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1
「全滅……だと?」
その場の人間を硬直させたその言葉の呪縛からいち早く脱し、最初に口を開いたのは坊門だった。
アーカムの中心に位置する支配者の館、覇道邸の応接間で会談中だった坊門啓と覇道瑠璃の間で、オーストラリアに現れた白いドーム、そしてコスモ・マトリックスへの対策を目的とした協定が取り付けられようとしていたまさにその時、アーカム北部のアイルズベリイ丘陵地帯はビリントンの森に存在する遺跡を占拠していた件の邪神崇拝結社員が全滅したことを知らされたのだった。
こほん、と咳払いが響く。坊門に続いて我を取り戻した覇道瑠璃である。
「ウィンフィールド。もっと詳しいことを」
報告を伝えた執事は、まだ情報が十分とは言えませんが、と前置きして、再び話し始める。
「環状列石群地帯を監視していた派遣員の報告によると、今日未明、C∴M∴構成員は何らかの儀式を開始。それまでの情報と、後に起こった現象から《開門》が行われたものと推定されます」
淡々と語る執事の言葉だが、その意味は重く、瑠璃や坊門の表情に緊張が走る。その事実には、いくつかの問題が孕まれていたからだ。
《門》を無理矢理に開く、ということがはたして可能であるのかどうか、という点が1つ。
詳細は不明ながら、ロンドンに本拠を構える魔術協会が開門に成功したという情報は未だ入っていない。彼らに開けるつもりがあるのかどうかも不明ではあるが。
いずれにせよ、覇道の把握している限り、現れた《門》を開くことに成功した例は未だない。
2つ目には、コスモ・マトリックスの情報の正確さだ。
最初にロンドンより《門》の出現の兆候が報告されたのが20日。この時点ではその位置は未だ特定できていなかった。そしてコスモ・マトリックスと思われる武装集団がアーカムへと進入、環状列石群地帯を占拠したのが21日。
覇道財閥の莫大な資金を投入して世界中に目を光らせている対邪神組織や、中東や南米を除くもののほぼ世界中に支部を持つ最大勢力である協会の情報網よりも遥かに早く《門》の位置を特定していることになる。
まるで、初めから分かっていたかのように。
執事はそんな2人の思案も知らぬげに――理解していないはずもないが――落ち着き払った様子で報告を続ける。
「およそ3時間半に渡って続けられた儀式は、日の出とともに完成を見た、或いは失敗したと見られます――」
「待て」
と、そこで坊門を口を挟む。
「成功したのか、失敗したのか、どっちなんだ」
そこが一番重要なところだろうと言いたげな坊門に、執事はゆっくりと首を振る。
「ええ、確かにそこは問題です。が、ある意味では問う価値のない疑問であるとも言えます。……不明なのはつまり、太陽が昇り始めたちょうどその時、彼らが全滅したからなのですから」
「何故だ。覇道の組織でないとしたら、余所の結社か、それとも内乱か」
「それも不明です。が、少なくとも武装した集団の攻撃を受けた訳ではないようです。望遠カメラでの監視を行っていた派遣員にも気がつかないうちにことは終わっていたということで。現場には、コスモ・マトリックス信徒と思われる、もはや肉片とでも表現するしかないような細切れにされた十数名分と見られる死体が散乱するのみであったと」
沈黙が降りた。
《門》を占拠していたコスモ・マトリックスの存在は危険な存在であり、場合によっては実力での排除も辞さない覚悟が必要な相手ではあったが、同時に現状をより深く理解するための手がかりでもあったのだ。
邪神崇拝者こそが、最も邪神の情報に通じた存在である――とは、一概に言えないところではあるが、知る人ぞ知る世界最大の邪神崇拝結社が動いている、という状況にはやはり多少の期待もあった。
が、その敵はなんの情報も残すことなく退場してしまった。それはつまり、《門》や神の眠るドームと彼らの関わりを知る機会も逃したということだった。
「これは派遣員の印象によるところが大きく、詳しくは分析班の報告を待つところですが――」
2人が事態を租借するのを待つように言葉を控えていた執事がそう続けると、再び4つの視線が集まる。
「その死体ですが、どうやら鋭利な刃物によるものらしい、とのことでした。まるでまとめて巨大な機械にでもかけられたように」
「え、それは……」
「む……」
そして、何を言わんとしているのかに同時に気付き、同時に眉を寄せる。
瑠璃が場を代表するようにして確認する。
「まさかとは思うのですけど、ウィンフィールド」
「は、なんでしょう。お嬢様」
「軍隊その他の武装集団はこの件に干渉していないのでしょう?」
「それは間違いありません。状況に混乱しているとはいえ、流石に部隊単位で見逃すほどファウンデーションの監視員の目は節穴ではございません」
「そして、全滅したコスモ・マトリックス信徒はそれぞれ、まるで機械でやったように鋭利で正確な切断面を晒していた」
「と、いう話です」
「それはつまり……」
と、一時言葉を切り、深く息を吸い――そしてその肝心要の核心、想像するのも馬鹿馬鹿しい荒唐無稽を口にする。
「まさか、彼らは少人数……いえ、
ただ1人の逃走も許さず、その場を注視していた者の目にすら一度として姿を現さず。
インチキ、偽物ではない本物の魔術師すら擁する者達を。おそらくは一瞬で。
「――可能性の1つです、お嬢様」
宥めるような執事の言葉も、今度は主を安心させるには至らなかった。
そんな者が存在しうるという事実だけで、戦慄するには十分だ。そして何より――
「まずいな。単独にしろ複数にしろ、少数となると足取りを掴みづらい」
そう、問題は瑠璃に続けられた坊門の一言に集約されていると言って良かった。
今回、全滅したのは邪神崇拝者だ。しかし、その目的も経緯も不明な現状、その惨状を作り出した者がどこに行ったか分からないでは済まされない。この世界に敵の敵は……などという甘い話は滅多に存在しないのだ。
一言で表すならば、危険なのである。
「ウィンフィールド」
主の呼びかけから、執事はその意図をすぐに察している。
「は。既にファウンデーション並びに下部組織はアーカム市全域を対象として捜査を開始しております」
瑠璃は頷き、そして隣の坊門へと向き直る。
「坊門さんは、この手のやりように心当たりがありまして?」
「あると言えばある……が、どうかな。別の《門》で目撃されてはいるが、果たして返す刀でアーカムまで来るかどうか」
尤も、奴らの場合、今から足取りを追うのは不可能に近いだろうがな、という正直な思いは黙っておく。そう決まった訳でなし、余計な茶々を入れられる状況でもない。
それから、瑠璃は坊門に一室を用意することを告げてから、執事を伴って応接間を退出していった。
しばししてからやってきたメイドに案内されながら、坊門は窓から刺す太陽の光を睨むようにして仰ぎ見る。
「……厄介なことが重ならなければ良いがな」
「はい?」
「いや、なんでもない」
何か粗相をしたかと首を傾げて聞き返すメイドに答えながら、坊門はズレたサングラスの位置を指で直して向き直る。
口をついて出た言葉は、不安から来る焦燥か、それとも予感か。
高緯度のアーカムの春は未だ見えず、しかし掌は汗に塗れていた。
2
どさ、と重い音を立てて、ベッドが深く沈む。
随分と金を出しただけあって、部屋、寝具ともに優子のセンスから言っても合格点で、羽毛のような感触が倒れ込んだ優子の身を包む。
流石はこの世で最も住民の国籍が多様な街、というべきか。或いはその支配者の意向かもしれなかったが、宿泊施設にもあらゆる地方からの客を迎えてみせようという意識が見える。
サービスも多岐に渡り、明らかな日本人名である優子の名を出した瞬間、畳の部屋を勧められた時には感心していいものか困惑して良いものかと首を捻ったものだった。
結局、優子の嗜好から洋室に泊まることにした訳であるが、思えばその時に勧めに従っておけば、今の自分はもっと違う気分でいられたろうか――などと益体もない思いにも駆られてみる。
「……ふぅ」
思わず、息が漏れた。ちら、と視線を動かし、入り口の手前、風呂や洗面所、手洗いへと続く角を見遣る。
優子を朝から憂鬱にしてくれた厄介極まりない荷物は、この部屋のカーペットを汚したら多分帰れないな、という優子の判断で洗面所に放り込んでおいた。
さてどうしたものか、洗ってやる義理も無し、そも意識のない人間を風呂に入れるのも一苦労。誤って溺死でもさせては寝覚めが悪い、いや死んでも構いはしないんだが――などと悩みながら部屋へと戻り、余所へ捨ててくれば良かったんじゃないか、とそれから思い至るも、後の祭り。
日が昇る前ならいざ知らず、今から血塗れの女を部屋から運び出すのは目撃される確率が高い。ただでさえ土地勘のない異邦人である優子のこと、捨てる場所を物色する手間を考えればさらにそのリスクは倍加する。
扉の前で寝こけていたお届け物を部屋に運び入れてしまった時点で、優子は選択肢を失ってしまったのだともいえた。
尤も、血塗れの女を担いで歩くドレスの少女、という存在が果たしてどの程度目を惹く
(と……なると)
捨てる機会があるとすれば次の晩、ということになる。それまでに女が目覚めてくれるかどうかは優子の見る限り、微妙なところだった。
「まさかとは思うけど、面倒を見ることになったり……は、しないよなあ」
誰にともつかない文句めいた溜め息をつき、優子は目を閉じる。
しばし、静かな息だけが部屋を支配する――
だが、やはりというべきか、睡魔は相も変わらず首筋をちりちりと灼く正体不明の緊張感に阻まれ、優子の許へとやって来てはくれなかった。
寝返りをうったり、これからの予定のことを考えてもみるが、やるべきことについては既に結論は出ている。会う時のことをうきうきと楽しみにできるような相手でもなく、結局、頭に残るのは、振り払おうとしていた悩みの種でしかなかった。
何度目かの溜め息。
(こういう時、兄貴なら……どうするんだろう)
ふと浮かんだ考えに苦笑する。
意味のない問いだろう。そこにいない人間の行動基準が今の優子の役に立つ訳ではないし、何より双子の兄、響谷蘭丸がどうするかなど、分かり切っていたからだ。
曰く、困っている女の子は見捨てちゃ駄目だ、とかなんとか。
「……やっぱり捨ててこようかな」
なんとなく、唐突にこみ上げてきた理不尽な憤りに任せて起きあがる。
いわゆる女好きゆえの言葉でない――そもそも直接問いにそう返された訳ではない――のは理解していたが、衝動的にそう思ったのだから仕方ない。
と、その時、コン、コン、とドアがノックされた。
「!?」
何故かその瞬間、総毛立った。
理由は分からない。ドアの向こうにいる者に対して何かを感じたのか、それとも偶然か。閉め切った部屋には弱く暖房がかけられており、決して寒いことはないのだが。
後ろめたいやつあたりの衝動を兄が叱りに来たような錯覚に陥ってドキリとした――そんな自己分析をしてみるが、やはりというべきか、どうもしっくり来ない。
「っと。今度はまともな客なんだろうね。まあここに客が来ること自体、まともじゃあないんだけど……」
ぶつぶつと愚痴を言いながらベッドを降りた優子だが、無造作なようで、見る者が見れば尻尾を逆立てた猫のような慎重さに見えたろう。
己の過剰なまでの緊張に無自覚なまま、音もなく床に降り立った優子は視線を玄関ドアにぴたりと据えたまま、着替えを求めて摺り足で横へと滑るが、部屋の隅にかけたハンガーを取ろうとしてから、自分がドレスを着たままだったことに気付いた。
「あちゃあ、眠らなくて良かったよ。皺になるところだった。うん、兄貴には感謝しとこう」
そんな小声の軽口で己の不注意を笑いながら、玄関へと脚を向け直す。
或いは、優子は不注意そのものではなく、お気に入りのドレスを脱がずにベッドに身を預けたという事実にこそ、目を向けるべきだったかもしれない。
血塗れの女が倒れていたことは始まりに過ぎず、すぐに部屋を出ることになることを無意識に悟っていた、という可能性について、思いをめぐらせるべきだったのかもしれない。
それが自然なことか、可能なことであったかはともかく、少なくともそこまで考えが及んでいれば、彼女は、
「はいはい。今度は誰だい――ぐぅっ!?」
鍵を開け、ドアを押し開きかけたその瞬間に、ぬっ、と突き出された節くれ立った手に不意をつかれ、易々と喉を掴まれるような愚を犯すことはなかったろう。
「な――こいつ……ッ」
脚で引っかけるようにドアを蹴り開けて入ってきた黒い大男の体重によって優子は室内へと押し戻され、宙に浮いた状態で壁に押しつけられた。
「は……な……」
自然、掴まれた首で自重を支える形になった優子は文句を言うこともままならない。
口の代わりに、という訳ではないが、視線を動かすと、全身が黒いと思えた大男が着ているのは、まるでカッターか何かで無造作で切り刻んだかのような傷だらけになった神父服のようだった。男はとても僧の身にあるとは思えないような形相で指に力を篭め、優子の首を締め上げる。
(! こいつ……)
だが、そんなことすら些細なことと思えるほどの異常が、男の身体からは見受けられた。
それは怒りとも混乱ともつかぬ歪んだ表情でも、万力のようでありながらどこか軟体動物のような嫌悪感を催すぬめりと柔らかさを感じさせる手でもなく、黒い服に隠された胴。
それは関節でもないのに蠢いていた。突き出ていた。脈打っていた。
歪なまでの突起や窪みは服に何かを隠しているようにも見えたが、しかし、ならばそれはなんなのかと問われて答えることが、優子の知識で出来たかどうか。
異形。
目に晒された訳ではなかったが、間違いなく、男の胴体はそう呼ぶしかないような、まっとうな人ではない何かを感じさせるものがあった。
喉を掴まれたまま悲鳴を漏らすこともなくなった優子を無力化したと見るや、禿頭の神父はその血走った眼を見せつけるかのように、優子にその顔を近づけて、囁く。
「女は……どこだ」
「おん……な?」
誰のことを言っているのかはすぐに分かった。
(なんで……)
ここにいるのが分かったのか、という疑問もまた、数秒をかけずして判明することになる。
男の肩越しに見える、ホテルの廊下。
いかなる力でか、ドアは蹴り開けられた拍子に蝶番から外れてしまったらしく、そこには対面の部屋の扉と床が見えていた。乾いた血のこびり付いた床が。
「は……はは。そりゃそう……か」
思わず、笑いが漏れた。
全く、今日の自分は少し抜けすぎだ。
首筋をちりちりと走る静電気のような予感めいた妙な緊張感に従い、睡眠時間が上手くとれていないことが原因だろうか。まさか素の自分がこうだとは思いたくないのだが。
「女はどKKKだAHH!」
答えがないことにか、或いは別の理由にか、焦れた男が再び声を上げた。どこか泡だったような不快な発音が部屋に響き渡るのと同時に、優子もまた再び全身が総毛立つほどの悪寒に襲われた。
(ああ……そういうことか)
優子は、己の身体を奔った悪寒の正体を、その時ようやく理解した。
昨夜から何がそこまで優子の本能を刺激し、無意識に戦慄させていたのか、今この瞬間、ようやく知るに至ったのだった。
その理解とともに、優子は首から下の筋肉を弛緩させた。腕を引き剥がそうと伸ばしかけていた両手もまた、だらりと垂れ下がる。
訝しげに顔をしかめる男。
「? おい、女は――」
だが、理由を詮索する理性を失うほどに猛っているのか、優子の喉にかかる握力はさらに倍して強くなる。
――そして他のことが見えなくなる。
「ああ、女。女ね――」
喉に食い込んだ指など無いかのように、優子は声を返した。
そのことに驚く他者などいないが、自らの手で喉を掴んでいた男だけは感じたことだろう。鉄をも砕けそうなほどに力を篭められた異形の指を、その瞬間、喉の動きはさも当然のように易々と
だが、そんな異常事態に男が反応を返す余裕は与えられなかった。
優子が、先程からの男の問いに答えたからだ。
「――キミの横だよ」
ざん、と音がした。
バスルームへと続く洗面所の扉越しに輝く白刃は振り下ろされ、男は頭から真っ二つになった。
3
力の緩んだ不気味な神父の指を引き剥がすのと、芸術的なまでに鋭利な切断面を見せて洗面所のドアがズレるのは同時のことだった。
ぞくり、と背筋を奔る先程からの悪寒に従い、優子は一も二もなく膝を曲げてしゃがみ込む。
と、半分ズレた木製のドアを蹴り飛ばして女が現れる。腰には鞘に納まった一口の長大な日本刀。柄に添えられた右手は女が姿を現す一歩目には柔らかく、だが二歩を以て移動による慣性を相殺した時には、引き絞られた弓の如く固い。
再び、ざん、という耳慣れぬ音が空気を劈き、優子の耳朶を打つ。
刃が鞘走り、決して広いとは言えない廊下を横に一閃。ほんの刹那、優子の目に映った銀光は次の瞬間には再び鞘に納まっている。その全てを同時に波として受け取った鼓膜が、そんな常識ではあり得ない雑音を脳に伝えているのだった。
無言で立ったままだった神父は、今度は上半身がズレた。
縦に割られた神父の肉体、その弛緩した筋肉が重力に捕らわれるよりも早く振るわれた刀は、まるで豆腐を切るような気安さで目標物を素通りし、2つにした神父をさらに2つにしたのだった。
間一髪で頭上を通り過ぎていった刃の感触にぞっとしながら、優子は曲げた膝をバネにして横に飛んで転がり、さらに反対側の壁を蹴って部屋に飛び込む。
まるでその事態に物理現象が途惑っているかのように、ワンテンポ遅れて真っ黒な鮮血が撒き散らされたのは、その直後のことである。
(く……危ないな、とは思ったけど……っ!)
さらに転がって余裕を持って立ち上がり、優子は部屋のただ1つの入り口に女が悠然と姿を現すのを睨み付ける。
そう、優子が予感していたのは4つに分かたれて転がっているどこぞの妖魔の到来などではない。きっと、間違いなく、この女こそが出逢いを決定付けられた危機感の正体。
(そりゃあ、眠れる訳がない)
心中で悪態をつく……と、頭に違和感。油断無く手をやると、特に何もない――否。
「? ……ああっ、ボクのリボン!」
女の背後では、神父だった――そもそも神父に見えたかと言われれば、そんなことはなかったが――モノと黒い血溜まりの端に、綺麗に半分になった優子の黒いリボンが浸かり、見るも哀れな姿を晒してしまっていた。
女の刃は頭上すれすれを掠めていった。つまり、頭の上に露出している部分とは泣き別れになるのも、普通に考えれば摂理ではある……が。
(んなアホな。漫画じゃあるまいし……布のリボンだぞ? それをなんの抵抗もなく切断だって?)
「く、気に入ってたのに!」
驚愕と戦慄で跳ね上がろうとする心臓を、さもどうでも良さそうなことを気にしている風な悪態で落ち着かせようとしている――という訳ではない。これはこれで、優子の本音ではあった。
女に危機を感じていないのではなく、着替えの少ない優子がまともな格好で日本へ帰れるか否か、という問題が酷く重大事であるだけの話ではあるのだが。
対する女は柄に手をかけるでもなく、惚けたようなどこか焦点の合わぬ瞳のままでゆっくりと部屋へ踏み込んできた。
「上手く躱したな、門の眷属よ。この邪を断つ剣から一太刀でも逃れた化生は久しくいなかった。私が担ってからは初めてのことよ」
喜悦に歪んだ唇が揶揄じみた賞賛を紡ぐ。
やや甲高い、しかしはっきりと通る澄んだ声。だがそれを聴く優子はどうした訳か、その言葉の波を受け取るたびに肌が泡立つ。背筋がぞくぞくと震えるのを抑えられない。そして何より、表情を失った双眸や戦化粧の如く全身に塗りたくられた赤や黒の血と、そして今にも哄笑を浴びせかけてきそうな亀裂じみた唇のアンバランスさが吐き気を催すほどに気持ち悪い。
無気力と思えるほどに力なく垂れ下がっていた女の右手が動き、左手が握る刀へと無造作にかかる。悪寒。優子は壁に当たるなら当たれとばかりに全力を賭して横っ跳びに左へと逃げる。
三度、常識外の斬音。
なりふり構わず跳んだ優子は壁に肩をぶつけながらも、今回は死の刃から逃れてみせた。
が、甘い。居合いの抜きつけは一太刀のみにあらず。ベッドを跳び越す女の一歩とともに鞘走る上向きの刃が円を描いてカーテンを裂いたかと思えば、次の瞬間、女は左手を鞘から離し、柄の端へと添えてさらにもう一歩。返す刀は逆袈裟に振り上げられ、優子の首を肩ごと刎ねんと迫る。
優子は、咄嗟に己の身長ほどもある電気スタンドを掴んで振り回す。コンセントからプラグが無理矢理に抜ける感触に、ああ、壊したかな、などと感慨を抱いている間にもスタンド上部にあるプラスチック製の傘は刻まれて破片を飛ばす。
だがそのスタンドの大きさが幸いしたか、ほんの僅か、間合いを読み違えさせる程度の効果はあったらしい。優子の前面を掠めてゆく刃に安堵と戦慄の両方を感じながら、跳躍。
女は深追いを危険と感じたかはたまた余裕か、踏み出した前足をまるで時間を巻き戻すように正確に元の一歩目の位置へと戻し、いまだ落下途中にあった鞘を掴んで刀を納めた。
結果として、優子と刀の女はベッドを挟んで立ち位置を入れ替えたことになる。
はらり、とめくれるドレスの胸元。視線を下にやると、下着と一緒に晒された片方の乳房にも刃は入り込んでいたようだった。その時になって初めて身体が傷を認識したらしく、じわり、と赤い液体の粒が生まれてゆく。
浅い、といえば浅い。それこそ包丁の扱いを間違って指を切るよりも。だが、そんな僅かの傷、普段なら放置することはおろか意識するにも値しないような傷が、
(痛い……!)
敵前でありながら、優子は思わず肩を抱いて一度、ぶるりと震える。
まるで傷口に指で辛子を擦り込まれたかと思うほどの激痛だった。刃に毒を塗ってあったとしても傷口に入り込みようがないほど、僅か数ミリ皮膚を破られただけだというのに。
意識が寸断されそうなほどに、電流の如く得も言われぬ不快感が全身を駆け巡る。
「くそ……兄貴にだってまだ触らせてないってのにっ!」
今度こそ、優子は強がりの罵声を吐いた。
刀の女は優子に血を流させたことが嬉しいのかどうなのか、相も変わらず表情の無い瞳で笑う。
「あはっ、うふふ、あははははははっ! まだ生きるか眷属。まだ逃れるか異形の血族! 仕方あるまい、世界に認められぬ生など続けても。人の子は人。この世界の子はこの世界のみによって生まれるが理。門に犯されし哀しき物語の仔よ、貴女のことは後で私が泣いてあげる――だから今は爛々と輝く果ての闇へと消えなさい!」
「勝手なことを……!」
目が眩むような激痛と怒りに歯を軋らせながら、優子は女の手の中でカタカタと鞘を揺らす刀を見る。
ぴりぴりと肌を刺すような女の霊力も危険ではあったが、この苦痛の理由はやはり刀にあると見るべきだろう。
永く歴史を積み重ね、使い手の、犠牲者の、そしてそれを知る者の想念を蓄え、物体ではなく魂、対象の概念そのものを破壊する力を得るに至ったものを概念武装と呼ぶ。
優子を傷付けた刀もソレの類と考えられるが……
(一体、どこから得物を?)
まさかバスルームに落ちていた筈もなく。いかな歴史深き魂砕きの剣とて、この世のいつかの段階で生まれた実在の武器には違いない。使い手の意志で出たり消えたりする剣など、普通ではない。使う当人が神や悪魔の類ならともかく。
そしてさらに気になることといえば――
「こいつ、物言いが一定じゃない。何か混ざって……憑かれてるのか?」
表情を欠いたその双眸のわりに必要以上に饒舌なことからも、それはあながち外れた想像ではないと思えた。
優子を門の眷属と呼んだのは言い得て妙。確かに姉小路優子は門の神の眷属として生まれた人にして人ならぬ者だ。その生が世界に認められないのも事実。優子は正常ならぬ気を放つ地脈の歪み――《門》の近くから長く離れられない。
だが――その姉小路優子のことを、この女はどこで知った?
無論、知っていた可能性はある。未だ修行を始めたばかりの身ながら、そこらの妖魔など相手にならぬ力を持ち、黒の吸血姫などというどこぞの月の眷属の如き不名誉なあだ名まで受けて怖れられ慕われ、妖魔の中では知る人ぞ知る神童には違いない。
しかし、妖魔狩りの刃を振るう目の前の女は妖魔にあらず。否、それどころかむしろ正反対の立ち位置に属する存在である可能性が高い。
(刀の妖気にあてられてるのか、先祖返りか何かで狂ったか……)
義母によれば、人ならぬ敵性存在を殺したくて堪らなくなる衝動的な欲求を抱えている人間が、ごく稀に生まれてくることもあるという。人の味方をする幻想種の中にも、そういった精神構造を持つモノがいるのだとか。
或いはそういう衝動に呑まれた人間ならば、優子や先ほどの異形を抱えた神父を殺したくて堪らなくなるようなこともあるかもしれない。一緒くたに扱われるのは酷く不本意かつ屈辱的なことであるが。
「――――!」
今度は鼻先を掠った刃が前髪を数本切り落とした。仰け反りながら苦し紛れに握ったままの電気スタンドを振り回すが、当然のように当たらない。女は一息でベッドを飛び越えて後退、窓際に着地したようだった。転がる優子。
「ははははっ! 天敵を前に考え事か。余裕だな、眷属!」
否。思考に没頭して踏み込みのタイミングを見誤ったから――ではない。間違いなく、女は優子がほんの僅か、集中力を切って意識を揺らしたその瞬間に動いたのだ。
だが、彼女の一連の行動はやはり、理性ある人間の行動とは言い難かったろう。
殺すことが悪であるとか、退魔の衝動など普通は持たないとか、身の裡に神殺しの刃など抱えていないとか、そんなことではなく、戦闘者として、知性ある殺害者として、敵にかける言葉に使う脳はやはり、迅速に殺すことに向けるのがより効率的な使用法であったろう。
彼女は、弱は深きものから強は堕ちた土地神まで、常に一太刀であらゆる人外を斬ってきた。二の太刀三の太刀を使うのは、言わばとどめだ。決着など初太刀でついている。
だから、殺すべしと胸の奥で叫ぶ声に従うのはいつも一瞬で、本当の戦闘とはいかなるものか、正しく経験してはいなかった。
それが幸か不幸かは、別の話であるが。
這い蹲った優子の目の前に、ひらひらと落ちてくる細い髪の毛。
「く、んぬ……人が一体どいつらのために苦労してると思ってるんだか……」
そろそろというべきか、とうとうというべきか。会う人間会う人間悉く不在の無駄な旅と寝不足、そして突然の迷惑な訪問客の狼藉に、耐えに耐えた優子の堪忍袋の緒も切れようとしていた。
「どうした眷属――」
「黙れよ」
ふと、思うのだ。
自分は何故、こんな見知らぬ人間なんかに遠慮しているんだろう?
親人間派の義母の言いつけを守ることには無論やぶさかではないのだが、しかしここまでされて黙っているほど自分は丸い性格だったろうかと。ひょっとして最近の自分は少々、兄に感化されすぎではあるまいか。
いやいや、その兄とて、最初こそ怯えてはいたものの、優子自身を殺そうとした傭兵部隊を皆殺しにしたことについては怒っていなかったではないか。
この危機的状況を実力で打開することに、何を躊躇う必要があろうか?
「――なんだ、何も問題ないじゃないか」
どこか気の抜けたような優子の声と同時に、手がみしり、と音を立てる。
より正確には、優子の手ではなく、彼女の握りしめていた即席の防具であるステンレス芯の電気スタンドがみしみしと音を立てて――そして握り潰された。中央から2つに折れて転がる電気スタンド。
その光景にか、はたまた初めて言い返されたことに驚いたか。思わず押し黙る女を前に、ゆらり、と優子は立ち上がる。
「さっきから眷属、眷属って、言いたい放題やりたい放題じゃないか。どこの退魔師か知らないけどさ」
憤りのままに握りしめられていた拳を開く。と、その爪がするすると伸びてそれぞれおよそ10センチ弱。まるで10本の短いナイフのように、カーテンが切り裂かれて露出した窓から射し込まれた弱い陽光を反射してなお黒く輝く。
「そんなにも大好きな神の眷属が見たいってんなら――」
そして紛れもない殺意を湛えたブラウンの瞳は絵の具が抜け落ちるように、或いは染まるようにその色彩を変え、
「――見せてやろうじゃないか」
黄金色に輝く魔眼へと変容した。
彼女はただの妖魔ではない。
人類が千年前に編み出した「人の支配下に置かれる現人神」を創造する儀式で生み出された、神霊やまして旧神などという御伽噺の登場人物ではない、正真正銘の神の子である。
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幾度目かの斬撃を仕掛けるべく筋肉のバネを引き絞っていた彼女は、その人ならぬ姿を直視した瞬間、どくん、と心臓が一際強く跳ねる音を聞いた。
「は……っく、ああ――」
息が詰まり、上手く調息ができない。胃がありもしない内容物を口から排出しようと激しく蠕動を繰り返し、身体は重く、熱病にかかったように背筋をぞくぞくと悪寒が奔る。
それこそが、姉小路優子が丸一日ほど悩まされ、そして今も感じている不快感と同じものである。
名も知らず、そのありようも漠然としか感じてはいなかったが、彼女らの血と本能は知っているのだった。互いがその永遠の仇敵に最も近いところにいることを。
互いが互いの天敵であるという矛盾を理解した肉体はそれを否定するために、その関係を一方的なものにするために心臓を突き動かし、より多く、より強くと血液に神力を乗せて全身へと送り込む。
だが、それは非常に危険なことでもある。
たとえ彼女に力を与えた存在が太古の遥か昔に海魔を海底の都へと叩き落とし、人類に豊穣を約束してきた偉大な神であったとしても、その力を受け取った彼女は人間だからだ。常人とは比べものにならぬ身体能力を持ち得てはいても、彼女は今日は走り過ぎ、そして斬り過ぎた。
生まれて初めて、彼女は自身の過剰な力にによって物理的に押し潰されかけるという事態を経験していた。
「ああ――わ、た……し……なんで……」
ぐらぐらと揺れる頭によってまるで潮が引くように遠くなってゆく狩人の心を必死に繋ぎ止め、彼女の右手は柄を握りしめる。
一太刀。
彼女は、潰れた肉刺や乳酸ではち切れそうな両手足がじわじわと伝えてくる痛みを堪え、目の前の邪神の眷属を次の一太刀で決めることを決めた。
相手が何者で、己が何者で、そもそも何故斬らねばならぬ相手なのかなどもう考えない。とにかく、限界に近付いている自身の肉体を破裂させずに勝利するなら、もう時間はかけられない。
そうでなければ――きっと、おかしくなってしまう。人の身に余る力に溢れかえる身体が。そしてこの邪を討てとがなり立てる声で、頭が。
平静をぎりぎりで保つ女だったが、しかし優子には相手の状態が目に見えて理解できていた。
秒増しに密度を増す殺気に、空気は切れそうなほどに張りつめている。だがその源である筈の女は、先ほどまでの圧倒的な威圧感すら漂わせていた雰囲気が薄れ始めているように思えたのだ。
瞳に表情が戻り始め、息は荒く、肩も震えている中、それでも刀を握り殺意を向ける姿は鬼気迫るものがあったが、言ってしまえばそれは常人の範疇での話だ。超越的な――まさしく神の如き――気迫は、既にない。
ある一定の限度を超えて高揚した人間は痛みも疲労も忘れる。だが当然といえば当然のことながら、一時的なものだ。ちょっとしたきっかけで意識が揺れてしまい、自身の状態を認識してしまったら、それまでの疲労を一度に身に受けることになる。よほどの精神鍛錬を重ねていない限り、一度思い出した痛みを再び忘れてそれまでのハイテンションな自分を取り戻すことは不可能に近い。
そういう意味では、その場で崩れ落ちてしまわなかった女の精神力は大したものだと言えたかもしれない。単にその力の源――おそらくは忌々しいあの日本刀――による呪縛が強力なだけなのかもしれなかったが。
優子は一息で決着を付けるべく、四肢に力を入れた。そして女の僅かな動きをも見逃さぬよう凝視し続ける。
彼女に剣道や剣術、それも居合いの知識などあるはずもない。だから、左手に握られた鞘を一度抜かれた刀が、どのような軌道を描いてどこへと向かってくるのか、さっぱり予測がつかない。優子が文字通り人を外れた動体視力と反射神経を持っていたとて、それを言うなら敵の技量こそ人を超えている。
太刀筋は縦か、横か、袈裟か。狙われるのは首か、胴か、それともまずは腕や脚を落とすのか……
(分かるかそんなの――)
考えるだけ無駄な思考を全て振り切って、優子は敵よりも先に踏み出した。
もとより大して広い部屋ではない。端から端まで走ったところで彼女ら人外の脚では2歩にも満たない。
唯一の障害物であるベッドの横を擦り抜ける最初の一歩を優子の左足が踏み出した時には、刀の女もまた戦闘態勢に移っている。心持ち身を屈め、腰にあてられた左手の鞘をぎりぎりまで引いて刀身を背に隠す。
人ならぬモノを容赦なく断ち斬る神刀が音もなく、否、鍔切り音すら追い抜いて鞘走る。
その刃がどこから来るのか――そのことを、優子は予測するのをやめにした。
敵へと肉薄する運命の第2歩目 優子は左足の裏でフローリングの悲鳴を聞きながら、全力で引っ張った右脚を大きく前へと振り上げた。だがそれは自棄でも当てずっぽうでもなく――
「――ッ!」
敵が驚愕に息を呑むのが分かる。
結果として、優子へ斬撃は届かなかった。無論、勘が当たった訳でも偶然外れた訳でもない。賭けには違いなかったが、優子は勝算を以てその二足を踏み込んでいた。
そも、優子は刃を躱していない。そんなことをする必要がない。
「――はっ!」
優子は抜かれるその直前の
衝撃。
それで終わり。女の無防備な側頭部へと吸い込まれるように突き刺さった爪先は、間違いなく決着の感触に足ると思える激痛を伝えてきた。
このまま優子は無防備に倒れ込み、床でしたたかに背を打つことになるだろうが、あの不快極まりない刃に比べれば羽毛の如き優しさでその身を受け止めてくれるに違いなかった。
――そのはずだった。
「――――あ」
ぶない、と思った時にはもう、そも得意ではない神力の防護など易々と突き破り、敵の蹴りは彼女の頭へと命中していた。
離れていきつつあった戦うための自分は完全に刈り取られた。
漲っていた力も高揚感も、まるでその脚で蹴り飛ばされたように一瞬で萎え、神の使徒として刃を振るう彼女が消える代わりに浮かび上がった正常な彼女の意識にも早速、暗闇が訪れようとしていた。
結局のところ、心身に負荷をかけすぎたのだ。
予知夢めいた悪夢を見て以来、ずっと心の底に巣くっていた不安と焦燥に重ね、神力を削る結界の中を数分にも渡り全力で駆け抜け、破裂しかかっていた筋肉と潰れた肉刺を力で抑え、そして――
(……待って)
身体中、否、精神や魂魄さえもが悲鳴の絶叫を上げる中、眠りにつこうとするもう1人の自分、《邪気祓う剣》を彼女は自らの意志で呼び戻した。
「――ら」
まだ、倒れられない。
死ぬ訳にもいかない。
邪悪な何かの奸計にかかり、自分は酷い罪を犯した。何も分からないが、きっと自分は彼を傷付けてはいけなかったのだと、胸の奥、邪を討てと叫ぶ何かがいるのと同じ場所から伝わってくる。
それでも――止まる訳にはいかない。
どうすればアレに対抗できるのかなど想像もつかないが、ならば自分にできることを全力でやるしかないではないか!
「――んだから」
彼女は、頭の前面を襲った衝撃に押されるように、或いは利用するようにしてその場で一回転。その勢いに抵抗して踏ん張る体力も、自分の向きを正しく認識する視力も失われながら、
「邪神なんか一柱残らず狩り尽くして、私は辰人を守るんだから――!」
《邪気祓う剣》。
それは3人の子供へ瓜葉山の神、卯里子姫が授けた3つの力の1つである。
かつてその邪気で世界を覆わんとしていた水の旧支配者を海底の都へと叩き落としたその神の、邪神を討つ意志そのものである。
対する優子は、《門》を開き、その向こう側まの混沌から力を引き出して母胎に宿すことで生まれた御子神。彼女にとってはその剣の存在自体が毒であり、その効果は劇的である。
体勢を崩したまま直撃した優子が受けた衝撃は抱えた爆弾が爆発したようなものであり、彼女は為す術もなく窓を突き破って吹き飛ばされた。
――そして、姉小路優子が宿泊していたこの部屋にベランダは存在しない。
優子は、重傷を受けたことより自分が外に放り出されたことより、最後に女が叫んだ言葉に心底驚愕していた。
その喉から迸った絶叫は、明らかにそれまでの女のものとは違っていた。
口調やその言わんとする意味もそう、狩りの歓喜すら滲ませ余裕に満ちた彼女の物言いには、目の前の存在がなんであるかを誰よりも理解しているとでも言いたげな見下した傲慢さがあった。事実、優子の性質を言い当ててはいたから、ただのハッタリという訳でもないのだろう。
だが今の言葉はどうか。
まるで相手が誰かも分かっていない、朦朧とした意識を繋ぎ止めるために出た半ば無意味な悲鳴のような。しかもその声音は、それまでのような見下ろした認識ではなく、押し潰されそうなほどの恐怖に抵抗しているような必死さだった。
だがそんなことより何より、優子の中での神という存在への畏怖、絶対性と、女の叫んだ「男のために」「神を狩る」という宣言に酷いギャップを感じ、それを言ってのけたことに頭を殴られたような衝撃を受けてしまったのだった。
「――あ、はは……」
だが、そんなことに思いを馳せることができたことのも刹那のこと。
アーカム名物とすら言われる高層ビルの群れが縦に流れていくのを視界に収めながら、優子の意識は暗転した。
5
「あら、お目覚め?」
瞼を震わせたのが分かったのだろうか。美空の意識が暗闇の底から浮上してきた時、上から降ってきたのは女性の柔らかい声だった。
その声をきっかけにして、まず耳に感覚が戻る。さあさあという何かを擦るような音が聞こえて、それが覚醒を速めてゆく。
(そっか……雨、降ってるんだ……)
そんな淡い理解とともに、次に身体の感覚がじわじわと広がってゆく。身を包む布団の柔らかさから、突っ張ったような手足の痛みまでが呼び起こされ、美空は軽く顔を顰めた。
「辛いなら寝てても良いわよ?」
何か言われているらしいということは分かっていたが、理解するほどの余力もなく、ぼうっとした頭のまま、よろよろと身を起こすと、傍にいたらしい誰かに背中を支えられた。
そのことにも上手く反応できず、見回してみると、部屋はなんとも酷いありさまだった。
窓際には切り刻まれてボロボロのカーテンとガラス片が散乱し、フローリングの床は傷だらけで僅かだがへこんでいる部分も見受けられる。入り口側ではあろうことか洗面所かトイレへと続くのだろう脇の扉が真っ二つになって転がっていた。その他、壁や机など、傷の入っていないものはないとすら言えたかもしれない。
言うまでもなく、この惨状は、
(私……だ)
目が覚めてみれば全て夢だった……などという都合の良い展開などありえようはずもなく、さらにはその部屋で目覚めた美空には忘れたふりをして自分を誤魔化すことも許されない。
尤も、すぐ隣に自分を介抱してくれたらしい女性が付き添っている以上、どのみちなかったことにするような真似はできる訳がないのだが。
美空は溜息をつき、背中を支えてくれている女性へと向き直った。
「落ち着いた? あなた自分が誰だか分かる? ふー・あむ・あい?」
「い、いえ、あなたのことは知りませんけど」
言語を変えて話しかけているようでいて、その実、意味が全く違う物言いに途惑いながら、無意識に苦笑めいた愛想笑いを返す。
対する女性は、んー、固いなあ、などと呟いていたが、まあこんなもんか、と自己完結して、美空に向かってにっこりと微笑みかけた。
「あ……」
そこでようやく美空も、部屋を見て半ば鬱になっている自分を励ましてくれたのだと気付いた。
「あ、あの、すいません。介抱してくださったんですよね? えっと……」
「ん、あたし? あたしの名前はディック。そういうあなたは姉小路優子さんでOK?」
「え?」
聞いたことのない名前だった。
姉小路優子。アネコウジ・ユウコ。何度か口の中で繰り返してみるが、やはり覚えはない。少なくとも外国人が自分の名前を上手く発音できずに言い間違えたようなものではない。
「あれ、違う? いちおここ、姉小路さんの部屋ってことになってるんだけど。ひょっとして連れとか」
「いえ……あ」
そこで、はたと気付く。
この部屋。そもここがどこなのかすらよく分かっていない美空だったが、しかし自分が意識を取り戻した時、この部屋にいた人物が2人ほどいる。
優子、というのは女の名前だから……
(そっか。あの人の……)
「あ!」
と、そこまで考えて重要なことに気付く。自分は一体、その部屋の主に何をした?
がばっ、と音を立てて美空は布団をはねのけた。そして隣のディックに押し倒さんばかりの勢いで掴みかかる。
「え、ちょ、ちょっと。お姉さんはできれば男の子相手の方が良いなーなんて……」
「あの、すみません、近くに、この部屋か……建物の近くに、女の子、倒れてませんでしたか!?」
慌てて――そして何故か妙に楽しそうな様子で――宥めにかかったディックだったが、美空の真剣な顔を見ると、残念そうな様子もなく、すぐにその緩めた口元を引き締めた。
思案顔で記憶を探っている様子のディック。だが思い当たることがないのか、しばしして首を振った。
「んー……知らないかなあ。それっていつのこと?」
「えっと……多分、朝方か、昼前だと思うんですけど」
問われて答えながら、砕けた窓を見る。分厚い雨雲のために薄暗い。既に夜という訳ではないようだったが、この分では日没も近い。
同じように外を眺めながら、ディックははっきりと答える。
「うん、やっぱり知らない。上がホテルに根まわ……コホン、あたしがこっちに来た時には、あなたの他には誰もいなかったわよ?」
「そう……ですか」
美空には、そう小さく答えることしかできない。
姉小路優子に対して、どういう感情を抱けば良いのか分からないのだ。
力を授かった者の嗅覚とでもいおうか。彼女からは邪神の眷属の臭いがしたのは確かだ。人に化けた邪悪な異形の例も珍しくはない。だがそれでも……今冷静になってみると、本当に本能と勢いのままに戦ってしまうのが正しいことだったのか、自信がなくなる。
彼女が《邪気祓う剣》の神力によって消し飛ばされて塵も残らなかったのか、それとも生きているのか――自分は、どちらを望めばいいのか。
(あの人は、邪神に狙われてるんだもの。そんなの、決まってる……)
どちらに決まっているのか、そも眷属の1人が何故そこまで気にかかるのか。答えを出せぬまま、美空はベッドから足を降ろしてふらふらと立ち上がる。
「ちょ、どしたの? 大丈夫?」
「すいません。シャワー……浴びてきます。凄く、汚れちゃってるし」
「あ、うん、そうね――えっと、バスルームは」
「分かります」
よろよろとおぼつかない足取りで廊下を歩き、バスルームへと向かう。
その途中、何か薄く柔らかいものを踏みつけた。足をどけて拾ってみると、それは黒い布の切れ端だった。
(リボン……)
何かが胸を締め付ける。
その正体を極力考えないようにして、リボンの切れ端はスカートのポケットに差し込んだ。
そのまま何もない廊下を歩き、割れて半分になった扉を開いて、美空は脱衣所へと入った。
降ってくる湯を頭から被りながら、ボディソープをたっぷりと含ませたスポンジで全身を擦り続ける。
「あは、なかなか落ちないや……」
ディックにシャワーを浴びると告げてから、既に1時間近くが経っている。その間、ずっと美空は身体を洗い続けていた。
そろそろ自殺でも疑われる頃かな、とも脳裏を掠めるが、どうしても出る気が起きない。
洗っても洗っても、どこかにあの赤い血がこびり付いているような気がするのだ。最も厄介だった髪の毛の汚れは念入りに落としたから、後は錯覚だろうとは思うのだが、いつまでも鼻の奥に嫌な臭いが残っていた。
これまで、幾度となく眷属を屠ってきた。亡霊を消滅させてきた。返り血を頭から浴びたことも、ないことではない。邪を討つことが、神に与えられた己の使命である。
では何故、今回に限ってこんなにも自分が酷く汚れた物に見えてしまうのか。
――そんなことは、とうに分かりきっていた。
「うっ……」
「彼」は、一体何者だったのだろうか。
識らない。分からない。分かろう筈もない。
何度、愛する人を守るためだったと自分に言い聞かせても、自分をも騙せない嘘など自分を惨めにするだけのものでしかない。
神殺しの刃に貫かれ、彼は最期に何を言った?
掠れた声は聞き取れなかったし、聞こえたところで何の確信にも至るまいが――あれはひょっとして、愛する者の名だったのではないだろうか?
「うっ……うっ……」
つまりは、簡単なこと。
八雲辰人が美空が予感したことに気付かないのも、結局、黒い刃は止められ、彼女が何をせずとも死ぬことがなかったのも、至極当然で。
「うわぁぁぁ……」
要するにあの時、敵の狙いが彼女の愛する人ではなく、自分を暴走させることこそがそうであったのだと、美空はとうとう気付いてしまっていたのだから。
「辰人ぉ……たつとぉ……」
シャワーと涙が混じり合いながら顔をつたう。
美空の嗚咽は、結局、シャワーを浴びながら倒れ、ディックによって助けられるまで続いていた。