神父は、彼らの新しき総帥となった老魔術師に、《門》より出現したモノはなんとしても持ち帰れと命じられていた。
「さあ信徒……いや新しき神徒となった同志達よ。その女を我等が新しき総帥、間桐様の許へと連れ帰るのだ」
 元の意志が残っているのかいないのか、《門》が閉じて姿を消した後も混乱から覚めやらぬ様子で呆然としていた化け物達は、神父の声がかかると少しずつ人間らしい姿を取り戻し始めた。
 完全に戻りきる者は稀だったが、まともに立つこともおぼつかず倒れ伏していた者も四つ足で地面に鼻を擦り付けていた者も、それぞれ剛毛や鉤爪、間が開いたり色の変わった眼など微妙な痕跡を残しながら、神父の指示に頷いて従うそぶりを見せる程度には落ち着いたようだった。
 信徒の1人、全身を覆う剛毛を消すことが出来ずに残している体格のいい男が倒れた女に近付いて手を伸ばす。
「おイ――」
 上手く発音できないことに途惑う様子を見せながら、女の左腕を掴み、浮いた胴に自分の腕を回すようにして起こす。
「――――ぃ」
「ム?」
 剛毛の男が眉をしかめた。
「どうした。女が目を覚ましたのか」
「……いヤ、なんデもNAイ。気のせイだTた」
 神父の問いかけに答えながら、自身も確信がある訳ではないのだろう。男は声を確認しようと女の口元に耳を寄せる。
「――――い」
「寝言……か?」
 いつの間にか近くに寄ってきていた目の離れた男が呟く。
 おそらくは別の魂胆もあるのだろう。その男も含め、積極的に女に近寄ってきている者の大半はその眼に好色そうな色が見え隠れしていた。女が美しかったこともあるが、皆、《門》の出現と変異に興奮しているのだった。
 主に届けた時に生きてさえいればいいだろう?
 次々に女に手を伸ばそうとする信徒達の目は、そう如実に語っていた。
 だが三度、女の唇が言葉らしき形に動いた時、端で見ていた神父の背筋を何とも言えない悪寒が走った。
 その理由を詮索することも後回しにして、待て、と部下達に静止の声を上げようとする。
 ――が、明らかに遅すぎた。

「――――臭い」

 何かが空を裂く風切り音だけが、僅かの間、その空間を駆け抜けた。
 悲鳴すらなかった。
 そんな生命の当然の権利すら赦すことなく、その数秒ののちには、女の周囲には細切れになった大量の肉片だけが散乱していた。
「な――――に?」
 何が起こったのか、神父には視認することも出来なかった。
 きらり、と朝日を反射して煌めいた白刃を見て、意識を取り戻した女がいつの間にか取り出した刀を文字通り目にも留まらぬ速度で振るい、周囲の信徒達を切り刻んだのだ――と推測できた時には、神父と女の他には細切れの肉片しか残ってはいなかった。
 ぎろり、と女の視線が神父に向けられた時、神父は心底戦慄した。
 女の瞳には、殺意も殺気も、自ら口にしたばかりの嫌悪すらありはしなかった。
「く、はは」
 茫洋と焦点の合っていないその両眼に、思わず神父は吹き出すように笑ってしまう。
 その笑い声を合図にして、女が地を蹴る。
 まるでビデオのコマが飛んだように過程を省略して胴体に別れを告げながら、神父の首は思った。

 それなりの土壌を備えた者達でさえ、魔術的な防御なくして眷属化が避けられないような《門》を通り抜けて来る存在が、どうして安全まともでいられるなどと思ったのだろう、と。


   3


「――エアーズロックでのこの現象を最も素早く、効率的に解明し対策を取れる組織に事態の収拾を図って貰いたいのだ」
 起き抜けに呼び出された形の若き覇道の長は、その睡魔を振り払うのに苦労している内面をおくびにも出さず、客人の話を黙って聞いていた。
 本来はそのような時間、ましてアポイント無しでの会談など受ける理由もなければ、受けたところで自分に都合の良い時間まで待たせるところなのだが、しかし、やってきたのがこの合衆国の影の王とまで囁かれる己とある意味で対等の存在、知る人ぞ知る超一級の犯罪者、世界中のありとあらゆる国家から敵視され、抹殺を前提に指名手配されているとなれば、多少の興味は湧く。
 名は坊門啓。
 彼ら覇道の血とも縁浅からぬ遠い島国で新興宗教を興し、そして力を持って世界を滅ぼさんという荒唐無稽な計画を実行に移した――とされている――人物である。
 髪と瞳にスーツの上下、ネクタイから革靴に至るまで黒で揃えられた長身痩躯の男。応接間に入るまでのサングラスをしていた姿など、宗教家やテロリストの長というよりインテリヤクザとでも呼んだ方が相応しいかと思われた。
 当然、そんな見るからに怪しい男と会うことについても周囲が難色を示さないはずもなかったが、現在、この財閥において総帥の意志を覆しうる存在など3人もいない。範囲を世界全体に広げたところで両手の指で事足りる。
 まさか相手を味方と思っている訳でもあるまいが、莫大な懸賞金まで懸かっている己の身を晒すリスクを犯しての訪問に、はたしてどんな意味があるのか――そんな好奇心が働いてしまえば、危険を訴える声など何処吹く風である。
 世界最大規模の複合企業体、覇道財閥の後継者は、そういう冒険心を持った少女であった。
「――お話は理解できました。それで、件の怪現象とは」
 坊門の半ば演説じみた長台詞の一区切りを待ち、結論を勿体ぶるようにしてテーブルの上にあるカップを取り、口を付ける。
 眠気覚ましのためだろう。メイドが運んできたのは紅茶ではなくコーヒーだった。舌を刺す微かな酸味で少しずつ頭の回転を取り戻しながら、残った片手で坊門の差し出した数枚の写真を取る。
 写っていたのは、どこかを上空から撮影したらしき光景だった。
 広大な荒野とまばらな林。そして中心に屹立する、高度を見誤らせるほどに巨大な岩石。素人が撮ったとも思えない高精度の画像は、ただ1つの例外を除けば、オーストラリアはエアーズロックを写した観光雑誌の1カットと言っても信じられたことだろう。
 その例外とは、巨岩の頂上に当たる部分に存在している不可解な何かであった。
 白いドーム状の物体とでも言えばいいのか。朱色の斜陽に照らされながらなお白い、自ら発光しているらしいそれは、内側を覗かせることもせず、はたまた外へ何かを働きかけることもなく、ただそこにあるだけのようだった。
 上から見たエアーズロックよりも二回りほど小さいから、直径は2キロメートル前後といったところか。いわゆる球場のような巨大さではないが、しかし昼間になかったにも関わらず、突如として夕暮れ頃に現れることまでは許容できそうにない。
 正体や危険性の有無はともあれ、確かに怪奇と言って差し支えない現象であった。
「この光景は3月23日のもの、ということで間違いないのですね?」
 写真を確認しながら、上目遣いに確認をとる。坊門が顎を引いて頷く。
 撮影されたのがオーストラリア中央部の日没直前とすれば、現在24日の朝を迎えているこのマサチューセッツ州アーカムシティと、そうは時間も離れていない。どれほど長く見積もったところで2、3時間前だろう。
(移動手段を訊く……というのは、野暮かしら)
 当人が撮影した、とも聞いてはいないが。
 騙り、悪戯の類かもしれない、という可能性は幾分気を削いでくれるものだったが、不可思議なドームの出現が真実であることは、目の前の男と面会する直前に、信頼する執事からあまり良くない別件の知らせとともに告げられている通りだ。少なくとも写真は偽物ではないらしい。
 しかも、まさしく荒唐無稽と呼ぶほかない話ではあるのだが、この自称坊門啓は写真に写っているドームには名も知らぬ神が封印されていると言う。「神」なる存在はその思念だけで世界を滅ぼしてしまえるような、危険かつ邪悪極まりないモノであり、「この世で最も神の脅威に対抗できる人類組織」は早急に対策を練り、施行すべきだというのだ。
「――2つ、質問させていただいてよろしいかしら」
「どうぞ」
 特に声音に篭もる感情を変えたつもりはないのだが、頷く坊門の声は僅かに硬くなっていた。
 詮索を怖れる様子ではない。それならば、初めから覇道に姿を現すということは出来まい。もっと繊細かつ機知に富んだ感性で、己がこれから試されるのだ、ということを察した声である。
 やりにくいといえばやりにくい。が、相手の頭が回ることが分かるというのは、好感の持てる反応と言えなくもない。
 小さく咳をして喉の調子を確かめてから、口を開く。
「一昨年、日本は東京都の大田区に本拠を構えていた、とある新興宗教が破壊活動防止法の適用を受け、姿を消しました」
 坊門の表情に変化はない。
「どうした訳か、数百人はいたはずの出家信者の方々はおらず、巨大な地下室はもぬけの殻だったそうですが、彼らが信仰していたと思われる巨大な像が残っていたそうですね」
 きっと重すぎて持ち出せなかったのでしょう……などと続けながら、注意深く探るように顔を観察するが、深い穴が空いているかと錯覚するようなその黒い瞳は小揺るぎもしない。
「その神像の形はなんと、直立した人のようでありながら、その頭は生きた蛸をそのまま被ったかのような姿だったとか。首もとから無数に生えた触腕は生々しく躍動感に満ち、その神様は背中に蝙蝠のような翼まで持っていたと言うのです。……確かその宗教団体、名は隠言宗涅懼髏之夢ネクロノム派」
 小さく息を吸って、次の言葉での反応を見逃すまいと固く誓いながら、最後の言葉を吐き出した。
「……貴方は何故、さきほどの話を誰かに伝えようと思ったのです?」
 初めて、僅かにだが、坊門の顔が歪んだ。
 それも当然のこと。
 覇道の長はこう言ったのだ。ドームと神の関連云々といった事の真偽はひとまず置いておくとしても、どういう訳かネクロノームという超兵器で人類を滅ぼそうとした世界の大敵が今、自分の身を晒してまで邪神の陰謀を語り、人類の危機に警鐘を鳴らしに来ているという訳だ。放っておけばお前にとっては愉快なことになるのではないのか、と。
 しばしの沈黙ののち、坊門が再び表情を戻す。
「もう1つの質問とは?」
「――答えては戴けないのかしら」
「なんとなく、2つまとめて答えられそうだと思ったまでだ。違うかな」
 今度は、覇道がふむ、と鼻を鳴らす番だった。
 今のは忍耐強さか、それとも冷静さから来る余裕か、はたまた本当は坊門啓ではないゆえの演技か。
 ちら、と横目で静かに控える長身の執事を見遣る。執事は微動だにせず、ぼうっとするでも睨むでもなく、眼鏡の奥から静かに坊門を見つめていた。
 執事には、今の坊門はどう映っただろう。考えてもみるが、敢えて1対1の対決姿勢に持ち込んだのは彼女自身である。この場で意見を求めることを彼はよく思うまい。
(保留、ですわね)
 心中で溜息をつき、仕方なく、坊門の言葉に従って次の台詞を舌に乗せることにする。
「ええ、それでは、このことが一番重要なのですけど……」
 この男が本当に坊門なのか、そして坊門がいかなる人物なのか、という疑問にどれほどの意味があるかと言われれば、そんなものはほとんど無いと答えるしかないだろう。
 本物であれば、州なり国なりに突き出して覇道の名声に1つ英雄譚を付け加えるという手もあるのだが、不思議とそんな気はしない。善人に見えるかといえば、決してそんなことはないのだが。
 祖父のような魔人じみた先見性を受け継ぐことは叶わなかったが、しかしてやはり自分も覇道であったということなのか。意味も性質も分からないはずの白いドームの話を聞いた時、何かが彼女の脳を電流のように駆け抜けたのだ。
 覇道の王の直感――だと思うことにする――はこう言っていた。

 この件に関われ、と。

 結局のところ、これは相手に協力するための自分なりの理由を捜すことが目的の、意地と好奇心の問題であるのかもしれなかった。
(坊門だか運命だかは知りませんけれど、このわたくしを動かそうというのです。時は金なりとは申しますけれど……この覇道瑠璃のそれはことに歩合が高いですわよ?)
 そうして覇道瑠璃は相手の正体を掴むための、最後の揺さぶりをかけることにする。
?」
 そう。確かに覇道は世界最大の複合企業体であり、秘密――いわゆる、公然の――裏にではあるが、最新鋭の装備で固めた私設軍じみた武装警備員を擁し、ある意味で国家にも匹敵する権力とその他の力を持つ。
 ……が、そのことと、怪現象の解決能力は必ずしも相関関係を持たない。
 特に、ことは直径2キロの未知のエネルギーで構成されたドームを突如として出現させるような芸を、商才でどうにかしろというのはどだい無理な話であろう。
 協力するしないは別にして、何故、覇道にやって来たのかはどうしても確認せねばならないことだった。
「……訊きたいことというのはそれだけかな?」
 坊門の喉から発せられた声は、ほんのかすかに語尾が跳ね上がっていたように思えた。
 眉を顰めながら、瑠璃は頷く。
「ええ」
「なら答えは簡単だ――――舐めるな」
 応接間の体感室温は、2度ほども下がったろうか。
 坊門の言葉は確かに暴言ではあったが、それほどに力を篭めたものではなかった。だがそれだけで、瑠璃は一瞬、鳥肌が立つのを感じた。
 声に篭められたのは敵意や嫌悪といったものではなかったが、しかし抑えられた激しい苛立ちと憤りの混合物は、それに近いものであると言って良かったろう。
「俺を邪神崇拝者呼ばわりするのはまあ良い。俺がちょっと前までクトゥルーの夢を見て行動していたのは本当のことだからな。だがあんた達は知っていたはずだぞ、あの時の世界の危機は俺達が原因ではないってことをな。覇道が新聞社と一緒になって例の南極調査団に出資していたのは子供でも知ってる事実だ。その時のあのミスカトニックの教授がスポンサーである覇道に報告していないはずは無いんだ――狂気山脈で氷付けのオールドワンやショゴスを抱いて眠る〈N〉の存在をな!」
 怒りの糾弾は、空気をぴりぴりと震わせる。
 飲み物を持ってこさせたメイドをすぐに下がらせて良かった――そんな場違いな安堵に、瑠璃は内心苦笑する。脇に控える執事に一切揺れるところのないことを感じていなければ、或いは自分も気圧されていたかもしれない。
(案外、気の短い人なのですね)
 少しからかいすぎた、と後悔する。
「挙げ句に「何故、覇道財閥に」だと? それは俺に、覇道財閥直下の鉄鋼業に前住所がエジプトになっている社員がやけに多いことやら、ミスカトニック大学と提携して、考古学科の一部学生を対象としたやけに金のかかるレクリエーションを毎年企画していることやらを面白おかしく推測混じりにくっちゃべれとでも言っているのか。……それとも、こんな都市伝説まで話さなきゃならないのか? 「蟹のような姿をした宇宙人に狙われている」なんて妄想に取り憑かれた大学教授を財閥で保護した上に、その我が儘に付き合って結構な金が動いているというじゃないか。その使途不明金は、巷じゃその教授の名前を取ってこう呼ばれるらしい。ウィルマース基金ファウンデーションとな!」

「……よくお調べになったこと」
 しばし沈黙したのち、結局、瑠璃は深い溜息をついて降参の意を表した。
 最後の皮肉は少々いただけないが、しらを切るのもそれはそれで馬鹿馬鹿しいし、実際にそれくらいのことは知られているかもしれないという思いはあった。
 実のところ、数年前に各国軍が5機のネクロノームを殲滅するために日本を核攻撃することを決定していた頃、覇道はことの原因におおよその見当がついていたのだった。
 「世界平和軍」を自称する多国籍軍を止められるほどの力は流石に覇道も持ってはいなかったのだが、日本そのものへの被害はネクロノーム達が防ぐのではないか、という目算があったことや、その過程で邪神崇拝組織コスモ・マトリックスが滅ぶなら、とネクロノームの弁護を特に行うことなく軍の暴挙を黙認したのは事実であり、そういう意味では彼らには恨み言の1つや2つ言う権利もあろう。
 こちらのことまで調べがついていないならばしらばってくれてしまおう、という下心が裏目に出たとも言える。

 何故、覇道財閥が邪神崇拝組織と敵対するのか? その理由が、最後に坊門の揶揄したミスカトニック英文学科、ウィルマース教授にある。
 民俗学にも深く通じている彼は一時期、先史時代から地球に巣くう怪異なる存在について学術的な調査と解釈を行い、神秘主義者と激しく論議を交わすことがとある雑誌の目玉記事になっていたことがあった。
 だがその彼がある時、持論を正反対の物へと切り替えた。
 曰く、危険な外宇宙からの侵略者は実在する、と。そしてアーカムの支配者である覇道へと助けを求めてきたのだ。
 瑠璃の祖父、鋼造が何を思ったのかは知るところではないが、ともあれ覇道財閥はウィルマースのバックアップに回ることを決めた。
 武器を揃え、文献を調べ、さまざまな観点から調査を続け――気が付けば、道楽同然に集められた班は、邪神の眷属やその信徒の実在と危険性を認め、社会の表へと晒すことなくそれらに対抗するための攻性組織へと変貌していた。
 人類による非公式対邪神組織、ウィルマースによる創設組織ファウンデーションである。
(とりあえず、本物であることは間違いないようですわね)
 もう一度溜息をつき、後は任せたとばかりに執事に目配せをする。
 心得た執事が、下がる瑠璃と入れ替わりに一歩前に出る。軽く一礼をして、低いがよく通る声で話し始めた。
「申し訳ありません。例の組織については、決して私達の方からは口にしない決まりになっておりまして。侮辱する意志があった訳ではないのです」
 経験の差か、或いは性格か。特にへりくだっている訳でなく、ただ柔らかく、そして力強い執事の言葉に不承不承ながらも相手が怒りを鎮めるのを見ると、いつも瑠璃は羨ましくなる。
 単純に自分の我の強さが抑え切れていないことも原因の1つであることは自覚しているのだが、いつも自分に足りない部分を正確にフォローしてくれるこの若き執事には、幾度も感心することしきりである。
「――専門的なことは分かりかねますが、しかし、オーストラリアの例ほどではないにしろ、無視できない現象は世界の各地で起こっているのです」
「《門》だな」
 坊門の短い答えに、執事も頷く。
「実はこのアーカム北の丘陵地帯には、古代人が遺したと思われるストーン・サークルなどの遺跡がありまして。その一帯を邪神崇拝結社コスモ・マトリックスの残党と思われる集団が武力占拠しているという情報と、そのタイミングから《門》の出現に違いないという結論の元、ファウンデーションによる偵察を続けさせているところなのです」
「ふむ。場合によっては、再制圧という訳か――む?」
 と、ようやく本題に入り、事態の収拾の手がかりを見つけるべく、流れが作られようとしている時だった。
 坊門の怪訝な声に重なるように、たっ、たっ、と何者かの駆け足の音が近付いてくる。
 どうやらこの応接間に向かってきているらしいと判断したのだろう。失礼、と一言置いて、執事は扉を開け、向かってきた軽い足音の主と会話を交わし始めた。
「なんですか騒々しい。お客様が見えているというのに――」
「いやウィン様、それどころじゃないです――」
 そう反論しかけたメイドだったが、さすがに主人の顔に泥を塗るまいと考えたか、はたまた単純に客に聞かせられる話ではないのか、小声になる。
 しばしして戻ってきた執事の顔には、珍しく緊張が走っていた。
「お嬢様、坊門様、ことは少々難解なことになりそうです」
 そして厳しい眼のまま、そう口を開いた。
「なに?」
「なんですって?」
 口を揃えて聞き返す坊門と瑠璃に、執事は続ける。

「アーカム北、ビリントンのストーンサークル群を占拠していたコスモ・マトリックス残党が何者かの襲撃を受け、全滅しました」


   4


 カーテンの隙間から床へと伸びる微かな光に、少女もまたペンを置いて目を細めた。
「……ん、もう朝か。全く、鬱陶しい限りだね」
 姉小路優子の朝は早い……というのも間違った表現ではない。が、ここ最近に限っては、起こされているというのが正しいかもしれない。
 寝付けないというほどではないのだが、何故か神経がぴりぴりする、とでも言うべきか。眠っているとどこか産毛が逆立っているような落ち着かない気分になって、気が付けばこうして机に向かい、気を紛らわせようと書き物をしていた。
(まさか、見知らぬ土地で興奮して眠れない子供でもあるまいし)
 ホテルのベッドが悪いのかな、などとも考えるが、一応、宿泊費に関してはケチなことは言っていないつもりだ。
 泊まる部屋の居心地には――帰ったら義母や兄に呆れられそうなくらい――拘っているし、特に環境が悪いとも思えないのだが、何故かよく眠れない。
 そういう苛々を紛らわせるようにして、優子はこの旅の主な目的の記録をメモにつけている。
「……こんなもんか。しかしいない奴が多いというか、会えた人間を数えた方が早いというか」
 優子は、《門》を狙うアンチクロスやコスモ・マトリックス、そして背後の神についての情報をしかるべき機関や人物へ伝えて回るよう、義母より言い付かってこの一月、旅をしてきた。
 ……のだが、思わず漏れたぼやきも無理からぬことで、義母の独断と偏見ながら「伝えるべき」「伝えても良い」と認められたほとんどの者達とは未だ会えていないか、会えても失望する羽目になっている。
 皆それぞれに都合が悪いというのか、はたまた巡り合わせが悪いというべきなのか。ある者は長期の旅行中、ある者は病を患い、そしてある者は既に鬼籍に入っていた。
「そもそもからして行方不明ってのまでいるし……」
 真に聞く他者のいない空間での独り言はそれだけで神経症の一種だと言われるが、優子がそれだけのストレスを溜め込んでいるのも無理からぬことで、あらかじめ会う予定の人物名を列挙したメモ帳のページでは、既に名前のほとんどに決裂か、あるいは捜索を諦めた証の取消線が引かれてしまっていた。

   Etinne-Laurent de Maligny
   Cindy de la Poer
   Henri-Laurent de Maligny
   Titus Crow
   Albert N Wilmarth
   Laban Shrewsbury
   William Dyer
   ……

 他人に無頓着な優子らしいというべきか、特に順番を考えることもなく適当に並べられたリストで、取り消されていない人名はほんの僅か。
 当初、組織としての魔術協会にもあたることは考えていたのだが、やはり同じ事だった。元が研究というよりも神秘の独占と隠匿を目的とした組織だけに、あまり表だった動きをしたくないというのは理解できる話なのだが、かのアンチクロス相手に政治的な駆け引きが通用すると考えてしまう腰の重さは病的ですらある。
 どうしても看過できないレベルの騒ぎを敵が起こすとなれば、彼らも独自の判断で刺客の10や20は派遣することになろう、ということで、結局、優子も強気に出ることはしなかった。せいぜい手遅れにならないことを祈るのみである。
 この手のタイプを誅するのに適しているのといえば、どちらかといえば魔術協会よりも聖堂教会なのかもしれなかったが、優子、ひいては義母である日向亜紀がコネを持っていないことと、また優子自身が彼らに側であることから、接触は避けた。
 そうして残った僅かな者も、このアーカムシティへの訪問が終わってなお会えていなければ、ひとまず諦めることになる。事実上、義母に命じられた優子の旅はこの地が終着点であるといえた。
 それが終われば――
(――アイツを)
 ずくん、と胸の奥で黒い何かが蠢く。
 いわく名状しがたい感情――という訳ではない。それが憎悪と呼ばれるものであることは、優子も理解できている。ただ、6年にも渡って己の裡で育てられてきたその怪物が、今、どのくらい大きくなっているのかを優子自身にも掴みかねているゆえに、無意識に表層へと持ち上げてくるのが躊躇われているのは確かだった。
 敵というのも生ぬるい、潰しても潰し足らず、引き裂いても引き裂き足らぬ端正な顔は、一度思い浮かべてしまえば優子の表層の理性など軽く吹き飛ばしてしまう。
 何も知らない兄に殺意を向けたこともあれば、一度など、一歩間違えれば自分が死ぬような状況でも憎きその相手を追いかけたこともあった。
 1年前、図らずもその男と再会してしまったのがまずかったとも言える。会うことがなければ、あの男は既に死んだのだと自分を無理にでも納得させ、憎悪が時間によって摩耗してゆくのを待つことも、或いはできたかもしれない。
 だが優子はその男と再会し、そして酷いことに仕留め損ねてしまった。そのことが自身の内に潜む憎悪をいっそう成長させてしまったのは間違いない。
 外を自由に出歩ける機会がそう多い訳ではない。この旅で見つけ、そして殺し損ねれば、自分はひょっとしたら一生、この怪物を飼いながら生きていかねばならないかもしれない――
(絶対に……今度こそ……)

 めり、とホテルに備え付けのテーブルが音を立てたのと、どん、と大きな音を立てるドアが来客を知らせるのは、果たしてどちらが早かったか。

 はっとした優子がついていた肘をどかすと、木製のテーブルは思い切り硬球でもぶつけたかのようにへこんでしまっていた。
 やってしまったか、と小さく呟きながらも漏らす溜息には、破壊的な黒い衝動が胸の奥に再び沈んでいくのを感じる安堵の色が強い。
 ゆっくり、そろりそろりと眠る猛獣の横を通り過ぎるような繊細さでその感情に蓋をして、億劫げに優子が立ち上がった時、もう一度、今度は小さくドアが鳴った。
「いるよ」
 留守だと勘違いした相手が諦めて帰る分には構わないが、準備している間にまたノックをされるのは耳障りだ。いかにも面倒くさそうな返事で一応の在室を告げてから、二度寝するつもりで起きた下着姿のままだった格好の上に、ハンガーから降ろしたお気に入りの黒いドレスを着ていく。
 この早朝に訪ねてくる不可解さ――まさか自分が起きていることを知っていたとまでは思わないが――や、そもそもこの部屋に姉小路優子が泊まっていることを誰が知っているのか、等と客の素性や用件を色々と詮索しながら着替えていたせいか、準備にたっぷりと10分以上はかかってしまった。
 それでも苛立たしげな物音1つ立てずに待っているらしい外の気配に少し感心しながら、優子がドアを開けようとすると、何かに引っかかる。
「おや?」
 どうやら、何か重いものがドアに寄り掛かっているらしい。
 固定されている様子はなく、硬いものでもなかったので、力を篭めて、ずず、ずず、と音を立ててどかしてやる。
「一体なんなんだろうね――」
 そんなことを呟きながら、ドアの開閉を邪魔していた原因を見遣る。
 そして、
「――うわあ」
 心底嫌そうに顔を顰め、優子は溜息をついた。

 ドアに押されたそれは、どさり、と音を立てて転がり、向きを変える。
 床には、服から髪からとにかく全身を血でべったりと汚した、1人の女が眠っていた。


Next「City of Solitude」
戻る