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2005/09/14

Recurring Nightmare 第20話「Mindless Automaton」

   1


 覇道邸において、その主が悲鳴をあげながら頭を抱えるより、少し前。
 ホテル・ミスカトニックの廊下で上司と連絡を取りながら、ディックはこの状況における草馬美空の重要度が跳ね上がっていくのを肌で感じていた。


「はい……はい……ええ、そうです。少なくとも当人は今朝方、いえ向こうでの夕方前までエアーズロックにいたって証言してますねえ」
 携帯電話に向かって心持ち抑えた声を発しながら、ディックは部屋を覗き込んだ。
 ベッドの端に座った女は特に何をするでもなく、ぼうっとした視線を窓の外に向けている。
「擦り傷と……あと打撲が数カ所。それからひどく疲労してますけど、まあ健康っちゃ健康です。なんか恋人とはぐれちゃったとかで、結構ヘコんでますけど……え? いやあ、そこまでは。感触としては、黙秘はするが喋ってることにあんまり嘘はない……てとこでしょうかね」
 壊れて上手く閉まらない玄関ドアの隙間から内側を窺いながら、ディックは反対側の壁に寄り掛かった。
 電話の向こうの「上司」は、今後の対応を決めるべく、電話口から離れて話し合っているようだった。
(ま、連れてこいって言われるのは確定かな)
 少々、可哀想な気がしなくもない。
 ディックとしても、部屋の中の女――草馬美空について、そろそろ仕事抜きで興味が湧いてきたところではあった。
 まず、姉小路優子なる人物の迎えとして、ディックが寄越された。それは良い。
 ディックは対邪神組織「ウィルマーズ・ファウンデーション」において、単独で現地調査、そして場合によっては対象を任意で攻撃する権限をも与えられている。その彼女が呼ばれた以上、その任務は表向きは送り迎えでありながら、実質、姉小路の護衛兼、監視であることは疑いない。
 その事実は、ファウンデーション意志決定層――この場合、そのトップである覇道瑠璃は含まれないが――が事態を、そして姉小路優子をひどく重要視したことを意味する。
 それだけ注目を浴びているはずの優子を見失うというのはよほどのことだ。勘ともいえない勘、状況から導かれる最も安易な発想で言えば、その姉小路優子の行方不明に、この草馬美空が関わっていないとはとても考えられないのだ。
 とはいえ、まさか美空が半ば本能じみた退魔衝動に従って優子を襲撃、敗北した優子がコスモ・マトリックスに拉致された、とまで想像することはできていないのが、理性的な人間の限界ではあったが。
 せいぜい今の段階で分かることは、美空が「普通」の人間ではないこと、そして恋人と離れ離れになったという言が真実か否かはさておき、ただその悲しみと苦しみだけは、本物らしいということだった。
 そこでようやく、スピーカーから上司の言葉が発される。
「彼女がどっかの組織に、ですか? 微妙なところですねえ。ただ、この空気で何も言わないのは象より鈍感か、何か上位のモノに護られてるのかどっちかではありますね……ええ。そうです。詳しいこと聞いてませんし今回の件に関係あるか分かりませんけど、特異体質持ちみたいですねえ。尼さんって感じじゃないですけど、祓い屋か巫女の類ですかね。え? 巫女です巫女。シャーマンオブ神道。いや神道かどうか知りませんけど」
 そう言って、ディックは鼻をつまむ。
 そんな仕草も電話の相手に見えはしないのだが、途中から鼻にかかった声でその様子は伝わったらしい。
『ほう、臭いかね』
 声から皺が数えられそうなほどに、老いた声だった。
 ほう、などとさも興味を惹かれたように答えてはいるが、感嘆というよりは相づちに近い、抑揚に欠ける声である。
 尤も、それで声の主がディックの話を聞き流していると思うのは間違いだ。ディックも、敢えて言葉を繰り返そうとはしない。
「もう臭いのなんのって。でも水とか風じゃないですね。こりゃ土かな。それも結構大物」
 ふむ、とやはり感情の動きを感じさせない、小さな鼻息だけが答えた。
 考えることが増えたのか、次の言葉までしばし沈黙があった。
『……姉小路優子の件についてはこちらで捜索を進める。草馬美空についても、日本の主立った組織にそれとなく探りを入れてみよう。君はこちらが寄越す迎えが着く前に、エアーズロックに関する情報提供をしてもらえるよう、交渉を進めてくれたまえ』
 予想通り、というよりも、他の選択をされた方が驚きだ。しかも交渉といいつつ、迎えが着くまでに、という極めて短い期限付き。このような物言いをするということは、最初に報告した時点で迎えを寄越した可能性は高い。下手をすれば、既にホテル前で待機している可能性すらあった。
 要するに素直に従うなら良し、必要とあらば買収でも脅迫でもして、抵抗の意志も力も削いでしまえということだ。
 かくして、美空は邪神を巡る一連の事件に本格的に巻き込まれることとなったのだった。
 隠れて、溜息をつく。
「……了解。ところで、「出張」中の教授はいつ頃お戻りに?」
『さてな。好き勝手に離れ、好き勝手に戻ってくるだけであろうよ。表に出ている司令が坊門啓の懐柔に成功すれば、今のところは戦力的に困ることもない。気にせず、君は君の仕事をしたまえ』
「さいですか。重ねて了解致しましたよっと」
 挨拶を済ませ、電話を切る。
 大物の眷属が関わるとはいえ、現時点でディックの分を超えているとは判じがたいが、物事は発展するものだ。
 彼女にとっての「戦力」という言葉は、どこぞの光国人よろしく宇宙の果ての惑星と地球を気ままに行ったり来たりしている盲目の教授であり、風の鬼械神を意味する。いない、と言われて気にならぬはずもないのだが。
(うーん……美空ちゃんの不安が伝染っちゃったかしらん?)
 それが確かか否かはともかく、感情移入してるな、という自覚はあった。
 もう一度、扉の向こうを覗いてみる。
 美空はベッドに腰掛けたまま、まるで彫像ではないかと思うほどに同じ姿勢を続けていた。じっと、雨が降り続く外を眺め続けている。
 ファウンデーションへ招くというなら、それなりの覚悟は決めて貰わねばならないだろう。単なる調査対象としてなら誤魔化しようもあるだろうが、あの追い詰められ方から察するに、よほどのモノを見せられてしまった可能性は低くない。一時で済んだはずのその出来事と再度関わる覚悟を、今何処とも知れぬ愛しき人を想って悲嘆に暮れる彼女に要求するというのか……?
 或いは本当に、「強制」されての協力という形の方が、彼女には楽なのかもしれない。
 が――どうにもそういう気にはなれなかった。
(っとと、こんな顔見せらんないわ)
 こほん、とひとつ咳をして、ディックはそこで一度思考を切り、表情を消す。
 次の瞬間には、最初に美空に見せた、からかうような軽薄な顔が戻っていた。
「お待たせ美空ちゃーん。や、うちの上司ってばもう話が長いのなんのって。んでさ、ちょっとお願いができちゃって――」
 明るくドアを思い切り開き、にゃはは、なんて笑いながら、いかにも「下っ端の辛さ」を感じさせるような情けない声で話を切り出す。
(ま、事情は知らないけど……なんとか守ってあげようじゃないの)
 邪神に狂わされる――心も、人生も――人々を減らすのがファウンデーションであり、それができてこそ正義の味方というものだ。
 そう呼ぶには、件の組織は些か「外れた」連中が多すぎるのも事実ではあったが。だがそれでも、ディックは末端の工作員には珍しく、彼らの活動の正義を信じていた。

 草馬美空が自分の予想よりもほんの少しだけ、強い女であることをディックが知るのは、もう少し後のことである。


   2


 慌ただしく電話をかけに行ったディックを待ちながら、美空はずっと考えていた。
 自分がこのアーカムにいる意味、そして自分がエアーズロックで罠にかけられた意味を。
 実のところ、ディックが危惧するほどには、今の美空の精神状態は危ういものではなかった。
 万全とは無論言い難い。未だ心から笑うことはできそうにないが、それでも落ち込んでいる場合ではないことくらい、今の「憑き物の落ちた」美空には分かっているのだ。
 邪神の討伐も良い。だが自分ではどうしようもないと感じたからこそ、辰人を旅行と偽って連れ出し、逃げ出そうとしたのだ。今更、1つや2つの失敗で自棄になって、目に付く眷属や魑魅魍魎を狩り滅ぼしたところでそんなものは現実逃避でしかないのだと、落ち着いて考えればすぐにでも分かることを、昼間までの自分は気付いていなかった。
 多少なりとも気が楽になったのは、人懐っこい笑顔と嫌みのない冗談でずっと美空に付き合ってくれたディックのおかげなのは確かだろう。
(ディックさんに、感謝)
 その恩人に、見たモノをありのままに話すことが未だできていないのが心苦しくもあったが。
 そんな感慨の中、美空は妙にすっきりした頭で、事件のあらましについて回顧する。
 《門》から出現した青年のことを、美空はあまりよく覚えていない。
 辰人を守ろうとする思いが強すぎて、「敵」のことを観察している心の余裕がなかったこともあるし、何よりそんなことを気にしていてはすぐにでも辰人が殺されると思った。
 容姿に関しては、背が高く、髪が長い男、という程度である。
 ただ、その右手に握られた黒い偃月刀には夢で覚えがあった。夢の記憶ではさらに、2挺の拳銃を扱っていたと思う。
 次に思うのは、その夢に登場した諸悪の根源たる女の姿。
 女の目的が美空の剣を利用した青年の抹殺、いや否定であったことは想像に難くないが、では女は何故、あの青年を敵視するのか? いやそもそも、あの女は誰だ――?
(――それを、私は知っている)
 静かに、認めた。認めるしかなかった。
 暴走していた昼間までならともかく、いい加減、そろそろ気付いても良い頃だろう。眼鏡の奥で光るあの赤い瞳の意味を。嘲笑に歪むあの唇の形を。その存在の正体を。
「無貌の、神」
 その名を言葉にして吐くのは、ひどく勇気の要る作業だった。
 辰人の裡で眠る、この世で最も邪悪な神。邪神の尖兵を名乗りながら邪神すら嘲笑う、這い寄る混沌、ナイアルラトホテップ。
 辰人のサポートを自称する少女、華蔵都子によれば、その神は千の貌を持ち、ありとあらゆる世界のあらゆる時間に存在することができるらしい。
 とすれば、辰人を宿主と決めて眠り続けるあの神とは別の「貌」が、ひょっこり別の世界から現れる、という事態もありえなくはない筈だった。
 女の正体が知れれば、その敵対者も自ずと限られる。
(邪神の敵対者。辰人のおばさま……じゃない、卯里子さまと似たような存在なのかも)
 「神」という言葉を使うほど、超然とした雰囲気に溢れているわけではなかったが。美空が彼を剣で貫くことができたのも奇襲の機、つまりは打たれる不意があったからだ。
(それじゃ、辰人は?)
 異世界の無貌の神――これも妙な表現だが――が、美空の剣を利用して敵を葬ろうとした。ここまでは分かる。納得はし難いが、理解はできる。しかし、「こちら側」の無貌の神を半ば囮のように、いや囮そのものとして利用することには、どのように思っていたのだろう?
 2年前の事件で辰人を宿主として選んだ以上、そうそうのことでは辰人を、《神降ろす器》として優秀な肉体を見限るとは思えないのだが。
 いや、あの長身の女と辰人の中の存在を同一人物として捉えること自体が、そもそも間違っているのかもしれないが。同じ根から派生してはいても、別個に個性を持った違う神なら、そしてましてや邪神であるなら、囮に使うのが親兄弟であることなど躊躇する理由にもならないだろう。
「前に似たようなことを都子ちゃんが……なんて言ってたかな。同一なる存在が世界に在ることの弊害と変質がどうとか……とにかく異世界の自分を自分と認識することはできなくなるとかなんとか」
 何かの拍子にか、この世界と異界を繋ぐ《門》について、質問をしたことがあった……ような気がする。その時、辰人が面白がって「余所の自分を連れてくれば楽ができる」とか、そんなことを言ったのだったと思う。そんな冗談への回答があったはずなのだが、忘れてしまった。どのみち、当時も理解などできはしなかったのだから、思い出すことに意味はなかったろうが。
「……あー、違った。辰人は楽ができるじゃなくて、私を連れてきて3Pだとか4Pだとか言ってたんだった……思い出さなきゃ良かった」
 それまでの重苦しい思考からあまりにかけ離れた回想に何かを台無しにされた気分に陥りながら、美空は頭を抱えた。
 気を取り直して、元の考え事に戻ろうとする……が、どうにも一度切れた集中力はなかなか戻ってきてはくれず、愚にも付かないことばかり浮かんでは消えていく。
「うう、何か重要なこと思いついた気がしたのに。辰人の馬鹿」
 その辰人を護り救うための思索なのだが、その辰人自身に拒絶されたような気がして美空は悲しくなる。
 結局、美空も長く考えるのが得意な方ではないのだった。実のところ、辰人の方が思考は速くて正確だ。彼の場合、助平根性と生来の快楽主義が敢えてその理性と思考能力を封印している節があるのが困りものだったが。
「……ふぅ」
 溜息をつく。
 どこまで行っても辰人のことしか考えられない自分の依存心に呆れたこともあるが、しかしそれだけでもない。
(やっぱり、ディックさんに相談するしかないのかな)
 無論、辰人のことをだ。正直な話、自分1人でどうにかするには手に余る。
 しかし、それはそれで問題が多い。
 たとえば美空自身と、今朝の出来事に関して語ってみるとする。
 私は幼い頃一度死に、そこに居合わせてくれた神様の計らいで新しい命とともに邪神やその眷属を滅ぼす力を与えられ、今まで幾度となく魑魅魍魎を斬り伏せ、今朝方も襲いかかってきた化け物達を自衛のために排除しました――
(――うん、病院)
 これだけでもからかっているとしか思えない内容だというのに、彼女はホテルで、彼ら覇道の客としてアーカムに来ていたらしい姉小路優子と一戦交えている。
 覇道側が優子を眷属と認知した上で招いていたのか、それとも優子が自身の素性を偽っていたのかは不明なので、美空の半ば衝動的な退魔行動が即、彼らに責められるべきことだとは限らないのだが、それでも話すリスクは大きい。
(とにかく、最悪でも辰人と……無貌の神については秘密にしなきゃ)
 仮に話の内容を信用されたとしても、彼女の恋人、八雲辰人の中にいるモノは掛け値無しの邪神なのだ。普通に考えて、事情を知った上で彼を保護しようとは誰も思うまい。
 さて困った、辰人を捜索するため事情を話そうにも、まともに話せることなど1つもないではないか。

 ディックがどこか芝居じみた情けない声を出しながら部屋に戻ってきたのは、どうしたものかと悩んでいた、そんな時だった。
「お願いっ!」
 エアーズロックで見た出来事について、覇道邸で話してくれ――
 そう言って手を合わせ、頭を下げるディックの姿は、やはりどこかコミカルな印象を受けた。
 哀れを乞うような仕草でお願いされても、話せないものは話せない。筈なのだが……これが落ち込んでいる自分への配慮なのだということに気付いてしまえば、首を横に降ることなどできない。
「ディックさん」
「……ん、何? 美空ちゃん」
 顔を上げたところにある美空の表情が意外なほど真面目だったからだろう。怪訝そうに首を傾げる。
「私、きっと、変なこと、言っちゃうと思うんです。ちょっと考えられないような、馬鹿馬鹿しい話」
 からかうような笑みはなりを潜め、ディックの眼は美空の眉の微かな震えすら見極めようとするかのように鋭くなる。
 美空の深刻さに感化されたのか、それとも招待を拒否されることを危惧しているのか。
「……それでも信じて、もらえますか?」
 身勝手な言葉には、違いなかった。
 内容も言わず、ただ信じるという言質を取ってから自分の都合の良い話だけをするなど、卑怯の極みだと分かっている。このような台詞を言われて、「ダメだ信じられない」と答える者がいるか?
 それでも……美空には、それが限界だった。
 生活に必要な物は何一つなく、家族も友人もいないここでディックを失えば、辰人に届くことなど永遠にあり得ないだろうという思いが確かにあった。
 何より、ろくに事情も知らぬまま親切にしてくれたディックに、恩を仇で返したくはなかった。詳細を語ることはできなくても、なんとかして理解して貰える確率が上げられるなら。
 ディックは美空のそんな懊悩を吹き飛ばすように笑う。
「勿論! 信じる信じる。美空ちゃんが大昔に魔王やっつけた勇者の子孫って言っても信じちゃうって!」
 美空がアーカムシティで救われた瞬間を言うなら、まさしくこの時であったろう。
 軽口の中に混ぜられた信頼の響きに安堵する美空を見て、ディックもまた目を細める。
「……なんですか?」
「ん、ようやくほぐれてきたかなってね。ま、不安なのは分かるけどね。恋人のこともちゃんと上に掛け合ったげるから、もうちょっと安月給の正義の味方も信じなさい、ってね」
 軽くウィンクして、ディックは椅子を蹴って勢いよく立ち上がった。
 そうして割れた窓にひょいと首を突っ込み、下を覗き込む。
「げ。やっぱもう来てるし」
「はい?」
「お迎えよ、お・む・か・え」
 そう言って、あたふたと机の上の書類やら筆記用具やらをまとめ始めた。
 もとより、このホテルに持ってきた荷物は多くない。財布入れのような小さなハンドバッグに全てを収納し、すたすたと扉を開けて部屋を出て行こうとする。
 ……と、ふと立ち止まった。
 何か忘れ物でもしたか、と思っていると、
「ほら急いで美空ちゃん。まさか行かないってんじゃないでしょね」
「あ、行きます行きます!」
 忘れているのは自分の方だったらしい。美空も慌ててベッドから立ち上がり、ディックを追いかける。

 受付に会釈しながらロビーを出ようとしたその時、ふと視線を感じて美空は立ち止まった。
「美空ちゃん?」
 ディックが振り返るが、こちらは何かを感じたという風でもなく、ただ美空が止まったので自分も、という様子だった。
 気のせいか、とも思われたが。
「辰人……?」
 思わず、声が漏れる。
 実際に視線を感じたのか定かでもなければ、何故、行方不明の彼だと思ったのかすら判然としなかった。曰く表現しがたい感覚が形を持つよりも早く、その名前が口をついて出たというのが正しいかもしれない。
 きょろきょろと周りを見回したところで、思い人の姿が見えるわけでもなく。それどころか、ロビーにいる日本人自体、美空1人だけだ。多国籍というか無国籍というか、スーツを着た金髪の紳士から浅黒い肌の東洋人までさまざまな土地の人間がいるのだが、その分というべきか、特定の人種・民族あたりの人数は少ない。
 日本ならば目を惹く光景だろうし、アメリカでも当たり前という訳ではないのだろうが……ディックに違和感を感じている様子はない。これがアーカム、ということなのか。
 いずれにせよ確かなことは、この中に美空の見知った人間はいない、ということだった。
「……いえ、なんでもないです。ちょっと疲れてるみたいで」
「ま、しゃあないわね。車の中で寝てて良いわよ」
 ディックに軽く頭を下げて、今度こそ入り口の自動ドアを潜って外に出た。
 ホテルの前では、どこの金持ちかヤクザの送り迎えをするつもりなのかというような真っ黒な高級車が控えていた。
「お迎えに上がりましたディック様。そちらが」
「ミソラ・ソウマよ。丁重にね」
 運転手と短く言葉を交わしながら、ディックは美空を後部座席の奥へと押し込み、自分はその隣に座る。
「それでは、出発いたします」
「ん、お屋敷までよろしくね」
 そうして、慌ただしく車は走り出す。
 一度、美空はホテルを振り返ったが、やはり視線の主を見ることはない。
 そうして上げた視線の先に最上階の割れた窓を見て、美空は姉小路優子のことを思い出した。視線が彼女のものだと思ったわけでもないが、やはりこのホテルで最も強烈な記憶はあの戦闘であるには違いない。
 そこらの魑魅魍魎など比較にもならぬ強烈な気配を纏った、紛う方なき邪神の眷属。だがそれでいて、妙に引っかかる思いはある。
(また……会うのかな)
 会いたい相手かどうかも、定かではなかったが。


   3


 神父は動かない。
 ただじっと遠くから、見ても見返すことができないほどに遠くから草馬美空を見据え、憎悪に濁った瞳を瞬かすこともなく、雨に濡れるボロボロの服にも構わず、立ち尽くす。
 ――何故、アレはあんなにケロリとしている?
 そう創られたわけでもないのに。そうあれと誰に願われたわけでもないのに。
 ただの人間のまま、ただの人間にはあり得ないほどに強靱な心と身体で、歩き、考え、話している。
 笑うことこそないが、だが悲嘆の涙もまた一刻と続かなかった。あまつさえ、あれほどに魔力と瘴気と威圧に満ちた部屋で半日も休息し、体力を回復させている。
 そも、《門》を越えてなお心身ともにヒトでいられるのはいかなる加護か?
 最初は、あの退魔衝動こそがアレの狂気の証だと思っていた。
 よくある話だ。過剰な恐怖に晒され続けた者が自己を保存するため適応して恐怖の根源を愛し始めるように、己には恐怖の根源を排除する力があると思い込むことで恐怖を消し去る。そうしたヒステリーと《門》と結びついたことによる眷属化現象が相互に影響し合ったと考えれば、確かに一瞬で信徒達を滅ぼしたその力も納得ができたのだ。それは、結局のところ彼が信仰する神々の偉大さを証明するものであったから。
 ホテルの一室でいきなり4つに斬殺された時も、むしろ歓喜すら感じていたのだ。素直に思った。素晴らしい、と。その力が神の――一般人が言うところの邪神を源としたものであることを疑うこともしなかった。……その瞬間までは。
 様子がおかしいと気付いたのは、眷属の女と戦っている美空の語り口を聞き、そして攻撃対象から自分が外れたことでようやく気付くことができた気配を感じてからだ。
 ――この女は、偽神の呪詛を受けている……!
 許されざることだった。
 さも当然のように偽神の言葉を舌に乗せる女も、そしてその刃が次々と真なる神の眷属を屠っていくことも、そして何より、その力に心底恐怖している自分が。
 その思いに怒り狂い、彼女の殺害を決意するのと、スートから再度、草馬美空の回収を命じられたのが、同時である。
 表情には出さなかったが、神父の中では疑問と憤りが渦巻いていた。
 何故、抹殺ではなく回収なのかと。しかもコスモ・マトリックスに忠誠を誓っているとはとうてい言い難いあの2人の科学者に協力を求めよなどと言う。神父はその場で叫び出したい思いだった。
 スートの、神父がコスモ・マトリックスで唯一、信奉し尊敬している東洋人である彼の言葉ならば、自分はどのような苦難をも乗り越えてあの偽神の使徒を刈り取ってみせるというのに。
 信頼を受けなかった屈辱に、スートの信頼を得るに足らなかった己の不甲斐なさに目が眩む。
 その激しい憤りに、腹のなかで、もぞり、と何かが蠢く。
 己の身体の明らかな異状に、だが神父は動揺することがない。いつからそうなのかも分からぬそれは神父にとって異常なものではなく、また微かな違和感すらも、彼の怒り狂う内面において大きな意味を持たない。
 スートの声を聞いていても、《門》を監視していても女と戦っていても馬鹿の科学者2人とやり合いながらも、神父はその微動だにしない表情の裏で常に怒り狂っていた。
 神父は、己が何故「神父」なのかを知らない。気がつけば、コスモ・マトリックス総帥に従う連絡役兼部隊長のような真似をしていたというのが正確なところであろうか。
 どのみち、入信前の過去を棄て去るのが正しき信徒の条件である。ついでに記憶を置き忘れたとて未練もあろう筈がない。
 頭の中身を好きに弄くる方法など、それこそOWやウェストに頼らずとも組織の中ではいくらでも用意できるのだ。己の決意表明の証として――或いは、単に俗世からの逃避の完結として――そういう処置を望む信徒は少なくない。神父もまた、自分のことをそうした信心深い誰かの1人であったのだろうと信じていた。
 己の腹の裡で文字通り蠢く異形もまた、神より与えられた祝福の証に他ならない。その正体を知ろうなど、無粋極まる。
 神父は、己の名もありようも識らぬまま、識ろうとせぬままに、ただコスモ・マトリックスを、宇宙の真なる神を信じていた。
 だから気付かない。自分が今、どのような気配を発しているか。
 そんな気配ものを振り撒いていれば、彼らの敵対者がすぐに飛んできて殺しにかかるだろうにも関わらず、だが気配を消す機能も権利も持たされてはいない。
 ただ歪な神父にして兵士であることだけが、彼に許されたことだった。
 雨に滲む視界の中で、それでも美空を運ぶ車だけは見失うことがない。
 ことは覇道邸に着いてから、ウェストが余計な敵を誘き出してからだ。そう言い聞かせて、衝動的に飛び出してしまいそうな己を抑え続ける。
「……いよいよか」
 とりあえずのところ、その条件のうち1つはもうすぐ満たされるようだった。
 神父の視界の端に、爆音じみたエンジンの咆哮を響かせながら覇道の車に迫る、一台のバイクが映っていた。



「……あら?」
 そう声をあげたのは、美空だったかディックだったか。
 計画的なのかそうでないのか、妙に入り組んだビル街をそろそろ抜けて遠くに覇道邸が見えようかという頃。
 美空とディックの間にある微妙な壁がほんの僅か、薄くなり、友人のように打ち解けるまであと一歩、という頃。ただ追い抜き、流れていくだけだった車窓の向こう側に、いつの間にか異物が出現していた。
「うわ……」
 その呆れのような驚きのような、それでいて溜め息じみた声も、どちらのものだったか判然としない。つまりは、どちらが発していてもおかしくないということであるが。
 それは、運転席の後ろに座る美空に近い方の窓、即ち車の左側にいた。映画の主人公が乗るような赤い大型バイクが、彼女らを乗せた車と併走している。
 無論、それが走っていることはもっと以前から認識していた。それの異質さは、彼女らに速度を合わせてぎりぎりまで寄せながら、バイクの運転者が不敵な笑みとともに車内を覗き込んでいることであり、声を上げたのは、そのことにようやく気付いたのだ。
 バイクに跨るその男はこの雨の中ノーヘルで、あまつさえライダースーツの上に白衣を着た、一言で奇抜と言って申し分のない格好をしていた。
 げ、と横で声が漏れる。
 振り返ると、ディックは嫌そうな、と表現するのもぬるいほどに顔を引きつらせ、男を睨みつけていた。
「ディックさん、知ってるんですか?」
「あー、知っているというか知りたくもないのに知ってしまう悲劇というかむしろみんなが忘れたいアーカムの汚点というか……」
「お、汚点って……」
 今ひとつ要領を得ない返答に、再度首を男の方へ。
 男の方は、それで美空達が自分を認識したことに確信が持てたのだろう。白衣をマントのようになびかせながら、男は車内の後部座席を、否、をまっすぐに見据え、懐から何かを取り出す。
(……拡声器?)
 あまりに唐突なアイテムに、美空は首を傾げざるを得ない。
 まあ確かに、そんなものでもなければ閉め切った車内に言葉は届かないだろうけど……などと内心冷静なつもりで評している美空は、やはり混乱していたとみるべきだろう。
 笑みを形作る唇の端をさらにつり上げた男は、すぅ、と大きく息を吸い込み――思い切り吐き出した。
「ヘェェェイそこな小娘アーンド覇道財閥の手先ーズ、こぉこで会ったがぁ――多分お一人様初めまして。時にお嬢さん、今朝方コスモ・マトリックス狂信者の皆さんを全滅させた銃刀法違反物所持者とお見受けしちゃったりなんかして?」
 ひ、と今度こそ美空がディックの如く顔を引きつらせる番だった。
 コスモ・マトリックスという固有名詞に覚えはないが、美空が《門》を通過してきた際に遭遇した眷属達のことと見て間違いあるまい。
 疑問系で喋るわりには男の目は確信に満ち、反論などはじめから許すつもりなどなさそうだ。しかも男の双眸に宿る輝きは糾弾しようという敵意とか憤りというよりもむしろハイエナじみた好奇心に近く。びしょ濡れで顔に貼り付いた髪と相まって、かえってそれが怖ろしい。
(もしかして追いかけられてるの、私? なんで? この人一体……!?)
 疑問が頭を埋め尽くすが、どのみち満足な答えが得られるわけもない。
 人に比べれば、いわゆるオカルトの深い世界に身を置く美空ではあるが、それでもそのオカルトを理論立てて活用しようとか考える業界の住人ではない。神に与えられた個人の能力として、その手の存在に対して多少「鼻が利く」つもりではあるが、そういう魔力だの瘴気だの神力だのといった概念の産物が計量できるような代物だとは思っていないし、さすがに仕留め損ねた神父の残した僅かなデータから、美空を追跡できるとは玄人でも思うまい。
 そういう、非常識の中にあってなお異端なのが目の前の男なのだが、知らぬ美空としては眉を寄せて引きつったままの顔に笑みだか苦しみだか分からないものを浮かべるのが精一杯である。
「つきましては我輩が真心こめてお送りする拉致・洗脳の絶妙なコンビネーションからコスモ・マトリックス略してモマの日本支部に速達ののち現地狂信者兼工作員に言語指導したり総帥のおつかいでメロン買いに行ったりするエンジョイ・アンド・エキサイティングなサクセスストーリーなど如何?」
「サクセ……ええ?」
 発言の意図を斟酌してやるべきか不穏当さに眉をしかめるべきか、はたまたどうやっても意味の通じない支離滅裂さに頭を抱えるべきか。美空はますます混乱する。
 1つはっきりしているのは、この怪しげな男はどうやら自分を草馬美空だと確信して狙ってきたらしいということだった。
 助け――色々な意味で――を求めて、隣のディックの方を見遣る。と、ディックの方でも美空の方にそっと手を置き、尽きせぬ慈愛とどこか自嘲じみた苦みを混ぜたような笑顔でこう囁く。
「こいつさえなきゃ、良い街なんだけどね」
 この世の酸いも甘いも噛み分けた老人のような、無駄に悟った笑みだと、美空は思った。或いは辰人あたりならば、ただの諦観だろう、と一言で切って捨てたかもしれないが。
「あの……」
「ま、これはこれで何とかしないとねー」
 美空が何か言いかけるよりも早く、ディックは掴んだ肩を男から引き離すように引っ張り、美空を抱き寄せる。
 狭い後部座席で2人の顔が触れ合いそうなほどに接近する。目の前の青く透き通った瞳には、悪戯な子供のような残酷さにも似た光が宿り――
(……あ、なんかヤな予感)
 だがそんな感覚に具体的な形を与えるよりも早く、ほんの刹那の後には視線が逸れ、ディックに引き寄せられて座る位置が入れ替わっていた。再びディックと顔を合わせた時には、そこには数時間前に出会った時からある、いつもの軽い表情。
「んん? どしたの美空ちゃん。じーっと熱い視線送ってくれちゃって。お姉様って呼びたくなっちゃった?」
「え、いや、その、それだけは勘弁してください……」
 視線の意味に気付いているのかいないのか、ともあれディックの軽口にいらぬ傷口を抉られて閉口するハメに陥りながら、美空は意識を車外のバイク男に戻す。
 そこでは、喚き疲れたのか、それとも声が聞き入れられないことに見切りを付けたのか。男は拡声器を捨て、今度はバイクに引っかけてある何やら大きな物を取り出そうとしているところだった。
(……ギターケース?)
 なんとなく本能的に、そのギターケース――らしきもの――についての説明を求めてはいけないような気がした。尤も求めたところで、窓を通して美空の声が届くこともなかったろうが。
 男に対する代わりに、質問はディックに向けることにする。
「……どうするんですか?」
「こうするの……よっ!」
 入れ替わり、バイク男に近くなったディックは美空にそう答えながら、ドアの取っ手を掴む。と同時に、運転手の操作によって、カチャ、と小さな音が響く。
「あ……」
 その音が、ドアのロックが解除されたことによるものだと、声を漏らした美空同様に男は気付いたろうか? 否、振り切ろうとする車に追い縋りながら拡声器片手に叫び続けている――それはそれで、驚異的な技術には違いなかったが――中、そんなことに気付く余裕などある訳がない。
 ディックが取っ手を引き、ドアは1段階、外側に向けて「浮」く。男の表情が引きつり、この時初めて異変に気付いたようだったが、既に遅い。
「ちぃぃえすとぉぉぉッ!」
 そして思い切り――蹴り開けた。
「な、なな――」
 泡を食ったのは男である。
 攻撃される可能性を失念していたか、はたまたその方法に驚いたか。辛うじての急ハンドルで開かれたドアに直撃することは避けたが、強運もそこまで。そも、男は運転席の後ろに座る美空へ向けて喋るため、車の進行方向に対して左を走っていたのだ。そこからさらに左へと転進すれば、やはりその先にあるのは似たようなもので。
「――ぬわんとぉぉぉ!?」
 つまりは、中央帯を越えた先にある、対向車線が。
 男は悲鳴をあげながら正面から次々と向かい来る対向車両をぎりぎりのところで躱しながら、そのまま呑まれるようにして見えなくなっていった。
 ふぅ、と安堵らしき溜息をつくディック。
「大丈夫だった? 美空ちゃん」
「え、ええ、まあ……あの、あっちこそ大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、良いの良いの。あれでどうにかなるなら苦労もないし」
「はあ……」
 ごん、がしゃん、とかなり不味そうな衝突音やら破砕音が遠くから響いた気がするが、それがあの男と関わりのあることなのか、既に確かめようはない。
 だが結果がどうであるにせよ、一歩どころか半歩も間違わずとも大惨事になっていたであろう行為を躊躇なく選択したディックに、美空は微かな脅えにも似た視線を向ける。
(この人……実は結構怖い人なのかな)
 それを言うなら、そういう危険な行為に対し、無言のまま阿吽の呼吸を見せた運転手もかなりのものではある。が、これまた指摘するのが躊躇われるので、棚上げにしておく。(……確か、走り出した車って止まるまでドアのロック開かないんじゃなかったっけ)
 車種やメーカーにもよるだろうし、まさかこういう事態にこういう対処をするために改造したとまでは思わないが……
 とりあえず残る問題は、さてさっきの男はいったい何だったのか、ということなのだが。
「あー、あれはね……その……テロリストよ、うん。一言で言うなら」
「て、テロ……!?」
 男が呑み込まれていった車の流れに視線を向けていた美空に、一言で解答が下された。その物騒な言葉に美空はぎょっとする。するが。
(なんか……そういう感じの人にも見えなかったけど)
 真人間に見えないことは確かだったが、あのどこか間の抜けた雰囲気を見せられて「テロリスト」というのもそれはそれで信じがたい。
「最近のテロリストって……ギターケース積んだバイクで人の車追いかけてきて、拡声器でよく分かんないこと叫んじゃうんですか?」
 ディックの方も美空の戸惑いは理解できるらしく、「ま、すぐに分かるわよ」と小さく呟いてから、開ききったままだったドアを引っ張って閉めた。
 納得のいかない美空ではあったが、ことは自分のやったことを正しく言い当てた男についてだ。あまり変に突っ込んで話をするのはやぶ蛇になりかねない。仕方なく、再びシートに身を預けることにする。
 そしてその頃には、彼女らを乗せた車はちょうど中心街を抜けて、前方に大きな門と、そのさらに遥か向こうに広壮な邸宅を視認できるところまで来ていた。
「あれが……」
「そ。アーカムの経済と、あと、ある意味政治の中心でもある覇道財閥の総本山って奴ね」
 その言葉の通り、というべきか。覇道邸は確かにアーカムの中心と呼んで差し支えないほどに大きかった。
 企業ビルのような高さはないが、遠目に分かるほどに、とにかく広い。
「……え? 門、入っちゃうんですか?」
「そうよ。玄関までもうちょっとあるからね」
 ことに、門から玄関まで車で走らねばならない距離があるという事実は美空をなんとも言い難い気分にさせた。
 一端停まったかと思うと、運転手が門に備え付けられたインターホンのような装置と2,3言葉を交わしたのち、開いた門を潜ってそのまま発車した時には、ただの外国というだけではない、明らかな別世界に入り込んだことを感じさせた。
 いわゆる旧家である草馬家で生まれた美空ではあるが、古くはあっても商家ではなく少々込み入った背景を持つだけの武家であるし、仮に多少の財産を持っていたとしても、さすがに世界一の富豪とは比較にならない。
(そういうお金持ちのお宅に呼ばれて、何話せばいいんだろ……)
 怪しい男の襲撃――のような、そうでないような――で中断された思索を再開させるも、良い案は浮かばない。むしろ、先ほどの男が叫んでいた言葉をディックが真に受けていれば、状況はさらに混迷するだろう。
 隣に座り、やれやれとばかりに溜息をつくディックに視線に走らせてみるも、表情は読めない。男の言葉を聞き漏らしたか、戯れ言と受け流したか。それとも――
(――ふう)
 美空もまた、溜息をつく。
 この二日間、色々なことがありすぎて、しかも、これからもまだ気が抜けないという。
(これも辰人の中の奴が引き寄せた混乱……なんだろうなあ。けど……)
 そう、けれど。何故だろうか、これから会う「覇道財閥」は、言うほど心配するような相手ではないような、そんな予感はしていた。
 それは、今の自分が神の思惑から外れているという奇妙な確信と同質のもので、覇道という名にはどうしたわけか警戒心があまり湧かないのだ。
 エアーズロックで見たことを全てありのままに話せ。そう要求してくる彼らに協力するのは、美空にはひどく勇気の要ることだ。だが、それでも――ほんの僅か、ほんの一歩踏み出すことで、辰人との距離が近くなるのなら。
(きっと行くから……それまで、辰人……どうか無事で……!)
 直感か、それとも単なる願望なのかは分からないが、そうだったらいいと祈ることに罪はあるまい。愛する者とすぐに再会することを願うほど美空は夢想に浸れるたちではなかったが……それでも、祈りくらいしか彼の無事を保証し得ないのなら、やはり祈るしかないのだ。
 が、さて何に祈るべきかと考えたところで、はたと気付く。自分が仕える神は少々堅物過ぎて願いを叶えるという柄ではないし、次に身近な神といえば性格が悪すぎて正直アテにならない。
 祈るのに妥当な神がいないことに少し困ったが、それでもとりあえず、美空は祈っておくことにした。
 世の中には溢れかえるほどの神がいるのだ。その中には宗教もなく、名前もない、よくあれかし、という祈りに答えてくれるかみさまの1人くらい、いたって良いはずだ。
 そうでなければ、自分が必死になる意味だってなくなってしまう。



 さて、そういう神が果たしているのか否かはともかく、未だ美空の切なる祈りは叶えられる時にはない。
 目的地が見えたことに小さな安堵を感じていた美空は、しかし直後にその日最大の驚愕に見舞われることになる。
 馬鹿馬鹿しいまでに巨大な轟音が、アーカムを震撼させたからだ。


   4


 そして、今に至る。


「ドォクタァァァァァァァァァ――」
 巨人が大地を踏み鳴らすかのような地響きが、雨音を掻き消しながら、爆音と破砕音と何者かの絶叫と、そして明らかに場違いなエレキギターの音色を運んできた。
 誰もが、を見上げて悲鳴を上げた。顔を引きつらせ、逃げ惑った。
 外を歩いていた者は全力で離れ、窓から間近に見てしまった者は恐慌を来したように叫びながら家から飛び出し、持ち歩ける限りの財産を抱えて涙ながらに走り始めた。遠目に見た者も慌てて家財道具をかき集め始める。
 その挙動1つで街を大混乱に陥れた存在の出現に、天下のアーカムシティの住人は揃って頭を抱えた。
 そして一様に心の中で思った。或いは呟いた。大声で叫んだ。
「――ッ! ウェェェェェェェェェスト!」
 いい加減にしてくれ、と。

 それは、ドラム缶に似ていただろうか。
 灰色に鈍く輝く円筒状のに、同じく金属製らしい脚と、ショベルカーか工業機械用ロボットを思わせるアームが数本。あろうことか、そのアームの先にはドリルが装備されていた。
 ドリルといっても、工事現場で一般的に見かけるような細長いものではない。辛うじて鋭角と呼べるような円錐状の物体に螺旋を刻み、高速で回転させているという、まるで玩具のような代物である。
 だが風を巻き込み、轟音を響かせて唸りを上げるそれに破壊力を見出さぬ者はいまい。触れたが最後、豆か虫けらのような人間など一息の暇もなく粉微塵と化すことは間違いないだろうと思えた。
 そう、大きいのだ。非常識なまでに。
 ドリルを云々するよりもまず、踏み潰されることを危惧せねばならぬほど、その歩くドラム缶はあまりに巨大すぎた。
 全長が100メートルを超えていることは間違いない。或いはその倍ほどにも届くだろうか。アーカム名物の高層ビル群の中にあってもなんら見劣りすることのない、あまりにも荒唐無稽な鉄の塊が夜の街に雄叫びを上げていた。
 そのドラム缶から――各方向に向けてスピーカが設置されているらしい――は、街中に届けとばかりにかき鳴らされるギターと、その合間に発される男の叫び。
「さあッ! お仕事疲れの哀れな愚民の皆さんお待ちかねぇッ、やって参りました新ロボ・マッドサイエンティストは夜からの短い時間で御座いますがぁ――(暴れッぷりを)魅せます! (ミサイルを)出します! (ドリルを)回します! 日頃の感謝の証になんと全弾高破壊力設定、安全装置も弛みまくりで御座います! 皆様、ジャンジャン、バリバリ、ジャンジャン、バリバリ、この大・天・才! ドクター・ウェストが織りなす涙とトラウマと阿鼻叫喚の渦をどうぞ心ゆくまでお楽しみ下さるがよい!」
 聞き間違えようはずもない。覇道とは全く違う意味で、彼のことを知らぬ者はこの街にはいなかった。ドクター・ウェスト。アーカムが抱く混沌を象徴するかのような、自称「世紀の大天才」の破壊魔である。
 その破壊魔が日常的に――そう、あまりにも日常的に――持ち出す巨大なロボット、通称「破壊ロボ」による襲撃が、今回もまた始まってしまったのだった。
 ウェストは破壊ロボの内部で、迸る激情のままにギターをかき鳴らす。
 すると、その音に応えるようにして破壊ロボはアームを一杯に広げ、頭部――といえるのかどうか甚だ不明ではある、ドラム缶の上部――を回転させ始める。
 先ほどよりもボリュームを上げる轟音と爆音。そして、さらにそれを上回らんばかりの悲鳴や怒号、泣き声など、住人達の混乱が世界を支配した。
 破壊ロボの上部には数十の機銃がぐるりと全方位に設置されており、それぞれが上部の回転とともに街に向けて火を噴いたのである。
 ギターの音色を発する破壊ロボの全方位スピーカーが、それまでと違うフレーズを響かせた。
 やはり破壊ロボはそれに応えるように、腕を振り上げ、高速回転するドリルを手近なビルへと振り下ろす。ビルはがらがらと音を立ててまたたく間に瓦礫の山へと姿を変え、混乱を加速させた。
 まさしく、ウェストの言ったとおりの阿鼻叫喚である。
 ここがアーカムシティでなければ――つまり、日々の訓練と実戦と、そして屈辱きわまる「慣れ」による警官達の迅速な避難誘導と、同じ理由による住人達の逃げ足の速さがなければ――、被害は数千にも及ぶ大惨事となっていたに違いない。
 ウェストがギターをかき鳴らすたび、破壊ロボは異なる挙動を見せ、異なる対象を破壊する。そうして無差別な破壊を続けながら、ウェスト自身は各方位の映像を映し続けるスクリーンを高解像度モードにして、逃げ惑う人々の群れに素早く視線を走らせていた。
「ふはははは! さっきはよぉくもやってくれたな覇道の犬め。まさかこちらが武器を取り出す前に先制攻撃とはさすがの我輩もどちらが正義の味方か忘れようとしても思い出せない不思議だけれど本当の話」
 戯れ言を吐きながらも、ウェストの頭は対象の移動速度と経過時間から、今、対象がどこにいるかを素早く計算している。と言っても、覇道の車に乗っていたことから考えて、目的地は本社ビルか屋敷のどちらかと見て間違いあるまい。走っていた道路も考慮に加えれば、そう考えることが多くないのも確かだ。
「だァがしかし、なんとしても刀の女を手に入れるべく我輩は屈辱と地獄と交通事故の中から這い上がりスーパーウェスト無敵ロボ28號2005〜理ある故に無防備、必ず勝てる〜を起動、しかるのちに暴走。このパワーから逃れられると思うのは甘いのである!」
 甘いも何も、相手はまさか生身で撃退された敵が巨大な都市破壊用ロボットで追いかけてくるとは露ほども考えていないのだが、ウェストはそんなことに頓着する性格の男ではない。どのみち、聞かせるつもりで呟いた言葉でもないが。
 この広いアーカムを虱潰しに女1人探すような真似を、ウェストは初めから選択肢に入れていない。コスモ・マトリックスによるデータ提供もあるが、ことウェストに限って言えば、電子機器による魔力の観測・数値化などさしたる技術革新でもない。神父の持ち帰った情報と合わせて個人を追跡し、大まかな位置を割り出す程度は、実のところ簡単なのだった。
 あとは直接自らが現地へ赴き、人物を特定するのみである。
 そこまで考えておきながら、結局は何の根回しもなく、力押しと呼ぶのも馬鹿馬鹿しくなるような手段に頼ることになるのが、ウェストのウェストたる所以ではあるかもしれない。
 要するに根っからの目立ちたがりなのだ。
「うむ、さすが我輩、急拵えの魔道素測定機も思いの外絶好調。この調子でデータ採取しまくりつつアーカムシティを蹂躙しつつ覇道邸へゴー。確かな物に出逢える日まで。愛だと気付く日まで。しょぉうみぃざうぇいとぅゆぅぅぅりぃぃどみぃなうふぇあゆぅあぁぁぁ♪」
 ターゲット捜索の進捗ではなく、己の作品の出来映えに、ウェストは機嫌良さそうに歌いながらギターを爪弾く。そして破壊される街。響く轟音。広がる悲鳴。
 誰の目にも明らかな、才能の無駄遣いであった。

 アーカム市民とて、ただ指をくわえてこの破壊劇をいつもいつも眺めているわけではない。
 マサチューセッツ州警察がその能力と統制において評価対象を合衆国全体に広げても随一と言われるのは、覇道という政治に深く関わった富豪の力も大きかったが、何より度重なる破壊から市民を守ってきたという誇りがあるからである。
 アーカムには市内の各所に地下防災シェルターへの入り口があり、区域ごとにどこへ避難するか、道が塞がれたときはどうするのか等、事細かに決められており、警官達による対応も迅速である。
 事実、ウェストの破壊ロボが現れてから彼らが出動し、市民を避難所に誘導するまでには30分とかかっていない。またそれだけの対応能力が警察、市民の双方になければ、人的被害は甚大な物になっただろう。
 ただ悲しいかな、アーカムを誇る武装警察をもってしても、市民を守ることはできても、いかんせん市民の財産を守ることはまったくと言っていいほどできていないのが現実でもあった。
 装甲車両が数台、時折小さな射撃を繰り返しながら破壊ロボの周囲を走っているのだが、撃退することはおろかダメージを与えることすらかなわない。
「……フン」
 それではつまらんのである、と口の中で呟く。
 無差別に住民を虐殺することは彼の本意ではない。ないので、住民が避難すること自体にはなんら不満はないのだが、だが彼の破壊活動に悲鳴をあげる者も対抗する者もいないのでは面白くないし、何より張り合いがない。
 と、そう思いながらも、コクピットに響く、破壊ロボの装甲を叩く銃弾の音を聞くのもそれはそれで楽しいと感じているのが、ドクター・ウェストという人間なのではあるが。
 自然、ギターを爪弾くウェストの指にも力が入る。
 破壊ロボはそれに応え、その巨大なドリルを上から叩き付けるようにして振り下ろす。突き刺す動作としては相応しくないが、目標となった装甲車にしてみればそんな大質量のハンマーがどんな形状であろうが同じこと。悲鳴をあげて飛び退いた警官達の目の前で、装甲車はドリルの重量に押し潰されると同時に回転に巻き込まれ、あらぬ方向に破片を飛び散らせながら粉砕された。
「ふは、ふはははははは! 武装警察なにするものぞ!」
 そもそもからして対物狙撃銃を持ち出すのがせいぜいの警官隊に、破壊ロボの相手などできようはずもない。12.7mm弾に対戦車の名を冠する資格がないのは何十年も前に証明されているのだ。
 いや、たとえ戦車砲を用いたとしても、破壊ロボのあまりに常識外れな分厚い装甲を貫通することができたかどうか。どこか間抜けでコミカルな外見とは裏腹に、今、このアーカムにおいてウェストの破壊ロボは事実上の無敵を誇っていた。可能な限り迅速に市民を誘導して避難させ、ひとしきり暴れて飽きたか疲れたかしたウェストが勝手に帰るのを待つしかないのが、アーカムの治安を守るはずの武装警察にできる全てであった。
 怪獣映画よろしく街を踏み潰し薙ぎ倒しながらゆっくりと覇道邸に向けて歩む破壊ロボを、誰も止めることができないのだった。
 前方に覇道邸を視認したウェストはカメラを操作し、望遠倍率を上げる。そして、その玄関先でぽかん、と口を開けて固まっている女を画面に捉えた。
 にやり、と笑う。
「見つけたのである――レェッツ・アァブダクション!」
 雄叫びとともに、ウェストはギターをそれまでにも増して激しくかき鳴らし、破壊ロボもまた、展示用のスタンドかと思えるほどに短く細い脚は意外にも柔軟に屈伸し、胴体下部の噴射口が火を噴く。
 そして空を覆わんばかりの巨体で、目標に向けて跳躍。
 跳躍、しようとした。
「――ぬぅっ!?」
 だがウェストは何を思ったか、ぎりぎりのところで心変わりし命令をキャンセルする。
 全力で以て踏み留まろうとするが、足はともかく、噴射したバーニアはそう簡単にエネルギーを相殺できない。バランスを崩してたたらを踏んだ破壊ロボは、近くのビルを数棟潰して辛うじて姿勢を保つに至った。
 ウェストがそうまでして破壊ロボを押しとどめた理由は、勘以外の何物でもない。
 目に見えず音にも聞こえず、先ほど自画自賛したばかりのセンサーにすら未だ反応がない。だが厳然と、そこには踏み込んでは駄目だと、戦士ならぬウェストにすら分かるほどに明確な「嫌な予感」が、そこには蟠っていた。
 しばしして、から、声が発された。
「……残念だ。もう一歩踏み込んでいれば、苦壊行いずれの苦も無くその生を全うできたのにな」
 ウェストが凝視していたその空間が、
 そう見えたのは、一瞬のことだったろう。いや、実際に空間が裂けるなど喩えるべき現象が起こったのかすら、定かではない。
 裂けたのは、途切れたのは空間というより、雨だった。視界を走る幾万幾億もの水の線が、その空間に限っては存在しなかった。
 そこにあったのは、光すら通さぬ漆黒の大穴。巨大な獣が欠伸でもしたかの如きその口が刹那のうちに閉じられたあとには、ウェストの破壊ロボにも増して奇怪な、生物とも機械ともつかぬ異形があった。



「――来たな」
 飛び出す機を今か今かと耐えて待ち続けた神父は、異形の出現を見て、ウェストが思った通りの役割を果たしたことに満足した。
 あとはあのドラム缶が撤去される前に、己の役目を全うするのみ。
 その滅多に動かぬ顔に兇相を覗かせ、神父もまた覇道邸へ向けて移動を開始した。


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