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2005/02/13

Recurring Nightmare 第19話「Puppet Strings」

   1


 アーカムシティには、全てがあると言われる。
 あらゆる種の人間、言語、通貨、技術、或いは心さえも揃っていると。
 まるで魔法のように発展を遂げた世界経済の中枢は、住民に生活水準の向上と社会保護という形で恩恵を与え、そして同時に集中する富が敵を作り、或いは人種の坩堝の宿命というべきなのか、大小軽重含めて犯罪も絶えない。テロリスト、犯罪組織――そしてオカルト。
 街の灯は夜を通して消えることなく、それでいて太陽の下においてなお闇は蟠る。老若男女、善悪問わず全てを受け入れるこの街を、ある者は黄金郷に喩え、またある者は暗黒街と呼んだ。
 もっと端的に、混沌の街、と呼ぶ者もいる。
 洒落たネーミングではあるかもしれない。が、その混沌を抱えてなお世界への多大な影響力を保ち、都市として機能させる奇妙な秩序もまた、この街の特色である。
 あまつさえ、そんな奇妙な大黄金郷の頂点に立つ存在が二十歳前の少女だという事実に至っては、混沌というよりももはや荒唐無稽と表現する方が正しいのかもしれなかった。
 そんな魔境だけが持つ空気ゆえ、だろうか。
 夜景を見下ろす彼の胸の裡で、いつまでも見ていたいという羨望じみた興奮と、すぐにでも消してしまいたいという、曰く言い難い感情が同時に起こるのは。
 ……と、背後で空気がゆらめいた。
「佳い街だろう? 僕はこの街が大好きでね」
 アーカムの住民からは故意か偶然か、時計塔と呼び慣わされるミスカトニック大学図書館、立ち並ぶ高層ビルからも頭1つ抜けたその建物のさらに上という、普通に生活している人間ならばまず登ろうとは考えない――そして登る方法もない――場所で、しとしとと降り続ける雨を些かも厭うことなく街を眺め続けるターバンの男が奇妙なら、直前まで誰もいなかったそこで男に声をかける女は、奇妙を通り越して不可思議の領域に入り込んでいた。
 だが男は驚かない。驚く理由もない。
 ゆっくりと歩いて隣に並び、腕を組んで街を眺め始める女をちら、と一瞥しただけで、ただ黙して人間達の文明の光を眼で追い続ける。
 女――ナイアもまた、そのことに不満を覚えた様子もなく、愛おしげな口調で言葉を重ねる。
「この街はね、雛形なんだよ」
「蠱毒の壷の、といったところか」
「その通り。ぴったりだと思わないか? まさしくここは奇跡の街だ」
 まるでとっておきの話を披露するときのようにナイアは目を輝かせ、うっとりと街を見遣った。
 陽が沈むとも決して流れを止めることなき彼女の愛しのは、あいにくの天気にも構わず、夜空から星々の輝きをまるごと奪い去ったかのように輝く。輝き続ける。善も悪も、動も静も、男も女もその輝きと影で育み続けている。
「人の要素の全てが集うこの街で、王になれる存在を幾星霜にも渡って捜し続けたんだ。常に定まることなき白と黒の綾模様を描くこの街に育まれて、なお純白の光を発する英雄だからこそ白き刃に、なお漆黒に染まる魔人こそが黒き鍵に相応しいのさ。外界で偶然染まり損なった白や偏った黒では、アレに触れるまでにはさらに永い悠久を要したことだろうね」
 まるで昨日のことのようだとばかりに、胸に手を当てて瞳を閉じる。己がはらの裡で繰り広げられた永劫の戦いを懐かしんでいるのか。
 ターバンの男はそれが気に食わないのか、ふん、とひとつ鼻を鳴らしてナイアの恍惚に水を差す。
「息子自慢は結構だがね。その君の自慢の愛し子達によって我々わたしが割りを食っていることを忘れてもらっては困る」
 だがナイアの方は案の定というべきか、男の嫌味に堪えた風もなく笑みを浮かべるのみ。
「忘れてなんかいないさ。失態は失態。僕は連中の旗印を生み出し、君もまた神の御使い達を堕落させ損ねた。いわば僕達は連中にしてやられた同志だ。僕ら兄妹、力を合わせてしようじゃないか?」
「道化の銘を返上し、諸悪の根元という奸名を取り戻す、か。そう願いたいな、末姫殿」
 皮肉げに唇を歪めるターバンの男。
 だがその言いように異議がある訳ではなかった。このまま諦めて別の世界での計略の完成を待つことなく、今のこの星を、そして三千大千世界を再び真なる宇宙へとすることができるなら、彼にしろそれに越したことはないのだ。
 が、猜疑的にもなる。どれほど綿密に計画を練ったところで、ここが「一度神々が敗れた世界」であることには違いないのだ。
 紡がれた物語は力を持ち、法則ルールとなる。その物語がより壮大で誰もが信じるに足り、決定的であればあるほどその法則は強固なものとなり、世界アラヤはそれを実現しようとする。より正確には、その「真実」に矛盾する出来事を排除する。
 伝説上の英雄に幻想を纏わせて実体として生み出したり、世界の敵性存在を誅する者に力を与え、または外れた法則を自ら潰しにかかるのだ。
 つまりこの世界、展開されて10万年以上にも及ぶ《阿頼耶識》という名の人類種の固有結界において、「神々が偽神をくだす」という神話を新たに紡ぐのはなまなかなことでは為し得ないということであった。
 その牙城を突き崩すための布石が、仇敵の分断であり、その同類による殺害であるのだが……
「だがここまでして、さらには戦場にこのあらゆる物語が発生しうる街を選んでなお、門の眷属は偽神の使徒を破ることは叶わなかった」
「うん、もう少しだったんだけどね。まあ五分だったんだから、この結果も十分あり得るものではあった。仕方ないさ」
 男の苦々しげな言葉とは対照的に、ナイアはさほど惜しいとも思っていない様子で薄く笑う。
「腐っても我等が永遠の仇敵に選ばれた使徒だ。そろそろ、僕が彼女の心に蒔いた種は灼かれている頃だろうね。三度けしかけるのはさすがに無理だ」
「中途半端に自由意志など偽装するからそうなる」
 尤も、私もあまり人のことは言えんがね……と自嘲を付け加えながら、ターバンの男はパチンと指を鳴らす。
 すると、彼らのいる図書館の屋根が裏側から押された粘土のように盛り上がる。かと思えば、隆起した部分はゆっくりと大きさを増しながら明らかに建物とは異なる色を見せ始め、高さが2メートルに近くなる頃には服を纏った人型の存在として完全に独立していた。
 その場に出現したのは黒い何かを抱えた、同じく黒いボロボロの神父服に身を包んだ男であった。荷物を抱えたまま跪き、ターバンの男に向かって恭しく頭を垂れる。
「お呼びに応え参上いたしました。スート様」
 鷹揚に頷くスートと呼ばれた男の隣で、ひゅう、とナイアは口笛を鳴らした。
「へえ、成る程、考えたもんだねえ、。確かに彼女を相手にするなら眷属を何百匹用意するよりこういうやり方の方が何倍も有効だ。……と、こういうのも自画自賛になるのかな」
「ならんだろう。少なくとも私は君と同じに思われるのは不快だ」
 それは失礼、というにやけた謝罪に嘆息しながら、スートは神父に歩み寄り、抱きかかえた荷物に手を伸ばす。
 う、と、その黒い塊は小さく呻いた。
 神父の荷物は単なる物体ではない。黒く見えているのはその人物が身につけたドレスの色であり、れっきとした人なのだった。
 ぐったりと脱力したまま神父の腕で眠る少女の髪をかき分け、頬を撫でる。だがそんな愛撫のように柔らかく慎重な手つきとは裏腹に、見下ろすスートの瞳は欠片も表情の変化を見せることがない。
「酷く衰弱しているな」
「むしろ、衰弱で済んでいることを褒めるべきだと思うけどね」
 後ろから飛んでくる茶々を無視して、スートは少女に触れ続ける。顔の次は肩を過ぎ、脇腹、腰、膝……
 それは検査、点検というほど無骨なものではなかったが、触診と呼べるほど暖かみのあるものでないのも確かだった。言うなれば、模型、人形を手にして材質を手触りから感じ取ろうとする職人の手つきというのが的確だったろうか。
 ひとしきり調べて満足したのか、スートは1つ頷くと、神父に少女を抱えさせたまま、ナイアへと振り返った。
「よかろう、我が姉にして妹よ。些か予定外だが、私はこの街で彼女の悪夢の続きを紡ぐとしよう」
 腕を組んで見守っていたナイアは、その言葉に満足したようだった。笑みを形作る唇は、彼女を象徴するように亀裂を描く。
「有り難う。これで僕も安心してあっちを見ていられるよ。とにかく気をつけてくれ給えよ、彼女の剣は条件さえ揃えば僕らだって容易く否定できるのだから」
 聞き飽きた再三の忠告を遮るように、スートは面倒臭げに頷く。
「分かっている。元より君に心配して貰うことではない」
「ふふっ、そうだったね。ではお願いするとしようか、コスモ・マトリックス情報宣伝相殿、いや、人形師アリ・スート。――クオ・クオ・ウェルサム」
 からかうように聖句を残し、ナイアは屋上の端を蹴って夜空へと身を任せる。
 落下は――しない。黒い女は、街の灯が描く星々の海に沈むように、まるで溶け込むような自然さで、空中で闇に紛れ、消えた。


「クオ・クオ・ウェルサム」
 ナイアが消えゆくのに合わせてスートも小さく呟いて応え、黙して控える神父へと向き直る。
 千切れた布を無理矢理に継ぎ合わせたような服の下でもぞもぞと絶えず蠢く何か以外には僅かな揺れさえも見せず、神父は主の言葉を待つ飼い犬のように、或いは人形のように瞑目してただそこにいた。
 その彫像のような神父の顔に向けてスートが、ふっ、と吐息を吹き込む。と、その時になって初めて意識を持ったかのように、眼をかっと見開き、主の真似をするように深く息をついた。
 スートはそのさまに頷いて少し考えたのち、口早に指示を下す。
「その娘はドクターらのところへ。繰り返すが、総帥から賜っている命はこうだ、「顕現物は何としても回収せよ」。娘を添えて伝えるように。彼らなら使い道にもすぐに気付くだろう。必要なら悪魔を出しても構わんと言え」
 は、と短く了解の意を表して、神父は図書館へと沈んでゆく。
 それが終わらぬうちにスートは目を離し、表情を引き締める。
「さて、坊門よ……一度は私を出し抜いたつもりかもしれぬが、偽りの神々になど与したことがどれほどの愚挙であったか、これからゆっくりと思い知らせてくれる」
 さきほど去ったナイアに劣らぬ禍々しい笑みに憎悪を乗せ、スートもまたその場から姿を消す。
 あり得ざる者の痕跡を洗い流さんとするかのように、雨は僅かに勢いを増した。


   2


 そうして気を失ったままの優子は、夢を見ている。
 古い情景の夢だ。
 追いつめられた者が過去を回顧する夢は、例外なくよくない夢であろう。
 不幸な内容ならそれだけで、幸福な内容なら覚める瞬間に、結局のところ悪夢はやって来る。
 優子の精神は決して惰弱、脆弱というほど壊れやすいものではなかったが、それでもこの一ヶ月、どうにも上手くいかない旅に磨り減ってきたところに、邪神の系譜を存在の根底から斬る刃をその身に受けたダメージもまた、小さなものではなかった。
 そうして優子は、不幸と幸福を同時に象徴する、その中間の夢を見る。


「どういうことさ!」
 部屋に響いた怒声は空気を破裂させ、或いは彼女の住む館そのものを揺らしかねないほどに大きなものだった。
 発したのは黒いドレスの小さな少女。受けるのは女。
 少女は地団駄を踏まんばかりの様子で涙を堪え、女をきっ、と睨み上げ、対する女は腕を組み、少女を見下ろす落ち着いた表情の中に困ったような渋みを微かに見せていた。
 もし、その2人の他に誰かがその場にいたなら、2人の関係を親子と評したろう。髪の色も顔も似てはいなかったが、確かにその光景は子供の癇癪に困惑する母親そのものと言ってよかった。
 事実、彼女らは血の繋がりこそないものの、似たような関係には違いない。日向亜紀――便宜上――にとって姉小路優子は数少ない「同類」であり、優子にとってもまた亜紀は恩人であり師であり、そして憧れだった。
 その優子が義母と慕う彼女に食ってかかるのは、珍しいことではある。
「あいつに手を出すなってのは。あいつは……」
「まあ待て。そう約束してしまったのだから、しょうがないだろう」
 対する亜紀は飄々としたもので、優子の抗議に取り合うつもりがあるのかないのか、軽い調子で宥めに入る。
 だが、亜紀のどこか厭世的な雰囲気を滲ませた物言いに慣れた優子にしても、今回ばかりは看過できない。
 それも当然のこと。それほどまでに優子が裡に抱く憎しみと怒りは深く黒く、たとえ義母の言葉であれ、その火を弱めることなどできない――ということもあるが、もっとそれ以前の問題として、あの男、上杉秀一にそんな話を持ちかけたのが亜紀自身に決まっているからだ。
 どんな取引をしたのか知らないが、安全という対価で何らかの仕事を押しつけたに違いない。逆のパターン――例えば、上杉が亜紀を脅迫して安全を買った、とかいった――は、現実味に欠けるどころの話ではない。
 日向亜紀は優子と同じ、否、それ以上の「人ならぬもの」であり、秀一や、その傍に控えた憎たらしい女とて十二分以上に人を外れた存在には違いないが、所詮は魔術師と使い魔でしかないのだから。
 術者と人外、その関係で必ずしも後者に軍配が上がる訳ではないのだが、日向亜紀と名乗っている優子の義母に限っては、そんな通り一遍の理屈など全く意味をなさない。
 秀一の安全を保証すべし、という条件をどちらが言い出したにせよ、交渉そのものは亜紀が圧倒的に優位に立って進めたのは分かり切っているのだ。それで「仕方ないだろう」はないだろうと言いたい。
「いくらお義母様の言葉でも、こればかりは聞けないね。地の果てまでも追いかけて、ボクはあいつを殺すよ」
 反論は無意味だとばかりに、語調も荒く宣言する。
 黙っていればそのまま流されてしまいそうなほどの威圧感を放つ亜紀の前で正面切って逆らうのは、養女の身でなくとも多大な精神力を要する行為ではあった。だが、そんな娘の必死の叫びにも、亜紀の答えはにべもない。
「駄目だ」
「――――!」
 反射的に上げた怒声は、しかし声にすらならなかった。怒りと、あまりの悔しさに、視界が滲み始める。
 何故、義母はあんな外道を放置するというのか。奴がどれほど力ある魔術師であろうと、そんなものを使わなければならないのか? 力が必要なら――
「何か仕事があるなら、ボ……」
「なあ、優子」
 優子が何を言わんとしているかは、亜紀には分かりすぎるほどに分かっていたのだろう。声を遮るのも、これ以上ないほどに絶妙なタイミングだった。
 とにかく状況への文句の糸口は1つも許すことなく、亜紀はその静かな紅い瞳で、己の胸ほどの身長しかない娘を見据えて、言葉を続ける。
「御子神、というものを知っているか」
「え……?」
 突然の言葉に面喰らい、優子も怒鳴る機先を制された形でぽかん、と口を開けて黙るしかない。
 知っているかも何も、それは義母自身が語って聞かせたことだ。その邪教の儀式、姉小路優子の生い立ちを。

 簡単に言えばその儀式は、神降ろしである。ただし、降ろす神が特殊ではあるが。
 本来、神官や修験者がその身に宿す霊力とは、神霊、すなわちこの地球人類が永い歴史の中で信仰の対象としてきた幻想のことであり、そういう意味で、神とは一部の例外を除き、人類を起源とする霊的存在のことだといえる。
 だがここでいう《御子神》なる存在を生み出す儀式に喚ばれるのは、そういった神霊ではない。
 いや、或いは神霊であるのかもしれない。その存在のありようだけを取るなら。ただ1つ、人類による信仰と存在の順番がだという点を除いて。
 何処とも知れぬ異界へと繋がる《門》を開き、優秀な魔術的素養を持ったつがいの男女を用意して、延々と交配させる。
 そうして宿る子供には、《門》を通してその世界の人類種以外の「何か」を起源とする神の力が流れ込み、結果として十月十日後に産声を上げる嬰児はただの人ではなくなる。
 御子神の誕生である。
 この文字通りの「神の子」が神の直接召喚と違うのは、作り出した者、すなわち2人の親術者とは別に儀式を進行した術者の支配下に置かれることにある。
 つまり、本物の神霊が現界に肉を持って存在できない以上、そこらの精霊妖魔悪魔など相手にもならないほどの力を持った御子神を支配しているその術者は、その一帯において事実上の無敵ということになるわけだ。
 古くは千年前、日本のとある神官がその権力か、欲か、はたまた魔術的深淵への衝動に従って実行されて以来、その儀式は幾度か行われたようだった。
 その初代《御子神》――誕生から数百年を経て術者の血統の支配から脱し、一族を見限った神人こそが日向亜紀であり、13年前、同じ儀式によって邪神の祝福を受けて生まれた少女、優子の数少ない身内でもあるということなのだ。

「その儀式は結局、失敗した。生け贄の質が悪かったのか、それとも連中がよく気にする刻とやらが満ちていなかったのか……それとも、喚ばれた神の虫の居所が悪かったのかは知らん。なんにせよ、儀式に直接参加した者は一部を除いて、全滅。後になって儀式が行われたことを知り、手に負えぬ赤ん坊の対処に苦慮していた儀式のスポンサーの1人から不完全な御子神候補を引き取り、暴走しそうな力をある程度安定させてやることくらいが、私にできることだった」
 御子神として育った優子から見ても信じられないほどの力を持ち、飄々としながらもどこか静謐で、冷徹で、時として冷酷ですらある亜紀の言葉が、その話をする時だけは、とても弱々しく聞こえた。
 無関係な人間の犠牲を悼むという感覚を持たない優子には、亜紀が何に苦しんでいるのか理解できない。
 また、千年という時間の重みを、心身ともに早熟とはいえまだ12歳でしかない優子には想像することもできない。だからだろう、義母とは呼んでも亜紀のことをどこか姉のような存在だと受け止めているところがあった。
 しかし、そのありように相反するようにどこまでも儚く脆い姿を見て初めて、母という存在が自分よりも年老いた存在である事実が、おぼろげながら胸に染みたのだった。
「まだ言っていなかったが……その13年前の儀式の失敗で、いや、或いはそのせいで失敗したのかもしれん。流れ込む力は1つに結合せず、2つに分かたれたんだ」
「え……?」
 復讐を強い口調で止められたときとは違う性質の、そして比べものにならないほどの衝撃が優子の頭を襲った。
 今、義母は何と言った?
 神の力は、1つではなく、2つに。それはつまり……
「優子。お前には、双子の兄弟がいるんだ。数十分程度の違いだが、兄貴だな」
「あ……に……」
 上手く言葉が頭に入らずに、呆然と亜紀の言葉を口の中で反芻する。
 双子の兄。御子神。自分の同じ境遇の者が、もう1人いる。母という完全な上位者ではなく、対等に、平等に呪詛と祝福を身に受けて生まれた存在。
「じゃ、じゃあ……どうしてお義母様はその子を引き取らないのさ。それに、あいつの話とは関係ないじゃないか! 誤魔化そうってんじゃ……」
 そう反駁する優子の声からも、既に最初の勢いは失われてしまっていた。亜紀も特に力を篭めることなく、まあ待て、と軽く流すにとどめる。
 実際、文句じみた言葉を口にしたのもショックへの反動のようなもので、その瞬間だけは胸を焦がす憎悪も身に受けた屈辱も、どうしたわけか綺麗さっぱりとどこかへ置き忘れてしまったようになりを潜め、代わりに話の続きを聞きたいという衝動で優子は一杯になっていた。
「お前なら分かるだろう。御子神という存在が受け入れなければならないハンデを」
「あ……うん。発作だね」
 そうだ、と頷く。
 外敵に対しては無敵を誇る御子神にも、天敵はいる。
 それは支配者たる術者ともう1つ、ヒトという素材に異界の神力を流し込んだ代償ともいうべき、自身の身体の異常である。
 まず、動悸が速まり、呼吸が困難になる。そして全身の激痛や嘔吐感、精神錯乱など、個人差はあるが基本的には死に直面するに等しい発作が、週に一度、或いは酷い時期では毎日のように起こるのだ。
 その原因は要するに、「唄」と彼らが呼び習わしている瘴気と魔力の混合物、それもまさしく神の眷属と呼ぶに相応しい膨大な量のそれを制御しきれないために起こるのだ。
 諸々の屈辱的な経緯があって、発作に悩まされる体質からは不本意ながら解放されつつある優子ではあったが、その苦しみは一生忘れることはないだろう。
「てことは、その……兄……き、も」
 なんとなく、優子の中で兄という存在への呼称として相応しいものが見つからず、義母の真似をしてみるが、慣れないせいか、何故か上手くいかない。
 そんな様子に、亜紀は表情を微かに綻ばせた。だが、次の瞬間にはその唇も固く結ばれている。
「ああ。例のスポンサーの息子、いや甥だったか。とにかく親族として育てられた蘭丸は、この12年をほとんど寝たきりで過ごしていた。最近は少し良くなったかと思っていたんだが、油断したところにデカい発作が来たらしくてな。――次はないらしい」
「――え?」
 どくん、と、小さな心臓が跳ねた。
 次はない。つまり、次の発作が起きればもう、その先はないということ。
 義母が何故、そんなことを言うのか、さっぱり分からない。
 自分と同じモノ、否、もう1人の自分とすらいえるかもしれない同胞の存在を知り、訳が分からないなりに久しぶりの興味と喜びを抱いた矢先に、一目会うこともなく、その兄が死ぬというのだ。
「そんなの……それなら――」
 それなら、なんだと言おうとしたのか。
 居なかった方が、或いは言わずにいてくれた方が良かった、とでも続く筈だったのかもしれない。しかし、「兄がいる」という事実を聞いた最初の衝撃はあまりに大きすぎて、今更それを否定しようとする言葉など、虚しくて吐けそうになかった。
 だがその様子を見て、亜紀は深く頷く。
 後にして思えば、亜紀の狙いはその遠く離れた地で死に瀕する兄を見捨てたくない、という優子の自発的な意志を確認することにあったのだろう。そういう意味で、日向亜紀は確かに優子の母であり、そして老獪な大人だった。
 あまりに回りくどい演出ののち、とどめの一言を放つ。
「その蘭丸を救うために、私は上杉秀一と契約したんだ」
「え……?」
 今日は、同じことを言って驚いてばかりだ。
 そんなことを頭の片隅で自覚しながら、亜紀の計画を聞いた優子は今度こそ棒立ちになって唖然とした。
 冷静な瞳にどこか縋るような、祈るような熱意を感じさせながら、亜紀は静かに言い聞かせる。
「あと……そうだな、5年だ。5年も経てば、お前を蘭丸に逢わせてやれる。だから、頼む。それまで堪えてくれないか」
 願わくは、不毛な復讐の怨念がその5年で溶けてくれんことを――
 そんな言葉を続けたような気はしたが、本当にそんな情に厚い台詞を亜紀が言ったのかどうか、既に話をまともに聞いていなかった優子には確信が持てない。そこにある、1つの事実を亜紀が敢えて避けて話したことも、その理由の1つではあろう。
 その時の優子は、邪神の眷属でも古代の支配の道具でもなく、それまで存在すら知らなかった兄に出逢う日を幻視し、胸に湧いた不思議な感情の正体を見極めんとするただの少女でしかなかった。
「あに……き、兄き……兄貴……」
 義母の真似をして、もごもごと口の中で呟く。
 これなら、初めて逢ったその時にでも、ちゃんと呼んでやれそうだ。そう思ったところで呼びかける練習はやめて、次に出逢った兄と何をするかを考え始める。
 ――あのベッドは広いし寒いから、一緒に寝るとちょうど良さそうだ。手も繋がないと……

 その日が、優子が屈辱を受けてのち、唯一憎悪を忘れた日であり、結果としてその後何年にも渡って自身の怨念に苦しむ羽目になるきっかけの日でもあり、
 そして、姉小路優子が、恋をした日でもあるのかもしれない。


   3


「落ち着いたようだの。短時間で仕上げるためにそれなりに強い薬を使ったので少々不安はあったが、やはり安定させるには良い夢を喚起するに限る」
 分娩台のような固いベッドに寝かされた少女の瞳にペンライトを当てながら、老人は空気の漏れるような掠れた声を出した。
 医者か、老科学者、とでも呼ぶのが正しいか。白衣に包まれたその身体はいかにも運動に縁がなさそうな細さで、瞼を押さえたその指など、まさしく骸骨の手である。
「上手くいきそうなのか、ドクター・フランケンシュタイン?」
 その脇に控え、一区切りを待っていた神父姿の男が声をかけた。が、老人はぎょろりと眼窩からこぼれ落ちそうな目を動かし、神父を睨みつける。
「違うと言っておろうが。何度言ったら分かるのだ。わしのことはドクターOWと呼べと」
 フランケンシュタインという名が本名か、或いは何らかの揶揄を含んだあだ名であるのか。OWは酷くうんざりした顔で反駁する。
 が、それでも仕事は忘れないということか、それとも自分の行為の成果を説明したいという衝動が怒気に勝るのか。咳払いを1つしてから問いに答え始めた。
「今のユウコ嬢は半覚醒状態、夢を見ているような状態だ」
「押さえていない瞼も開いているようだが?」
 神父が口を挟む。が、OWはその疑問も分かっているのか、唇を歪めてにやりと笑う。あちこち欠けて並びの悪い歯が覗く。
「声も聞こえておるよ。こちらのメッセージが届かぬことには、効果的なブレイン・ウォッシングは望めぬからの」
 OWがペンライトを右に左に動かすと、優子の惚けたような眼はゆっくりとその光を追いかける。パチン、と音を立ててペンライトのスイッチを切ると、その動きは止まった。しばらくすると、ひく、ひく、と独りでに痙攣するように黒目が動く。時折、意識があるのではないかと思えるほど、眼球だけがキョロキョロと素早く周りを見回し始める。確かに、そのさまはレム睡眠の状態を思わせるものだった。
「……本当に意識はないのだろうな?」
「だからあると言っておる。状況の理解もおぼろげながらしているとも。だが、基本的にそれに対する警戒心や反発心を抱く理由がないというだけでな。夢とはそうしたものであろう」
 あからさまに呆れた声で、溜め息までも交えながらOWは神父の言葉を訂正する。
 尤も、言われた神父はその鉄面皮にヒビ1つ入れることはなかったが。OWの方も特に不快にさせることが目的でもなかったのか、さほど頓着しない。
「第一段階はクリア。この分なら10日もあれば、疑問も持たず戦地へ赴くコスモ・マトリックスの兵士なり、わしの自慢のオールド・ハリーの優秀な魔道素変換器なり、思うがままだ」
 そう自慢げに語るOWだったが、しかしそれを遮るように部屋の扉が蹴り開けられ、怒鳴りつける声が重なってきた。
「遅い、遅いぞフランケン! どんどん単位時間が短くなって永遠にカメに追いつけぬウサギ並みに遅い!」
 入ってきたのは、OWと同じく白衣に身を包んだ男だった。
 ただし、OWよりもずっと若い。二十代の後半か、三十代か。少なくとも四十路に入り込んではいまい。そして、OWとは正反対なまでにその白衣の似合っていない男だった。
 髪は伸ばしっぱなしで手入れをしていないのか、ところどころ跳ねている。そして白衣の外側からでも分かる、鍛えられた筋肉。腕の太さなどOWの倍はあろう。白衣の下には趣味なのか、ライダースーツなど着込んでいた。
 何より、その目に宿る光は理知というよりも野生に近かった。己に不可能などないとでも言いたげな傲慢な確信の輝きだけはOWと共通していたが、OWの場合は既に手に入れたと考える者のそれであり、乱入者は挑戦し、これから手に入れる者のそれである点が、違うといえば違っていたろうか。
「我輩のスペシャル洗脳コース(竹):ウェスト3分間ウォッシングならば、今すぐにでもそこの小娘は悪の女幹部へとテクマクマヤコンもびっくりの大変身であるぞ?」
 いちいち妙な連想語だか洒落だかを言葉に挟む男だった。
 OWはその言いようにか内容にか顔を顰め、不快げに鼻を鳴らして侮蔑の言葉を吐く。
「それで精神はおろか脳髄までを完膚無きまでに崩壊させるのか? この不器用めが。これだから若造は役に立たん。血気ばかり逸って思いつきで愚にもつかぬ事ばかり言いよる。それに、いい加減覚えろ。わしはドクターOWだ」
 だが、男も負けてはいない。
「なあぁぁぁにを言うか年寄りめが! 時間感覚までボケたのであるか? 10日も待っていては実戦投入に間に合わんであろうが。これだから自分で実戦にも出ない骨と皮は。そんなことだからあんな継ぎ接ぎフランケンのポンコツしか作れないのである」
「貴様こそ何を言うか! 貴様のデカいだけのポンコツのように自律稼働もできぬような出来損ないしか作れぬ輩に言われたくないわ。オールド・ハリーの芸術性が分からぬか、この筋肉達磨が!」
「――!」
「――――!」
 唖然とした神父が見守る前で、2人は言い争いを始めてしまった。最初のうちは意味のある言葉の応酬だったのだが、次第に整合性や文法が崩れていき、だんだんと専門用語なのかどこからの引用なのかも知れぬ意味不明の単語や現代の言語なのかもよく分からない合唱と化す。
「待て、ドクターOW、それに、ドクターウェスト」
 いつまでも名状しがたい言い争いを続けられても堪らない。結局、神父が間に入って強制的に2人の距離を離すことで打ち切ることとなった。
 鼻息の荒い両極端の科学者を嘆息混じりに見ながら、神父は話を元に戻す。
「ウェストの言葉ではないが、10日ではかかりすぎだ。数時間か、せめて半日程度に短縮できないのか」
 無茶で、非常識な提案である。
 尤も、それも神父にしてみれば無理からぬこと。
 魔術の世界に棲む者は、その修得にこそ非常に長い年月をかけるが、1つ1つの術の実行には、よほどの大儀式でないかぎり数秒から数分、長くとも数時間を要するのみである。それが魔術、正確には魔術師の特徴であり、魔術が科学よりも優れているという幻想が一般に流布している理由の1つである。
 人間1人の精神操作に10日をかけて行うと言われ、その能力を疑ってしまうのは、半端に魔術寄りの性質を持たされた神父にしてみれば当然のことではあった。
 OWは、いかにも素人を相手にするような馬鹿にした顔で溜息をつく。先ほどの神父の態度へと仕返しかもしれない。
「物事には順序があり、作業の短縮限界というものがある。……それに、見ろ」
 そう言ってOWは、ベッドに眠る優子に被せられたシーツを引き剥がした。
 晒されたのは、白い肌だった。彼女がもともと着ていた黒いドレスがボロボロで、既に衣類として機能しなくなっていたこともあるが、場合によっては手術が必要かもしれぬという神父の言葉からでもある。
 均整のとれた身体のシミ1つない、美しいといって良い肌に、ウェストは上から下まで視線を走らせ、最後にOWへと戻した。
「これがどうかしたのであるか?」
「そうか、知らんのであったな。この娘はな。今朝方、ホテル・ミスカトニックの最上階スウィートから、突き落とされてのよ」
「何と!?」
 その言葉を聞いて初めて、ウェストの表情に驚きが走った。
 そう、優子の身体には傷1つないのだ。切り傷、擦り傷、打ち身、骨折、その他、異常といえるものは何も。ただ横にある液体の入ったパックから伸びたチューブ、その先の針が首筋と両腕に刺さっているのが傷らしい傷の全てだった。
「このわし特別性の導催眠剤だがな、既に5パック目を数える。大の大人に一日かけて投与するものをその5倍、数時間でだ。だが、未だこの状態を保ち、幸せそうに夢など見ておる始末だ。正常な意識を取り戻さずに維持するために、健康な人間に使う50倍の薬物を既に消費しておるということだ」
 ごくり、と喉を鳴らす音は、誰のものであったか。
「分かるか? 投与されるそばから分解しておるのだよ。この娘に、外部からの改造は非常に難しいということだ。ゆえに、純粋な精神誘導をわしは選択した。10日というのは、むしろ破格と思うが?」
 ぎょろり、と突き出そうな眼を神父に向け、にやりと笑う。
「これ以上の無茶をしろというならするがの。半日で済ますことも、できんとは言わん。だが確率は下がるぞ。今のうちに門から出でた娘とやら、自分の手で捕まえてきた方が良いと思うぞ?」
「ふん、言われるまでもないわ」
 半可通の知識の不備をからかうような、嫌らしい笑みを浮かべたOWの言葉に答えたのはしかし、神父ではなくそれまでそっぽを向いていたウェストであった。
「貴様のやることになど期待しておれんのである。その小娘、我輩が自ら出て貴様の役立たずっぷりを見せてやるのである」
 そう言って、大股で部屋を歩き、出て行く……と、扉から一歩出たところで振り返る。
「フランケン」
「違うと言っておろうが。それになんだその略し方は」
 そんな文句にも耳を貸さず、ウェストは持ち前の挑戦的な笑みを見せつけるように浮かべてみせる。
「我輩の作るものには自律性がないと言ったな」
「ああ、言ったがどうした」
「――いや、それだけである」
 それ以上の問答もなく、ウェストは今度こそ廊下へと消えていく。
 それでもなお表情を変えない神父であるが、OWは露骨に悪態をつく。
「まったく。なんなのだあやつは」
「スート様によれば、新しい総帥の顧問とやらが、この街での作戦には是非にと推挙したらしいのだがな。はてさて奴自身は何を考えているやら」
 少なくとも、コスモ・マトリックスの信者になろうという意志があるようには見えない。己の実験なり開発なりが行える環境が欲しかっただけではあるまいか。尤も、それはOWにしろ似たようなところはあったが。

 ――やはり、ここでコスモ・マトリックスの理想を遂行できるのは私しかおらぬということだ。

 神父は心中で誓い、先ほどウェストが出て行ったきり開いたままの扉を潜って歩き出す。
「どこへ行く?」
「折角だ、ウェストに役に立って貰う。娘の件、半日で済ませよ」
 背後の声に振り向かず答え、神父もまた夜のアーカムシティへと続く、先の見えぬ暗い廊下へと消えた。
 眠る優子と2人残され、やれやれとばかりに肩をすくめるOWである。


   4


「ふぅん、じゃあ、あなたはなんでアーカムここにいるのか、分かんないんだ」
「え、ええ……そうです」
 草馬美空はオーストラリアを訪れていた日本人観光客であり、気が付くとここにいた、途中の記憶は定かでない――そんな怪しげな話をどこまで信じたものかは定かでなかったが、ディックは困惑と疲労をはっきりと顔に見せている美空を特に笑い飛ばすこともなく、話に付き合ってくれる程度には冷静な女性であるらしかった。
 ディックは今、机の上に置いた数枚のレポート用紙に向かってペンを走らせながら、ベッドを挟んだ反対側で着替えている美空に時折声をかけてくる。
 本当なら仕事――なのだろう――に専念したいのだろうが、風呂場での一件から美空の状態が非常に危ういものだと感じたらしく、しばらくは構い続けることに決めたようだった。
 美空としても、知り合いもおらず、故郷から遠く離れたアメリカの地で話し相手1人いないまま放っておかれても堪らないので、その配慮には感謝したい。だが、ディックが自分の都合で付き合わせられる相手なのかどうか、が気になるところではあった。
 目を窓に向ける。
 夜も更け、カーテンを閉め切ったその裏では、美空が大穴を開けた跡がしっかりと残っている筈だった。雨が降り込まないようにとディックがどこからか木の板を調達してきてガムテープで貼り付けていたが、どのみち人1人を突き落とした結果開いた穴を塞げる筈もなく、時折吹き付ける風に乗って運ばれてきた雫が、真下の床に敷かれた新聞紙の束を濡らすことになっていた。
 そんなことで良いのか、と聞きたかったが、口を開く前に「大丈夫、大丈夫。気にしないの」と余裕ありげに根拠を感じさせない言葉で封殺されたので、今更突っ込んで聞く気にもなれず、さりとて言われた通り気にせずにいられるかと言えばそうでもなく、ちらちらと書き物をしているディックとカーテンの間で視線を彷徨わせる程度が、美空に出来ることである。
 だが、ディックのやりようの是非以前に、その状況自体がおかしいといえばおかしい。
 ディックの言う通りにここがホテルの一室であるなら、割れたガラスは交換するのが普通の対応ではないのか。窓を割ったことへの弁償を要求してくるそぶりはおろか、そもそもホテルの従業員が部屋に来ることさえ一度もないのはどうしたことだろう?
 美空も血だらけで眠っていたのだから、或いは被害者扱いになっているとも考えられたが、それならそれで美空は今頃ホテルの従業員ではなく警官と話をしていて然るべきだろう。美空が被害者なら、強盗、暴漢の類が別にいたことになるからだ。
(……話せないけど)
「あの、ディックさんは……」
「ん?」
 ホテルで用意された寝間着に着替え終わってから、いそいそと机で何かレポートのような物を書いているディックに話しかけた。
 へこんだ机に、ベニヤじゃあるまいし、などと悪態をつきながら悪戦苦闘していたディックの方も気を紛らわせたかったのか、顔にかかった髪をかき上げ、美空に笑顔を向けた。
「どしたの? 心細い?」
「い、いえ、そうじゃなくて。ディックさんは、ここに何かご用があって来たんですか? その、姉小路さんに」
「あたしが、ていうより姉小路おきゃくさんの方なんだけどねー、用があったらしいのは。あたしは上司のところに連れて行く役目を仰せつかった案内役って訳」
 流暢な日本語であった。
 もし、ディックが英語だけしか話せなかったなら、ここが美空がいたはずのオーストラリアではなくアメリカであるという事実以上に互いを途方に暮れさせたことだろう。
 曰く、彼女の会社では、社員に必須とされる訳ではないが日本語を話せる者が好まれるのだという。
 誰が言い始めたことか、それが業務においてなんの役に立つということもないのだが、数十年にわたってこの街にある企業の多くが受け継いでいる伝統、いや、流行りともいえる現象であるらしい。
 なんでも、アーカムをここまで発展させた魔人とまで謳われるほどの天才企業家であった1人の日本人の歓心を買おうという誰ぞの出世欲がきっかけであるとかないとか。
 その1人のカリスマについては、美空も名前くらいは知っていた。というより、この世界でその名を知らぬ者はないと言って良い。
 名を、覇道鋼造という。
 鉄道王にしての勇名を皮切りに、無茶な投資をまるで未来を知っていたかのように次々と成功させた天才を、いつか読んだ伝記では、その名にちなんだか鉄の巨人と呼んでいたのが美空には印象的だった。
 とはいえ、なんとかいう幻想文学で一部に知られた小説家が書いたとかで、高校時代の教師に勧められて読んだのみであり、詳しく内容は覚えていないのだが。興味がなかった、ともいえるし、勧めてきた女教師に色々と対抗意識を燃やしていた時期でもあって、あまり真面目に話を付き合いたくなかったからだともいえる。
 かくして「詳しいことは知らないけれど凄い天才がアメリカで活躍していたらしい」という認識だけが残り、それは美空に限らずとも多くの日本人が似たようなものではあった。
 だが、やはり最もヒーロー信仰の強い国アメリカということか、それとも地元のことには敏感というべきか。ここアーカムにおいてそれだけでは済まないということらしい。
 曰く、覇道鋼造の成功の秘密は悪魔と契約した魔術にある、或いは鋼造自身が悪魔だ、等、他にはお決まりの宇宙人説など、多種多様な噂とともに、彼の伝説はまさしく人ならぬもののそれへと昇華しているらしかった。
 そんな適度に脱線的な雑談を交えながら、ディックはもう一度、最初の問いかけを繰り返す。
「それで美空ちゃん。ほんとに、何にも覚えてないの? どうやって連れてこられたとか、その後この部屋にどうやって来たとか」
 緊張をほぐして心理的な壁をある程度取り払ってから再度、ということなのだろうが、美空は首を横に振るしかない。
 眷属の群れに襲われ、それらを斬って捨てたことや、優子を襲ってしまったことを話すわけにいかないし、信じて貰えるとも思えない、ということもあったが、本当にどうやってこんなところまで飛ばされたのか、美空には分からないのだ。
 数日前、恐ろしい夢を見た。
 それは何者かと戦う辰人が敗れ、殺されるというもので、何故かそれは、どうしようもなく美空の心に危機感を植え付け、蔦のように絡み付いて離さなかった。旅行中に事件が起こったらしいことを察して走り出す辰人を見た瞬間、美空の裡に根を張っていたその危機感は爆発するように花開かせ、気がつけば夢に出てきた男を《邪気祓う剣》で刺し貫いていた。
 思えば、その夢を見た時点で、自分はおかしかったのだと思う。
 美空は夢の内容、辰人が殺される光景よりも、その最後に見た人物、殺し合う2人を離れたところで嘲笑する女にこそ、最も強烈な危機感と恐怖を抱いたのではなかったか。
 だが、夢から覚め、逃避行のような旅行の準備を進めるうちに、美空は辰人と殺し合う男こそが諸悪の根源だと、いつの間にか信じてしまっていた。
 さらには自分が自分でないかのような気分で眷属を殺し――そして、臭いにつられるようにしてふらふらとここへ。
 ショック療法とでもいうべきか。あの優子という少女に頭を蹴り飛ばされたときに、心を覆っていたものも一緒に吹き飛ばされたような気がする。
 今なら分かる。あの夢を見せた存在こそが、憎むべき事の発端そのものだと。
 では、美空をこの街へ連れてきたのも、あの正体不明の女なのだろうか? たとえば姉小路優子が彼女の敵対者で、邪神の眷属を殺すのに適した自分の剣を利用するとか、またはその逆で。
(違う……ような気がする)
 根拠はないが、なんとなくこの街での事件は偶然の出来事のように思う。
 そう思うのは――
「――女の……人」
「え?」
 美空が無意識に呟いた言葉に、ディックが反応する。
「どうやってここに来たのかは分かりませんけど……途中か、元いた場所で、女の人に会ったような気がします」
 考えているうちに記憶の端で引っかかった絵を丁寧に探り出す。
 あの敵、ではない。そこで会った女は、夢に出た女のような嫌らしい嘲笑を顔に貼り付けてはいなかった。
 美空の剣に刺し貫かれた男が倒れ、視界が真っ白になり、その空間はとても息苦しかったのを覚えている。窒息するようなその正体不明の空間で、どこからか手が伸びてきて、美空の手を掴んで引っ張ったような気がした。
 辰人のものでなかったのは確かだ。その手はよく知っている辰人のそれよりも幾分か細く柔らかく、そしてとても熱い手だったのを覚えている。
 火傷しそうなほどに熱を感じさせるその手は力強く美空を――放り投げたのだ。
(外に……出してくれた?)
 大きな穴のようなものに放り込まれながらほんの一瞬だけ、視線が交錯した。その強靱な意志と困ったような苦笑を混在させた瞳に何故か罪悪感を覚えながら、美空は意識を失ったのだ。
 あの女がどうしてか敵ではないと確信できたから、その意志でここへやって来ることになったのなら、自分は今、敵の思惑から外れたところにいるはずだ……と、そう思うのかもしれない。
「あの、今、オーストラリアはどうなっているんですか?」
 自分が元いた場所では、何が起きているのだろう?
 ツアーに参加していた他の観光客達や、あの息苦しい白い空間。それに……
「ん? ああ、恋人と一緒に旅行してたんだもんね。そりゃ気になるか」
 そう。辰人は今、どこでどうしているのか? あの瞬間には現場にいなかったと思うが、都子のことも気になる。
 あの女性に手を引かれてか、はたまた自力で脱出できていればいいが、そうでなければ――
(ひょっとして、まだ……)
 気が狂いそうになるほどに胸を灼く焦燥をぎりぎりのところで抑え込む。
 その美空の内面に気付いたのか否か、それは分からないが、ディックは人を安心させるように柔らかい笑顔を浮かべてくれた。ペンを置いて立ち上がり、ホテルの内線が設置されたドア口に向かって歩いていく。
「ん、あたしが問い合わせたげる。旅行会社の名前分かる?」
「はい、ええと……」
 うろ覚えだった会社名をなんとか記憶の引き出しから引っ張り出し、告げる。
 受話器を取って繋がるのを待ちながら、ふんふんと鼻を鳴らして頷く。それから数秒して応対に出たらしいフロントに英語で二言三言話したのち、ディックは受話器のマイク側を手で押さえて、美空に声を飛ばしてきた。
「ねえ、美空ちゃん。そういえば聞いてなかったけど、最後はどこに行ってたの? シドニー? カンガルー島? タスマニア?」
「え、ああ……」
 言われてみれば、どのツアーの参加者か分からずに調べるのは少々骨だろう。
 そうして、
「エアーズ・ロックです」
 自分が、そして辰人らが事件に巻き込まれたその場所の名を口にした。

「へ?」
 ディックは、まるで死後の世界から来たと告白を受けたかのような顔で硬直した。


   5


 遣いを呼びに出してから予想よりも遥かに早く応接間へとやってきた坊門に、瑠璃は少なからず驚いた。
 頭も口もよく回り、身のこなしもどこか訓練を思わせる。サングラスで視線を隠した上から下まで黒一色の男に、ストイックで落ち着いたイメージを重ねていたのは瑠璃の勝手な想像には違いなかったにせよ、それでも坊門は普段よりもよほど急いでやってきたのだろうと思えた。
「本当なのか、エアーズ・ロックの現場にいた人間が見つかったというのは」
「はい。西カレッジ通り1ブロック200番地、ホテル・ミスカトニックで、別件で客人を迎えに行っていたファウンデーションのメンバーが偶然接触、保護したそうです。本人がそう主張しているだけではありますが」
 僅かではあるが、瑠璃から見れば意外なほどに焦りを滲ませた坊門に、執事ウィンフィールドの落ち着いた声が答える。
「あのアーカム最上級ホテルか。ということは、そう遠くでもないな。こちらに回させるのか」
「そのように手配しております。ただ、問題がございまして」
 坊門の眉が不快げに動く。しばしの思案。
「何故、このアーカムに、ということだな?」
「それもあるのですが。その女性の代わりに、と申しますか、我々と会う予定だった客人が行方不明になっていまして。こちらも今後のファウンデーションの動きを決定する上で重要な情報を持ってきていただける筈だったのですが」
 姉小路優子。
 瑠璃の祖父にもコネを持つ、日向亜紀なる人物の養女だというが、全く詳細は不明であり、それはそれで気になる話ではあるのだが。
 件の日向がコネを持っていたのが覇道の総帥としての鋼造なのか、それともウィルマース博士の同志としての鋼造なのか。持ちかけてきた話からすれば後者の線が濃厚だが、しかし覇道の情報力を持ってしても、一ヶ月かけて出てきた情報が少なすぎた。
 日本の山奥にある全寮制の学校で校医をしていたらしいことは分かったのだが、それ以前、以降ともに経歴が不明、その山一帯の所有者の姓が姉小路であることが分かったくらいだった。
 瑠璃にしろ、国内外を問わず祖父や大学関連の噂を追うマスコミから詐欺まがいの方法で大金をせしめようとする取引相手に、果ては政治は金で動かすものだと本気で信じているような海千山千とまで日々渡り合う身であるから、素性の胡散臭さにいちいち目くじらを立てる女ではないつもりだが、それでもいきなり聞いたこともない自称「祖父の知人」から「門が開く。警戒されたし」などという手紙を貰えば面喰らいもする。
 とはいえ、事実《門》は開き、それによる直接的な被害はまだないものの、放置できる事態ではないと坊門が、そして何より瑠璃自身の直感が告げる。
 そういう意味では、今夜会談の場を持つ予定だった姉小路優子がいないことには、腑に落ちない以上に落胆を禁じ得ない。少なくとも――
「何か」
「いいえ」
 アポイントも取らず、彼女らの組織力を目当てに押しかけてくる国際指名手配の犯罪者よりは、期待度の大きな客人ではあった。
 瑠璃の視線の意味をおそらくはおおよそ理解しながら無視し、坊門はウィンフィールドと話を続ける。
「なら、ついでだ。コスモ・マトリックスの部隊を襲撃した犯人と一緒に、捜索隊のリストに加えてやれば良いだろう」
「そうしてはいるのですが、いかんせん世界中の《門》の監視に人手を割かれており、アーカム市内でさえ十分な網が張れていないのが現状です」
「厄介事が次々と。まあいい、なんにせよこれから例の民間人と会うのだろう? 俺も同席させて貰うぞ」
 坊門の朝から変わらぬ余裕を装いながらどこか不機嫌な声を聞いて思う。
 この男は、何故、こんなにも急いでいるのだろう?
 邪神が関わっている事件を収拾するのに、時間的な余裕など在りはしないのだよ――とは祖父の言葉である。瑠璃も別段、それを疑うことはしていないのだが、坊門の様子には妙な焦燥が見られる。違和感があると言ってもいい。
 瑠璃がウィルマースやシュリュズベリイの「道楽」に付き合うようになってから日が浅いこともあり、瑠璃自身の意識こそが現状に見合っていないのだ、ということもできようが、それとは別に、やはり坊門の焦りようは瑠璃の知る限りの状況からすればやや過剰だと思えた。
(ここでの問題は、坊門さんが過剰に反応しているのか、それとも、わたくし達と彼の認識している「状況」がそもそも違うのか、ということですけれど)
 早朝から怒鳴りつけられた恨みでもないが、疑惑は尽きない。何か、この男はちょっとしたことで今の状況を左右してしまうような情報、或いは物を持っているのではないか……?
 ではそれは例えばなんなのか、と言われると、見当の付きようもないのだが。
(少なくとも坊門さんは、わたくし達に提示していない情報をまだ持っている)
 それだけは、確信できた。
「……あ」
 と、そこで、1つ思いつくことがあった。
 確かに坊門は隠していることがある。だが、必要だがまだ話していない情報があるという点では、覇道側も同じだ。
 それは今の事件とは直接関係ないが、この街で何かをする上で避けては通れない障害といってもいい。
 このアーカムの住人にとっては身内の恥のようなものであり、外の人間にあまり晒したいものでもないのだが、坊門を使えば楽に対処できるようになるという目算もあるにはあった。
 ちら、と執事に視線を流す。
「ウィンフィールド」
「はい。前回がちょうど一週間前ですから……やはり今日、明日には来るのではないかと」
「タイミングの悪い……忘れていましたわね」
「どうした、何かあるのか」
 1人、取り残された形の坊門が訝しげな声を割り込ませてくるが、しかし瑠璃や執事の会話や表情から、あまり良い内容のものではないだろうことは察しているようだった。
(不運、ですわね)
 これで時間を取られて、また後手に回ることにならなければいいのだが。
「坊門さん」
「? なんだ。まだ問題があるのか」
 そりゃあ山積みに決まっているでしょう――そう答えたくもあったが、別に坊門のせいで増えたわけでなし、反射的な答えを呑み込む。
「ええ。今、ホテル・ミスカトニックへ迎えと護衛をやっているところなのですが――」
 護衛? と小さく呟くのが聞こえた。
 彼らの生き方にしてみれば、聞き慣れない言葉というわけでもないのだろうが、何故ただの民間人に護衛が必要な事態が発生するのか、という問題が頭にあるのだろう。
「――なのですが、坊門さん、この街の事情はどのくらい把握していらっしゃいますか?」
「……大小合わせて犯罪が絶えない、とは聞いたな。反政府ならぬ反覇道テロリストの類もいるとか。そうか、そのための護衛か?」
「ええまあ。そうなのですけど」
 歯切れの悪い返事を返してしまうのもある意味では無理もない。
 坊門もおそらくは、聞いたことくらいはあるはずなのだ。このアーカムが抱える大問題について、噂くらいは。
 ただ、アーカムに関する噂には2種類がある。1つは事実そのままのものや、それを元に誇張されたもの。そしてもう1つは、揶揄や畏怖、そして嫉妬などが混じったトンデモだ。
 例えば、覇道が世界一の複合企業体であるから、そのお膝元であるアーカムシティは一般市民に至るまで生活水準が高い――というのなら前者。その世界一の企業を興した覇道鋼造は人ならぬ化生、化外の類である――というのは後者に分類されるだろう。
 理性的で、かつ理知的な人間ほど、その2種を分けて考え、後者は基本的に信じない。
 ただ、困った外から来た人間の9割9分9厘までが、その己の理と知を根底から疑うことになる。そして口を揃えて言うのだ。「まさか本当だったとは」と。
「ですが、覇道のエージェントでは手に負えない場合もございまして。その時は貴方のお力をお貸しいただきたいのです」
 微妙に噛み合わないものを感じてはいるのだろうが、坊門はそんな状況の想像もまたできないのだろう。不承不承、首を縦に振るしかない。
「ふん。確かにこちらが持ってきたのが曖昧な未確定情報だけでは取引にはならんか。良いだろう。だが宗派も信者も連れてきていない俺に何をさせたい? 陣頭指揮でも執れと言うのか」
 それが彼の精一杯の現実的な想像だったのだろう。
 頭が回り、行動力も申し分ない。傲岸不遜で、己より偉いモノはないとでも言いたげに覇道の女帝に当たり前の口を利き、その女帝が全幅の信頼を置く懐刀にも迫力負けすることなく話し続ける一級犯罪者が――なんと哀れなほどに常識人であることか。
「そんなところです……良いですわね、約束しましたわよ?」
 言質を取ったぞ、と宣告することにどの程度の意味があるのか瑠璃自身にも定かでなかったが、そう言わずにいられないほどに非現実的で、かつ厄介な相手なのだ。アレは。
 せめて、件の情報源となる民間人の保護が済んでからにして欲しい――半ば祈るようにしてそう思っていたのが通じたのか否か。そんな話をしているところで、扉がノックされる音が応接間に響いた。
 来たか、とやや期待を見せる坊門を見ながら、どうぞ、と答えると、それに合わせてウィンフィールドが扉へ歩く。
 失礼します、という声とともに入ってきたのは、瑠璃付きの侍従である。
「ディック様より、草馬様を屋敷にお連れしたとのことです」
「良かった……」
 思わず、そんな言葉が出た。
 今日は朝から何もかもが上手くいかないような気がしていたこともあって不安だったのだが、姉小路とかいう情報提供者が行方不明の今、情報を握った別の情報源までもがアレに巻き込まれる、などといった最悪の事態だけは免れたらしかった。
 これで同盟相手ぼうもんの機嫌も多少良くなってくれるといいのだが――そんなことを考えながら、メイドに返事を返したときだった。
「ええ、それでは2人を応接間へお通しし……ぎゃあっ」

 その部屋が、揺れた。
 そして遥か遠くから、門から入り口までも車で10分はかかるようなその屋敷の応接間まで届く、落雷のような地響きが鳴り響いたのだった。


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