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2006/01/13

Recurring Nightmare 第21話「Shatterstorm」

   1


 その光景を遠目ながら、覇道が寄越した車の窓から目撃した美空の心情を言い表すに、驚愕という言葉ではいかにも単純極まり、また舌足らずであったろう。
「なに……あれ」
 手足を持ったドラム缶である。
 ミサイルと機銃とドリルを備えた歩くオブジェである。
 巨大ロボットなのである。
 これが例えば、同じくらい巨大な奇怪かつ醜悪な百足や、巨大な蛸であったりしたなら、そう、本物の異形、化け物であったならば、美空は刀を構え、ソレを抹殺する旨、口上の1つも涼しげな顔で言ってのけることができたろう。
 或いは例えば汚穢なる魚人やら、不定形で悪臭を放つ智慧だけは達者な汚物やらが街を埋め尽くしていたとしても、美空は嫌悪しながら、悲しみながら、怒りながら、それでも些かの恐怖も見せずに全てを斬って捨てる自信があった。
 ――が、鈍い輝きを放つ巨大な金属塊に相対する心の準備は、さすがにできていなかったようだった。
 冗談でも比喩でもなく、くらっ、と眩暈がした。
 神の陰謀の怖ろしさだとか愛する人を守る悲壮な決意だとかディックの優しさに感動したことだとか、何もかもが台無しにされた気分だった。
「は、はは、ははは……」
 唇を引きつらせて乾いた笑いを浮かべる美空の肩に、柔らかい手が置かれた。振り向けば、そこにはディックの優しげな――どこか諦観を滲ませた、と表現すべきかもしれないが――顔がある。
「コレがなければ、ほんと良い街なんだけどね」
「あ……やっぱり初めてじゃないんだ……」
 がっくりと肩を落とす。
 ディックはそれ以上ロボットについて触れようとはせず、ドアを開けて美空を手招きした。
「え、あ、あのっ!」
「話はあとあと。とりあえず避難が先決っと」
 そう言われては、美空も黙るしかない。
 あまりの驚愕に車が既に停車していたことにすら気付いていなかった自分を恥じながら、そそくさと降りる。
 街の方角では、ドリルの付いたドラム缶型破壊ロボが名の通り破壊の限りを尽くし、アーカムシティの象徴ともいえる高層ビル群を次々と倒壊させていた。
 ウェストがギターをかき鳴らせば機銃が歌い、ウェストが一声号令をかければミサイルが空を舞い、破壊ロボが一歩踏み出すごとにドリルが何かを粉砕した。
 正気を失った怪獣でもこうはするまい、という暴れぶりである。そのくせ、ただ暴れることが目的ではなく、まっすぐ、ゆっくりとだが美空達のいる覇道邸へと向かってきている事実に「これからお前がこうなる」と言われているようで怖ろしいことこの上ない。
 無論、ウェストの目的は美空の抹殺ではなく拉致であり、街を破壊するのは単なる彼の趣味に過ぎないのだが、初めてこの光景を見せられた美空からは、既に状況を正確に把握しようという発想は失われていた。
 美空のできることは、痴呆のようにぽかん、と口を開けて、遥か遠くから一歩一歩迫ってくる巨大な破壊者を見上げることだけだった。
 爆音と破砕音を撒き散らしながら歩く破壊ロボの奥、見えるはずもないコクピットの中の男と目が合ったような錯覚が、さらに美空の背筋を凍らせた。かと思えば、それに立ち塞がるようにして現れた異形もまた、美空の度肝を抜くには十分な威容であった。
「ネクロノーム……!?」
 美空の肩を抱くディックの呟きが、耳慣れない言葉を紡いだ。
 それは目の前の破壊ロボと、否、怪物という抽象的な言葉と比べてさえ、奇怪としか言いようのないフォルムの巨人だった。
 頭部の角は巨大な山羊か羊のようでもあるが、向きは前後が逆であり、胴体もまた、動物の化石を模したような構造が見えたかと思えば途中から戦車の装甲のようなもので覆われている。金属のような甲殻のような、不思議な光沢を放つ棒状のパーツが何本も背中から生えているが、いかなる意図を持ってそう生まれたのか分からない。曰く「これ」という正しい表現を使いがたい、ただ頭と二腕二足をもって「人型」と呼ぶのが精一杯の何者か。
 ただ1つ言えることは、あまりにも巨大すぎるウェストの破壊ロボに比べれば小人の如き17メートルの矮躯しか持たぬその異形はしかし、些かも劣ることのない存在感と、不気味な力強さを醸し出していることだった。
「ねくろ……のーむ?」
 聞き覚えが全くないわけではない。薄い印象の言葉ではあるが、数年前にニュースで流れていた奇怪な単語が、似た響きを持っていた気がする。
「前に、教祖がテロの首謀者だったってことで破防法が適用された新興宗教が涅懼髏之夢ネクロノムとか……」
「そうね。先の大災害の元凶、なんて怪情報が飛び交った、そのネクロノームだわ。尤もアレにかかったら気象コントロール兵器だって地震発生装置だって津波爆弾だって、オカルトにすらならないけど。……けど良かった。気難しい奴だって聞いてたけど、とりあえず今回は助けてくれるみたいね」
「え……助ける?」
 確かに、構図からすると襲いかかろうとした破壊ロボから美空達を守ったように見えなくもないが。
 だが詳しいことを聞き返す余裕はない。
「さ、美空ちゃん、今のうちに」
「は、はい」
 美空はディックに手を引かれ、覇道邸の扉を潜る。
 玄関で出迎える女性の格好がいわゆる「メイドさん」のそれであることにまたもや異次元空間に迷い込んだような眩暈を感じながら、美空達はそのメイドに案内されて応接間へと続く長い廊下を歩き始めた。



「ええい貴様何やつ、我輩の華麗なるジャンプの着地点に地雷を埋めるような真似をするのは! 何者だ、名を名乗れい!」
 顔を滑り落ちてゆく冷や汗を感じながら、ウェストは喚き散らした。
 その視線の先では、破壊ロボからすれば知らずに蹴り飛ばしてもおかしくないような、小さな人型ロボットがゆっくりと上昇し、その存在を誇示するように両の腕を広げているところだった。
 その姿。まるで背後の覇道邸を守らんと精一杯に盾を広げているようにも、はたまた観衆へ向けてパフォーマンスを始める芸人のようでもある。
 ウェストは無意識に、ごくりと生唾を呑み込んでいた。
 破壊ロボより遥かに小さいとは言っても、全長20メートル弱はある。溢れるほどの躍動感に満ちたその巨大な人形を建造する技術を、コスモ・マトリックスやウェスト以外が有しているとは考えられない。
 さらには、刀の女を捜索するため急拵えで仕上げてきた魔道素測定機が対象に激しい反応を示し、メーターが完全に目盛りを振り切っているとなれば、油断できる相手などであるはずがない。
 沈黙を守る異形の人形に、ウェストは再度、誰何の声を放つ。
「名乗れというのが聞こえんというのか逆山羊イソギンチャク! この世紀の大天才、ご町内の皆々様に溢れる愛のあまり唾を吐かれるマッドサイエンティストのドクター・ウェストに初めて立ち塞がる正義の味方が無言でどぉぉぉする!?」
 言葉を吐き終えるや否や、ウェストは抱えるギターに指を這わせ、素早く爪弾く。それまでにも増して激しく攻撃的なフレーズが拡声器を通してアーカムシティに響き渡り、破壊ロボの上部が高速で回転を始める。
 回転しながら火を噴く機銃。タタタタ、というタイプライターじみた古臭い発射音に混じり、連続した爆音が響いた。胴体にいくつもの穴が開き、次々とミサイルが発射される。
 数十発のミサイルは風切り音と炎を吐きながら、空中に無言で静止したままの異形へと突き進む。
 一直線に飛来したミサイルが異形を捉えるかに見えた、その瞬間になって初めて、異形は目立った動きを見せた。
 真横へと一杯に伸ばされていた両腕が、まるでミサイルに引き寄せられたかのように正面へと動いた。広げられた掌は瞬時にして霧状の何かへと変質、消滅し、穴の空いた手首がそこには残る。
 それは、両腕という名の2つの銃身にも見えた。

 ――――!

 およそ人にも獣にも発音し得ぬ、金属が擦れ合うような、それでいて風鳴りのような甲高い咆哮が響いた。と同時に、聞こえるはずもない、どこかで引き金が引き絞られ、撃鉄の落ちる音をウェストは確かに聞く。
 ミサイルを迎撃するため、何かを撃ち出すのか――そんなことを考えたウェストだったが、しかしその銃口からは弾丸が発射されることはなかった。……少なくとも、目に見える物体は何も。
 だがその異形の眼前では、まさしく怪異という以外にないような現象が発生していた。金属とも非金属ともつかぬ奇怪な引き金とともに、腕の先では空間が引き裂かれた。
 無論、空間の裂け目そのものを視認することなど人には出来ない相談である。だがそこには厳然と、そう表現するしかないような穴が、本来そこに見えるはずの雨も景色も異形の姿も許すことない黒とも紫とも言い難い空間が広がっていた。
 ミサイル群が雪崩のように押し寄せたのは、その一瞬の出来事の後だった。
 勢いのまま着弾し異形を爆砕せしめる筈のミサイルは、まるでそこから先は違う場所であるかのように、異形への接触を果たす物は1つもなく、奈落の底へと落下するが如く、次々に消滅した。
 驚いたのはその光景を逐一見守っていたウェストである。
「んなぁッ!? なななななな――」
 目を見開き、コクピット内のサブスクリーンに記録映像を出して何が起こったのか解析しようとする。
 が、その行動は間違いである。目の前の異形がミサイルを消失させた以外にこれといった反応を見せないからと言って、事態が収束したわけではないのだ。
 コクピットにサイレンを模した警告音が鳴り響き、危機を知らせる。
「なぬ――――!」
 慌てて対応しようとするが、既に遅い。
 コクピットを激しく揺るがす衝撃が奔るその瞬間、ウェストがスクリーンに見たのは、破壊ロボのから迫る、何故か己が発射したのと同じ数のミサイル群だった。
「な……ん――――ぶふッ!?」
 コクピットの振動緩和システムの許容量を超えた衝撃が操縦席を貫き、ウェストは放り出されて内壁に激突、さらにバウンドしながら転がる。
 正面に向かって飛ばされたために真っ先にぶつけ、だらだらと血を流す鼻を押さえながらウェストは苦痛に呻く。
「うぐぐぐ、今のはまさしく我輩特製ミサイルシャワーの洗礼。畳を一枚めくった先の開拓星で巻き起こるスペクタクルの中、加速の果てに惑星を一周、悪漢から逃げたと見せかけて背後から奇襲したスーパーマンの如き見事な反撃であるが、はて、我輩にも何が起こったのかハテナマーク……」
 意味のないことを喋りながら、ふらふらと立ち上がろうとする。が、その時になってウェストは足場の様子が変なことに気付いた。
 具体的には、立つべきところに立てないというべきか、本来立てるはずのない場所に立とうとしているというべきか。
 まるでコクピット全体が傾いているかのように。そしてその傾きが少しずつ加速しているかのように思えるのは気のせいだろうか?
「ぬははは、まさかそんなはずは――ひぃッ!?」
 ――あった。
 ふと振り向いた正面スクリーンには、ぐんぐんと怖ろしいスピードで近付いてくるアーカムシティの舗装された道路が映っていた。
 ふわり、と身体を襲う、どこか嘔吐感にも似た浮遊感。
「あ……我輩、飛んでる――」
 そんな現実逃避じみた呟きが彼を救うはずもなく。
 再度コクピットを走り抜けた衝撃が、ウェストの身体を跳ね回らせた。


   2


 さて、覇道邸前での異形の出現に目を丸くした者は、遠くにもう1人いた。
「なんと、ありゃネクロノームではないか!?」
 誰あろう、破壊ロボが交戦状態に入ったという知らせを聞いて、周囲を基地からモニタリングしていたドクターOWである。
 破壊ロボの各部に設置されたカメラからの映像には、生物とも機械とも判じがたい、いかなる狂気の神が創り給うたかも知れぬ脈打つ金属の人形が確かに映し出されていた。
 それを見たOWの顔には驚愕と憎悪と、そして隠し切れぬ歓喜があった。まるでクリスマスの朝に枕元でプレゼントを見つけた子供のように目を輝かす。
 あれが姿を現したのは、何年ぶりのことであろうか。
 幾度か邪神崇拝結社の儀式を妨害しに現れたという話は聞いたことがあったが、〈火〉や〈土〉がほとんどで、時折〈風〉が目撃された程度のこと。だがモニターに映っているのはそのどれでもなく、また一度はコスモ・マトリックスによって捕縛された〈水〉でないことも確かだ。
 つまり、残るは彼らのリーダー格と目される坊門啓が操る〈空〉のネクロノームと見て間違いなさそうだった。
「ほお。彼奴め、アーカムに来ておったとはな。逃げ回るのに疲れて覇道の庇護でも求めに来たか。テロリスト風情が」
 実のところ、コスモ・マトリックス内部においても、5基のネクロノームが過去の大災害の原因とする説を信じている者は多い。
 真実を伝えるべき情報が錯綜したまま、ネクロノームが姿を消したことも理由の1つではあったが、何よりもネクロノームを手に入れんと追いかけていた総帥が死亡し、組織として瓦解寸前に陥っていたのが大きい。
 その組織をいつの間にか掌握した間桐臓硯という男についても、黒い噂は絶えないのだが……しかしOWは、他の者ほどには臓硯を疑ってはいなかった。興味がない、と言い換えても良い。
 もとより、OWは美しき前総統スカーレット・ルミナスの、どこか作り物めいたカリスマにさほど魅力を感じていなかった。今更、あからさまに胡散臭い爺が手綱を握ろうとて、むしろ人間味が増そうというものだ。
 今も昔も、OWの目的はただ1つ。
「ふ、はは、ようやく、ようやく、機が巡ってきおった。ネクロノーム、ネクロノームめ! ついにわたしの前に姿を現しおったか!」
 己の力の証明である。
 さらに言えば、以前はそれほど興味を惹かれていなかった対象であるネクロノームにも、認識を改めざるを得ない事件をOWは経験している。
 なにせ、それが元で彼はのだから。
 そんなOWにとって、ネクロノームに勝利することは姉小路優子の洗脳などよりも遥かに優先されるべき事項であった。
 奇しくもOWがモニターで目撃したのは、ウェストの破壊ロボによるミサイル攻撃が無効化、そしておそらくは破壊ロボの背後へと「転移」したミサイル群が襲いかかる瞬間であり、破壊ロボが無様に倒れ込むところである。
 人をさんざ馬鹿にした挙げ句、自信満々で出ていったウェストがこうもあっさりと苦汁を嘗めさせられているかと思うと、OWは小躍りでもしたくなるところだ。尤も、本当に踊り出せば、OWの枯れ木のような手足は1,2本覚悟せねばならないだろうが。
 それはさておき、ともかく彼は、ウェストが始めた対ネクロノーム戦に横槍を入れることを既に決めていた。
 壁の通信機にスイッチを入れ、マイクに向かって大声で呼ばわる。
「これ、誰ぞおらんか。わたしだ、ドクターOWだ」
 スピーカーから返事があり、別室に控えていた信徒が飛んでくるまで、1分とかからない。
 宗教結社に近い形態を取りながら、それでいて科学者を優遇するあたりがコスモ・マトリックスの良いところだとOWは思っていた。
「御用でしょうか、ドクターOW」
 やって来たのは、若い男だった。20代の後半にもなってはいまい。
 不名誉な例のあだ名で呼ばれたらどうしてくれようかと思っていたが、まともそうな対応にOWは気をよくする。
「オールド・ハリーを出してくる。わしが格納庫に行っておる間、そこの――」
 そう言って、ベッドに寝かされた優子を見遣る。
 シーツをかけられた胸が、規則正しく上下している。眠っているようにも見えたが、実際のところは薬で意識を奪っている状態で、扱いには細心の注意を要する。
「――アネコウジ・ユウコ嬢を見ておれ。間違っても変な気を起こすんじゃないぞ」
「は、了解しました」
 若い信徒は、その若さに見合う血気か、或いは生来の真面目さでもって、はっきりと答えを返した。そこにいちいち好感を抱くOWでもないが。
 ……と。
「――む?」
 ひやり、と白衣を通して身体を撫でた妙に冷たい空気に、OWは立ち止まり、ベッドへ振り返った。
 そこでは、姉小路優子が相変わらず静かに眠り、或いは覚醒し、衰弱して動く力もないまま、視線を彷徨わせていた。
 先ほどまでと、なんら変わることがない。
(気のせい……か?)
 首を捻るも、答えはなく。
「寒いか?」
「は? いえ、快適だと思いますが」
 青年の言葉にふむ、と顎を撫で、しばし考えたのち、そうか、とだけ答えた。
「検査の用意もしておれ。彼女に何かあってからではことだ」
 そう指示を出した時には、OWの意識は念願のネクロノームに飛んでいる。
 了解の返事を背中に受けながら、OWは足早に部屋を歩み去った。
「ふ、ふふ……待っておれよオールド・ハリー。今、存分にその力を発揮させてやるからな」
 歯を剥き出しにして笑う髑髏のような顔に、喜色を貼り付けて。



 アーカムにおけるコスモ・マトリックス基地は、そう古いものではない。
 活動の拠点となる施設、という意味では集会堂の1つや2つこさえる程度の影響力を以前から確保していたが、このアーカムから数キロ西に離れた渓谷地帯の地下に基地を建造したのは、およそ120年ほど前に落下した隕石の、その土壌の特異性との因果関係を研究するべく派遣された調査チームがこの地にキャンプを張ったことに端を発する。
 当時は数人の研究員が寝泊まりするだけのテントだったものが、派遣される人数の増加とともにプレハブになり、鉄筋コンクリートの研究所になり、そしてあまりに巨大な地下施設へ、という変遷の道を辿る。
 アーカムに常駐する信徒の数が増えたのには、その後の覇道財閥の躍進と、そして件の財閥による出資で、忌まわしくも冒涜的な偽の神を奉ずる狂気の集団ウィルマーズ・ファウンデーションの勢力が拡大したことが大きい。
 研究所の所員という名目で、監視や工作を目的とした人員、特に武装戦力の投入を続け、その人数の増加はアーカムの急速発展の煽りを受け、ある意味本拠地にも次ぐほどの規模を誇る巨大地下基地の建設へと至ったわけだ。
 当初の目的である地質調査に関してどうだったか……と言えば、実のところ大した成果が上がっていないのが現状である。
 ミスカトニック大学の教授達がそうしたように、コスモ・マトリックスが独自に編成した調査チームは、柔らかい隕石からその一部を切り取って持ち帰り、やはり同様にその鉱石の奇妙な発光と奇妙な発熱性質と、そして奇妙な消失を目撃するに留まった。
 その後、その土地に起こった一連の出来事についても、やはり大した考察を進めるには至らない。何故なら、ことの当事者達は隕石落下から1年を過ぎる頃には既に死亡しており、周辺に住む住人達にしろ、ろくに話をしようとはしなかったからだ。
 唯一、証言を取ることに協力的だった老人がその生を終えるまでに彼から得られた世迷い言のような荒唐無稽な話こそが、調査チームが知ることの出来た最後の有益な情報と言っても過言ではないだろう。だがそれとて、今にしてみれば半世紀以上昔のことである。
 その土地は火事か、または強酸性の液体を零した後の染みにも似た地表を剥き出しにし、長きにわたって草一本根付くことすら許さなかった。
 コスモ・マトリックスのキャンプに参加した学者による住み込みの植物栽培実験も行われたが、その結果は、実験に使われた全ての植物が灰色の何か良く分からない脆い組織へと変質し、1ヶ月を待たずして崩れるようにして枯れてしまったことと、学者の変死という結果が残ったのみだった。
 荒野と草原の境界線近くに生えた草にも似た傾向が見られ、夜間にはおぼろげに不可思議な色を発するという目撃例もなされた。林に至っては、木々の枝が風もないのに揺れている、といった噂も立つ。
 動物は決して近寄ろうとはせず、特に荒野の中心にある井戸跡に無理に近寄ろうとすれば恐慌を来すほどであったという。
 そうした怪異がなりを潜めることになったのは、その荒野を含む谷の半分ほどを貯水池にするという、覇道財閥主導の工事計画が実行に移されてからだった。
 要するに怪異の原因に誰かが触れる事例そのものが減ったのだ、とも言えようが、しかし貯水池の水には、その底に沈んだ井戸から汲み上げられたような悪臭も苦みもなく清潔そのものであり、その日を境に周囲の植物が謎の胴枯れ病にかかることもなくなったことは事実だった。尤も、既に謎の汚染を受けた水底ではやはり、今もって藻の類も見当たらないのだが。
 小さな建物に過ぎなかった研究チームのためのキャンプを貯水池よりもさらに地下深く掘り進めた場所に移設したのは、それからのことである。
 果たして、そこまでして居座るべき場所だったのか、という問題については誰も答えを出していない。一般の信徒は勿論、上層部ですら、いつそんなことが決まったのか覚えている者がいるかどうか。気付けばそこにあった、というのが正確なところかもしれない。無論、そんなはずはないのだが。

 地下基地の長い廊下を、OWは1人歩く。
 さながら髑髏を頂く枯れ木の如きその身体は一時たりとてまともなバランスを保つことはない。車椅子にでも座って移動するべきなのかもしれなかったが、プライドが高いのか、それとも単なる習慣でか、彼は己の足で歩くことに固執する。
 その歩みの先にある扉の向こうには、このような地下にあるとは一般人なら俄には信じがたいほどの巨大な空洞がある。
 天井から床まで200メートルはあろうか。奥行きはさらにその倍以上はあり、扉を開けたOWからはその全てを見渡すことはできそうにない。
 そこにはブルドーザーやパワーショベルといった重機のパーツと思しきキャタピラやアーム、反り返った巨大な鉄板など、さまざまなガラクタが無造作に転がっていた。
 子供の玩具箱に迷い込んだ小さな虫になったような錯覚を覚えながら、OWは奥へ奥へと歩く。
 そして最深部からこのアーカムシティ全域の地下を通る巨大なパイプラインへと繋がる入り口、その手前には、奇怪な巨像が鎮座し、主の命を待っていた。
 OWの唇がつり上がり、真っ白な歯が覗く。本来ならば健康を感じさせるはずのそれは、痩せこけた彼の頬肉と相まって、ケタケタと笑う骨格標本といった方が近く見えるかもしれない。
 パネルを操作し、巨像を支えているスタンドやアームを1つ1つ外す作業に入ったOWは、優子に薬を投与している時などよりも遥かに集中力を発揮しており、ともすればちょっとした衝撃で折れてしまいそうな手足にも力が漲っているようだった。
 ある意味で、奇妙な老人ではあった。
 その姿の弱々しさとは裏腹に、時には激しく、時には飄々と他者に接する。ウェストにしろ神父にしろ、機嫌を損ねてちょっとした叩き合いでも起こそうものなら、相手にその気があるか否かに関わらず彼の身体はどこかが壊れてしまうだろうに。
 もともと、どこか人を食ったところのある人物ではあったが、最近はその方向性がさらに顕著になったのではないか、と噂する者もいる。
 そんな話もOWの耳にあっては右から左に抜けるだけのノイズに過ぎない。が、同時に少々寂しくもある。
 ここには、彼の性格についてとやかく言う者はいても、彼の存在そのものを疑問視する者はいない。
 つまり――
「――詮のないことだ」
 胸に去来する苦みを、一言で切って忘れる。
 そうしているうち、OWの目の前の巨像は己を基地の地下深くに繋ぐアーム群のジョイント部から完全に解き放たれ、その姿を隠す物は1つもなくなっていた。
 像を見上げるOWの顔には、さきほど一瞬よぎった苦笑じみた懊悩は既に見られない。ただ、己の愛するペットか相棒とも言うべき目の前の存在がその力を揮う瞬間を思い身を震わせるのみである。
「すまんなあ、傷ついたお前の再建にこんなにも時間をかけて。お前も悔しいだろう? 恨めしいだろう? だが雪辱を果たす機会は来たぞ」
 まるで相手が生きているかのように、静かに眠る巨像に対しOWは話しかける。無論、答えはないのだが、やはり大した意味はないのか、気にした風もない。
 だが敢えて言うなら、が入って各部で響き始める駆動音や、吐息のようなリズムで吐き出される排気音は、どこか飼い主の号令を待つ猟犬にも見えた。
 或いはOWは、のそんな姿に己との会話を見ているのかもしれなかった。
 アーカムシティの地下を網の目のように走る通路へと繋がる扉に向けて人差し指を突きつけ、その猟犬を解き放つべくOWは号令を下す。
「往け、オールド・ハリー! 海ユリの群れなんぞに創られた人形よりもお前の方が優れていることを今度こそ証明するのだ!」


   3


 僅かな時間、ウェストは気絶していたらしい。
 僅かな時間の気絶で済んだこと自体が奇跡的なほどの振動だったともいえたが、無論のこと、ウェストはそんなことには思いも寄らないし、考えたこともない。
 いつものことと言えば、いつものことではある。
「ぐ……ぬぬ……なかなか凝った手を使う寡黙なヒーローであるな」
 派手に転げ回ったせいか、腕や脚が変な方向に曲がっていやしないかと多少心配したが、今のところ動作には問題ないようである。恐らく基地に帰ってから悲鳴をあげることになろうが、まあそれは良いとする。
 這うようにして操縦席へと戻り、再度ギターを抱える。
 そうしている間、異形は頭上の中空に支配者然と浮かんだまま特に何をするでもなく、破壊ロボを見下ろしていた。
 余裕に満ちたその態度に、ウェストは屈辱で歯を軋らせ、その情動をギターに乗せて激しく、そして鋭くかき鳴らす。
「なぁぁぁにを勝負が付いたような顔で空中浮遊しておるかぁぁぁッ!」
 その短く小さな脚ではどう考えても立ち上がれまいと思われた破壊ロボから、勢いよく炎が噴出した。先ほどジャンプに使用しようとした推進装置であるが、今回は破壊ロボの下部だけではなく、地面に接している胴体部からも噴射されている。
 暴力的なまでの熱と推進力に、道路のアスファルトは時を置かずして溶けて液状になり、周囲のビルでは窓が次々に割れて破片を撒き散らす。
 まさしく名の通りの破壊を振り撒きながら、破壊ロボはその巨体をはじめはゆっくりと、そして徐々に動かして――そして、飛んだ。
「レェッツ・ロケッティィィィィィィィィアアア!」
 無様に転がった巨大なドラム缶がまさかロケット噴射で飛行しようとは誰が予想し得たろうか。
 まっすぐに己に向かって突進してくる破壊ロボに、異形の方もさすがに泡を食ったのか。身体の向きを変えはするが、対応らしき対応も見せることはない。見ようによっては、呆然としているようにも唖然としているようにも取れた。
 ウェストの爪弾くエレキギターの戦慄に、攻撃的な色がさらに強まる。
 応える破壊ロボの右手のドリルが唸りを上げながら振り上げられ、
「ドォリルアァァァム!」
 その突進の勢いに任せてまっすぐに突き出された。
 異形もまた遅れて、先ほど空間を切り裂いてみせた腕を向ける――が、既に近すぎる。引き金を引くより先に破壊ロボのドリルが到達するのは確実と思えた。
「――チ」
 どこからか漏れ聞こえる舌打ち。ウェストは敵の余裕以外の声を初めて聞いたことに大いに満足感を得て、口元を歪に釣り上げる。
 異形はどういう原理でか、何もない空間でその機体を横に流れるように移動させる。至近距離でありながら、破壊ロボのあまりに巨大なドリルから逃れてみせるその動きは見事という他なかったが――いかんせん、その後ろに控えているものがさらに巨大すぎる。
 それはあまりに大きく、あまりに重厚で、そしてあまりに攻撃的で破滅的だった。目前に迫ったそれは、異形にしてみればさながら空をも覆わんばかりの悪夢に見えたろう。
 ――つまりは、空中をロケット飛行してくる破壊ロボ本体のことなのだが。
「うぅわはははははは!」
 思わず、ウェストの口から哄笑が漏れる。
 さすがに、その激突を防ぐ術を異形は持たなかった。
 激突と同時にコクピットを衝撃が走り抜ける。が、それは異形の側に走ったそれの何十分の一か。装甲がひしゃげ金属が擦れ合う不快な音を一帯に響かせながら、破壊ロボと異形はそのまま覇道邸を飛び越えて反対側の庭へと墜落する。
 風を切って、というよりも貫き破壊しながら飛んだ一塊りの巨体が地面と接触することによって起こった地響きは、両者が激突したときの衝撃とは全く比べ物にならない物となった。
 それは削岩機にも似た、大地の悲鳴とでも比喩すべき破壊音で、しかもそれは持続する。異形とそれに組み付いた破壊ロボは単なる墜落では飽きたらず、慣性の赴くままに突き出したドリルで地面を削る。
 地団駄を踏む覇道の当主を想像すると、ウェストとしても胸がすっとする。尤も、別段、あの少女に恨みも嫌悪もないのだが。
「――――――ッ」
 地響きに中に混じって、誰かが毒つくように呟いた。
 ウェストには聞き取れない。だが、少なくとも自身のものではない。すなわち声をあげたのは異形か、その中にいるはずのパイロットか。
「ぬ――?」
 その空気の変化にウェストが気付いたときには、既に異形は下敷きにならぬよう守っていた左腕を破壊ロボの右、つまりドリルのついたアームの根本へと向けていた。
 今度こそその引き金は、ウェストが何かをするよりも早い。
 手首から先が消失した腕の先が一瞬光り、そして無音の発射音。否、無音なのだからそれは発射音と呼ぶべきではないだろう。そもそも物体など飛び出してはいない。
 銃口から発射された何かが貫いたのは、空間そのもの。見ることも触れることもない、ただそれがそこにある、という絶対的な座標を表す概念のみの存在であるはずのそれを、異形はさも当然のように切り裂いた。
 それまでその位置に在ることを当然の権利として受け入れていた物体は堪らない。破壊ロボの右腕は、いかなる物理的な干渉も受けず衝撃も伴わず、ただ根本だけがその空間に存在しない、という不条理な現実に敗北し、ドリルもろとも支えを失って弾け飛ぶ。
 目の前の異形の体長ほどもあるドリルだ、その破壊力は想像して余りある。弾かれた勢いのままドリルは放物線を描いて宙を飛び、数十メートル先のビルへと突き刺さって倒壊させた。
 無論というべきか。異形もウェストもそんなことには頓着しない。
「わ、我輩の浪漫が!?」
 ウェストはそれまで無敵を誇っていた己の最高傑作がいとも簡単に傷付けられたことに驚愕するので忙しく、
「今だ、抜けろ、アカシャ」
 異形は異形で、バランスが崩れ傾いた破壊ロボの下から抜け出す好機を逃しはしないからである。
 覇道邸の庭を滅茶苦茶にしながら両者は離れ、そうしてようやく動きを止める。
 破壊ロボは片腕を落とされ、胴体にも大小さまざまな傷を負っている。街での破壊活動を始めて以来、初めてのことだ。が、ウェストは屈辱よりもむしろ、どこか浮き立つような思いを禁じ得ないでいた。
 ギターの音色に苦悩のような期待のような、どこか間延びしたフレーズを交えながら破壊ロボを立ち上がらせつつ、口の中で呟く。
「むう。この胸の中に湧き上がる高揚感は一体。しかしてそれは郷愁にも似て……というかむしろ妙な既視感があったりなかったり、はて」
「さあな。前世の記憶でも甦っているんじゃないか?」
 首を傾げて頭に疑問符を浮かべるウェストに、意外にも応える声があった。音もなく、ウェストの喉元には冷たく尖った金属が突きつけられる。
「なぬ、貴様何やつ――というか何時の間に!?」
「動くなよ。別に慈悲で殺さない訳じゃないんだ」
 いかな思考、即行動を旨とするウェストとて、流石にその状態で抵抗を試みるのが自殺行為であることは分かる。眼球だけを動かして、顎の下にある金属から、それを握る手、黒いスーツの袖、そしてその腕を伸ばす男へと視線を流し――サングラスの奥の瞳とぶつかった。
 上から下までカラスのように黒ずくめの男は、身体全体が淡い光を放っていた。白とも金ともつかない、不可思議な色が包み、男の姿には現実感が乏しい。だがそれでいて、ウェストの喉にはひんやりとした金属の感触があり、それがなお目の前の男の不気味さを際立たせていた。
 くわえて、突きつけられている得物もちょっと普段はお目にかかれる代物ではない。
 ナイフだと思って視線を一度下げて確認してみれば、そこにあったのは奇妙な紋様が刻まれた、尖った棒状の何かだった。握りの部分が膨らみ、そして角のような尖りは両側に向けて生えている。密教僧が持つ法具、独鈷杵であった。
 元はインドの武器だったというから、その鋭い杵をウェストの喉に向けるのもそう不自然な話ではないのだろうが、いかんせんそれを持つ男がヤクザよろしく喪服の如きスーツ姿ではまったく似合っていない。その珍しさも相まって、拳銃でも使われた方がまだ落ち着けそうな状況だった。
 ごくり、とウェストの喉が鳴る。
 屈辱に歯も噛み折らん思いだが、対する男の唇の端が勝利への確信で僅かにつり上がるのを見て、ウェストの萎えかけた闘志にも再び火がつく。根っからの負けず嫌いなのである。
「ふん。見覚えがあると思ったらいつぞやのニュースで見た顔であるな。確か、官憲の介入であっさり壊滅した武装カルトの負け犬教祖ではないか。なるほどあの悪趣味な破壊ロボにも納と――」
 男の表情は動かない。ただ音もなく、すっ、と独鈷杵だけがほんの数ミリ、前に移動した。
 ちくり、という虫に刺された程度の小さな痛み。だがそんな瞬間にも揺らぐことすらない男の眼が、ウェストの体温をきっちり2度ほど下げてくれる。
「――くするかどうかは置いておいて、あー、うむ。失敗するということは凡人ならば誰にでもあることであるからしてそも我輩のような世紀の大天才とてたまにはうっかり格納庫が高純度高カロリーで巨大爆発する現場を何の因果か目撃することもあり凡人であるところの教祖がさらに凡人である狂信者に足を引っ張られて計画が頓挫したとしてもそれはそれで世の必然であり凡人教祖が嘆いたり劣等感を感じる必要はないというか」
「……それが譲歩なのか」
 く、と男の喉から小さく笑い声が漏れる。と同時に、僅かに突き刺さった独鈷杵の感触が離れていく。
 ウェストの態度に何かを諦めたのか。殺さない理由があるというのは本当のようだった。
「まあいい。時間もそんなにないんでな。お前には少々訊きたいことがある」
 む、とウェストの眉が跳ねる。
「ドクター・ウェストと言ったな。お前は今、コスモ・マトリックスに協力している。そうだな?」
「ふん。それがどうした。残念ながら我輩は単なる孤高の天才科学者であるからしてスポンサーへの入信申込書を我輩に提出されても受理はできんぞ……と、待て。貴様何故そう思った?」
からな。が、まあそれは良い。お前が気にすることじゃない」
 分かるような分からないような台詞を吐いて、男――坊門はウェストの疑問を受け流す。
 己の聞きたいこと以外の話題は許さぬとばかりの態度にウェストは鼻白むが、無論というべきか、坊門は気にした風もない。
「お前の上……ずっと上にだ。コスモ・マトリックスを裏側から動かしている女がいる筈だ。そいつはこのアーカムで一体、?」
「……なぬ?」
 唐突な言葉に眉をひそめる……が、奇妙な燐光に包まれた坊門の顔には些かの揺らぎもない。つまりは、少なくとも当人にはその質問になにがしかの確信を持っている、ということだった。
 これが例えば、「何が目的だ」とか「組織のトップは誰で、どこにいる」というのなら、ウェストも納得しただろう。答えたかどうかは、気分次第だが。
 だが、「何を探している」とはどういうことだ。そのいかにも限定された範囲を問う不可解さ以前に――そんなこと、決まっているではないか。
 この男が覇道に与しているなら伝わっておらぬ筈もない。女を追っていると、ウェスト自身、先ほど宣言したばかりだというのに――

 だがウェストが口を開くよりも早く、坊門は強い断定で以てその言葉を否定した。
「その女の素性は知らんがな。だが連中がエアーズ・ロックでの食い残しにこうも露骨な陽動をかけてまで執着するものか。利用価値はあるんだろうがな、お前のような戦力をこのアーカムに配置、いや、この街の破壊魔であるお前と組もうという発想からして、もっと以前から件の女以外に目的があったことを示している」
「……なんだと?」
 そして、ウェストはさらに眉を顰める。
「貴様何か勘違いしておらんか? 我輩はあくまで今朝方《門》の監視部隊を全滅させた女を捜しているのであってだな。むしろ覇道がそやつを保護することに人の邪魔好きの我輩もビックリというか」
「なに?」
 坊門もまた、硬直する。
 互いに互いの虚偽を見抜くべく睨み合う……が、坊門からは先ほどまでの痛みさえ伴いそうなほどに鋭い覇気は感じられない。その見開いた目からは、ウェストが思わず口を滑らした事実への混乱よりも、ある種の納得めいた驚愕が見て取れた。
 畳みかける好機とみたウェストは鼻を鳴らして喋り続ける。
「己の愚かさに納得がいったのならさっさとその時代遅れの凶器を下ろせこのインテリヤクザが。この我輩に刃を向け――ぬ」
 だが、その台詞は最後まで言い終えるよりも先に途切れることになった。
 侮辱された坊門がウェストの喉元へ突きつけた独鈷杵に力を篭めた……からではない。
 事実、面倒臭そうな顔でそういった威圧行動に出る気配はあったのだが、ウェストが言葉を切ったのと同じ理由で、坊門もまた動きを止める。
 2人ともに、破壊ロボのコクピットに伝わる微弱な振動を感じてのことだった。
「地震……か? いや……」
 坊門の故郷ではいざ知らず、このアーカムにおいて地震はそう多くない。10秒を待ってもその揺れは収まることなく、むしろひどくなる一方だ。
 しかしそれは地震の音ではない。そも、揺れが大きくなることはあれ揺れる方向が変わることなどあり得るのか。
 そう、震源地が秒ごとに変わる、などという奇怪な現象でも起きない限りは。
 それは地震というよりもむしろ――
「く、アカシャ、何が起こっている!?」
 ――まるで巨大な何かが地下を無理矢理に走っているかのように。
 支え無しに立っていることすら辛くなってきたその状況の原因にあたりが付くか否か、という一線が、己を取り戻す時間という点で坊門とウェストを分けた。
「ふん。呆然としているのは良いがなヤクザ教祖」
 呼びかけながら、指先を1つ、ほんの僅かな動きでギターを弾く。
 、がくん、とコクピットが揺れた。操作盤であるエレキギターへの入力に対し、破壊ロボが己を支える脚の1つを折ったのだ。
「な――」
 そんな急な動きにも、坊門は不自然とすらいえるバランス感覚で、油断なく姿勢を保ってみせた。こんなことでウェストを逃す隙を見せる訳にはいかないと考えたか。
 だが、坊門がその場で耐えれば状況は変わらない、と考えるのは誤りである。
「ふはははははははははははへごふッ!?」
 何故なら、破壊ロボを傾けたウェスト自身がその揺れになんの抵抗も見せずに倒れ込み、そのまま壁に後頭部を激突させているからである。
 そこで気絶しなかったのは、策でも機転でもなく、単純な運だろう。ウェストは両手に持ったままだったエレキギターの指板を無造作に握り、素早く前へ向ける。
 流れるようなその動きは、まさしくステージの上でテンションの上がってきたギタリストのそれであったが、しかしウェストがそんなの行動で済ます筈もない。
 不穏な空気にようやく反応した坊門の独鈷杵を握る指に力が入り、足を一歩踏み出す。が、遅い。
 にぃっ、と自慢の玩具を得意げに見せびらかす少年の如き笑みを浮かべ、ウェストは指板を握る左手の親指で糸蔵を弾く。と、ナットが外れてギターは途中で折れ、その裏に隠されていた金属製の小さな刃が姿を現す。
「なんだ……それは」
 驚いている、というよりも呆れ返っているような坊門の声にも頓着せず、ウェストは仕上げとばかりに、まっとうなギターでいうならサウンドホールにあたる部位の蓋を右手で開けて突っ込み、そこにある留め金を外した。
 と、がしゃん、という機械音とともにギターの裏側に貼り付いていた装置らしきものが下部へと移動し、ウェストは躊躇なくそのを引く。
「この世紀の大天才を前にして油断は禁物であるぞ?」
 迸る閃光と爆音めいた破裂音。
 一体どこの世界に、エレキギターに軍式汎用小銃を取り付けるような阿呆な改造をする者がいるというのか。
 破壊ロボのコクピットにいた坊門は心底呆れ果てた顔のまま、ウェストの構える玩具のような兵器から吐き出された5.56mm弾の雨によって跡形もなく四散した。


   4


 坊門のネクロノーム、アカシャは破壊ロボの侵攻を上手く止めてはいたが、しかしその常識外れの質量が動くことで伝える衝撃や振動を屋敷の内側にまで響かせることは防げていなかった。
 舞ってきた埃に、瑠璃の柳眉が逆立つ。
「応接間でゆっくりとお話を……という事態ではありませんね。ウィンフィールド、草馬さんを地下のシェルター……いえ、作戦室へ。わたくしは先に向かいます」
 唇を噛み切らんばかりに苦い表情を見せながらも、瑠璃はぎりぎりのところで冷静な声を発し、執事に命を下した。
「は、お嬢様」
「司令とお呼びなさい」
 執事の即答に、しかしぴしゃりと堅い声を跳ね返す。
「喩えその所業が人のそれであろうとも、このアーカムに害為す者は例外なくわたくしの、いえ、覇道の敵です」
「――は。失礼しました、司令」
 その言葉にようやく瑠璃は満足そうに頷き、執事を伴って応接間を辞す。
 そうして執事と別れ、入り口とは反対側――地下作戦室へと続く自分専用のエレベーターがある己の執務室へと歩いていった。
 本来ならば、部屋まで同行するのが執事にして護衛である彼の役目なのだが、今は命じられたとおりに玄関へと向かい、ファウンデーションのエージェントと合流することにする。
「……ふむ」
 急ぐウィンフィールドは1人、納得いかなげに唸る。
 それはこの有事において主に付き添うことが許されぬことへの憤り――ではなく、もっと曖昧な嫌な予感とでもいうべき不快感の発露である。彼はこの不快感に従って、主の傍を離れたと言っても良い。
 覇道瑠璃の危険危難を彼女へと累が及ぶ前に引き受け、排除するのは、執事の役目だからだ。
「首筋の裏がちりちりと騒ぎますね……相手をその目にする前だというのにこの緊張感、千客万来とはこのことですか」
 坊門啓もなかなかにやるらしく、正面に立っただけでまるで刃を首筋にでも当てられているかのような気にさせられたが、今感じられるものにはそんな体温が下がるような鋭利さがない代わりに、気を抜けば異が押し潰されるような圧迫感があった。
 尤も、それで怖じ気づく執事でもないが。
 向かうところ敵無しの天狗になっていたところを手も足も出せずに容赦なく叩きのめされたストリートファイターにとって、人懐っこい目で悠然と見下ろしてきた勝利者たる伊達男よりも怖いモノなど、邪神の中にすらいはしない。
 さらに足を速める。と、廊下の先から歩いてくる3人。案内役のメイドに先導された若い女2人のうち、見覚えのない方が件の草馬美空なのだろう。
 気付いた3人が足を止めるのに合わせ、執事もまた姿勢を正し、深々と頭を垂れる。
「草馬様ですね。覇道邸へようこそいらっしゃいました……と言いたいところなのですが、大変な騒ぎに巻き込んでしまい、申し訳御座いません」
「あ、い、いえ、こちらこそ、その、守っていただいて……」
 その態度にすっかり恐縮してしまう美空。返すべき言葉が咄嗟に浮かばないのか、当たり障りのない台詞を返しながらもごにょごにょと語尾が口の中に隠れてしまっていた。
 その顔に見える混乱と狼狽と、そして深い疲労を労るように、執事は薄く微笑みを浮かべる。見る者が見れば、それはどこか不敵な、リングに上がる競技者の自信のようなものが含まれているように映ったかもしれない。
「ですが御安心下さい。この屋敷こそはアーカムにおいて最も安全であると自負しております。いかなる悪漢にも、これ以上の狼藉は許しません」
 そこで言葉を切って、案内役のメイドと、そして美空を連れてきたディックに目を配る。
 それだけで、意思の疎通は行われた。メイドは静かに了承の意を示し、ディックもまたやれやれという顔で頷く。
「奥で総帥がお待ちです。私は所用が御座いますので、これで」
「んじゃまた後でね、美空ちゃん」
「え、ディックさんも行くんですか?」
 執事の横でウインクなどしてみせるディックに、美空が驚いて振り返る。覇道の長との対面に付き合うと思っていたのか。本来ならばそれが正しいのだろうが――
「ん、まあね。ここには美空ちゃん連れてくるのが仕事だし。ちょっとばかし雑務も残ってるし」
 気楽な顔とはいえ、仕事と答えられては、美空としても心細いとは言いづらい。メイドの方を向いて、お願いします、と頭を下げた。
 美空を先導して、奥へと歩いてゆくメイド。
 それを見送ってから、執事は入り口側へと振り返り、目を鋭く細める。
 心なしか踵が浮き、膝に篭もる力と反比例するように肩の力が抜かれる。未だ手を上げはしないが、拳は握られていた。
 隣のディックはといえば、執事ほどの緊張は見せない代わりに盛大な溜め息でもって状況への理解を示した。
「ご苦労様です、ディックさん」
 労いの言葉に、ぱたぱたと手を振る。
「まさかあの破壊ロボ、陽動ってこと? 中の人怒らないのかしらん」
「どうでしょう。ですが有効な策です。この街の住人ほど、彼の単独行動を疑わない」
 確かに……と、納得しかけたところで、ディックは僅かに眉を顰める。
「住人ほど、てワリには、件の坊門氏、ひっかかってません?」
「無視する訳にもいきませんからね。それに、坊門様は坊門様の目的があるようでした。察した上でこの場は任された、ということなのだと思いますよ」
 責任重大だこと。そう呟いて、ディックは再度の溜め息とともに肩をすくめてみせた。
 2人の会話と、そして外の戦闘に余波で伝わる振動を別にすれば、廊下に響く音はなく、ある意味で平和そのものと言って良かった。今もって消火活動に忙しいアーカムの中心街とは比べるべくもない。
 だが執事ウィンフィールドとディックは気付いていた。玄関から音もなく迫る、悪意と邪気に満ちた何者かの気配に。
 否、迫る、というのも正しくない。音もなく、それは既にすぐ近くまで迫っていた。あと3歩、いや2歩も進めば、は彼らの視界に身を晒すところまで来ている。
 廊下の角から現れたのは、1人の長身の神父であった。ボロボロの長衣を纏い、目を血走らせた男に神父と見て取れる特徴が残っていれば、の話ではあるが。
 神父は2人をその目に入れてはいたが、しかし足を止めることはなく、さも眼中にないと言いたげな様子で廊下の奥を目指す。
 神父を見た、その瞬間に至ってようやく、ディックの表情から余裕が消えた。
 それは神父の形相に威圧されたというよりも、
「――驚いた。シンプソン……だっけ? あんた、生きてたんだ」
 よもや目にするとは思いも寄らなかった、かつて葬ったはずの邪教徒、否、と出遭ったゆえの驚愕によるものが大きい。
 ぴくりと、神父の眉が怪訝そうに揺れた。
 足を止め、睨むようにディックの顔を凝視する……が、彼が得心の表情に至ることはなかった。その記憶の中に、ディックに関する物はなかったらしい。
「知らんな」
 ただ一言、それだけを吐いただけだった。
「そ」
 ディックもまた、別段、因縁を感じる訳でもない。
 エアーズ・ロックの下の下に、邪神もろとも封印された眷属が誰かに拾い上げられようが自力が這い上がってこようが、はたまた全くの人違いのそっくりさんであろうが、そのこと自体には興味がない。所詮、数年前に彼女が現地で偶然出逢った旅行者と協力し、命懸けで再封印した《落とし子》に比べれば、小物そのものである。
 気になることがあるとすれば、それは、
(エアーズ・ロック、ね)
 何かと縁のあるその土地が示す、奇妙な符合くらいだろうか。
「お知り合いの方なのですか?」
「んー、微妙」
 そんな会話を交わす間にも、神父と執事、そしてディックの間の緊張感は増してゆく。 もはや敵か味方かなどと確認するまでもない。これだけの邪気、これだけの瘴気を発してなお味方になれるというなら、人は海底の連中とだって生きていけるというものだ。
 神父もまた、ディックの言葉について吟味するつもりはないようだった。既にその澱んだ瞳の焦点はディックにない。その歩みが再開されるときこそ、激突の合図とみて良いだろう。
 その一歩。神父の無造作な一足が踏み出される直前に、執事が短く口を開いた。
「ふむ。おかしいですね」
「え?」
 聞き返すディック。だが、その意味を問う時間は与えられない。

「――――邪魔だ」
 神父が、強襲の一歩を踏み出した。



 ぞわりと、美空の背筋を千匹もの蟲が走り抜けた。

「――――っ!」
 声にならない悲鳴を口の中で噛み殺し、振り返る。が、視線の先にある曲がり角のさらに向こう側で何が起こっているかなど知る術もない。
「草馬様?」
 先導していたメイドが怪訝そうに首を傾げ、声をかけてくる。どうも美空の悪寒の百分の一すら感じてはいないらしい。
 或いは、メイドが鈍感なのではなく、
(……私しか感じない性質の気持ち悪さなのかな)
 草馬美空をしてようやく気付く、あまりに特異な何かが起こっているのか。
 判断のしようはない。
(どうしよう)
 なんとなく無視するのが躊躇われ、しばし迷う。と、別れ際にディックが「仕事がある」と言っていたことを思いだした。
「あ……仕事って、ひょっとして」
 ドクター・ウェストと言ったか。彼をディックは「テロリスト」と呼んでいた。
 思想的な背景は知る由もないが、あの巨大なロボットだけで活動しているとは確かに考えにくい。そんな敵と戦うために、彼らは残ったのではないか……?
 週刊誌だったろうか、以前、何かで読んだことがある。世界一の大都市アーカムには、反政府ならぬ反覇道を謳うテロリズムが蔓延っていると。
 主だったものでは、リゾート地として開発されたインスマウス海岸のが受けた被害を主張する者達や、覇道によって暴力的な弾圧を受けて解散に追い込まれた宗教団体のメンバー等々、なんとも与太話としては面白いが――というレベルの話で、美空も本気にしてはいなかったのだが、その構成員の出自はともかくとして、テロリストに覇道が狙われているというのが本当なら、確かにここを守るのはディックの「仕事」にあたるのかもしれない。
 だが――
(けど――そうなのかな)
 ウェストはなんと言っていたか。
 アレの狙いは覇道ではなく――
(私、だ)
 ――ここにいる、草馬美空の方ではなかったか。
 あの男は、美空がこの街で眷属の集団を斬ったことを知っていた。その報復に来た、という様子ではなかったが、しかし美空が引き金を引いた事件には違いない。
 美空は顔を上げ、メイドの方を向く。
「あ、あの――」
「草馬様」
 と、それを待ち構えていたかのように、メイドは美空が言葉を繰るのを静かに止めた。「ディック様もウィンフィールド様も、不逞の輩に不覚を取るような方では御座いません。信じて、安全な場所へと退避し、方々の後顧の憂いをなくすことが草馬様の一番のお役目かと存じます」
 美空の逡巡の意味など、彼女には分かり切った話だったのだろう。と同時に、現在の状況が美空の想像通りであることがはっきりした。
 件のテロリストはともかく、覇道までがどうしてこうも自分を重要視するのか、美空自身には未だ見当も付かないのだが、そこを割り切って考えれば彼女の言葉になんら問題はない。
 この手の作法に厳格な場所と時代であるなら、使用人が客に向けるものとして或いは少々出過ぎた台詞ではあるかもしれなかったが、ぐずぐずとその場に留まり、結果として被害を出せばそれこそ本末転倒。案内役である彼女の責任をも問われよう。
 さらには、案内される先にいるという覇道の総帥と会えば、エアーズ・ロックへの、辰人への道が開けるかもしれないのだ。今更、1時間や2時間話すのがズレ込んだところで状況に大した影響はないだろうと分かっていても、気持ちは逸る。こんなところでテロリスト相手に標的である自らの身を晒して危険を冒し、死ぬか、或いは重傷を負うことでもあれば、辰人を救うどころの話ではない。
 残った彼らがそうそう不覚を取るまい、というのも本当の話だろう。
 《剣》の使命のことを抜きにしても、美空は剣道において高校生レベルでは全国大会にも敵のいない腕前であり、実家に伝わる居合術にしろあの厳格な父をして天才と言わしめる。その美空が、あの執事には打ち込む隙をとてもではないが見出せそうになかった。ただ向き合い立っているだけであるにも関わらず、だ。
 、執事は誰を相手取ってもまず負けまい。そう、人でないモノを敵に回してすら、だ。
 そも、メイドの口ぶりではこんなことが初めて、という風ではない。今までとは勝手の違った相手が攻めてくるのだと美空だけが知っているのだとしても、小難しいことなど考えずに引っ込んでいるのが正しい。場を混乱させるのがオチだ。
 考え得る限りのありとあらゆる面から言って、美空は確かに、いかな気がかりがあろうとこの場にいる全員のために、総帥が待つという屋敷の奥へと急ぐのが最善手だった。
 そのはずだ。そのはずだったのだが。
「…………」
「草馬様?」
「……駄目」
 なのに、一歩も先へと進もうとしない。
 先ほど感じた悪寒が、縛り付けたように足と床を離してくれなかった。

(……やっぱり、駄目)
 胸中で繰り返し、自覚した。
 どうやら草馬美空の身体には、リスクの高い仕事を人に任せる、という神経がないらしい。
 たとえその選択で希望を逃すかもしれないとしても、己の目的のために人を盾にすることだけはできないのだと、全身が無言で訴えていた。

「ごめんなさい」
 深々と頭を下げ、まずは詫びた。
 意味は伝わるまいが、しかし謝らねばならない1人ではあるはずだ。
 たとえ暴れているテロリストが美空の件を抜きにしても好き勝手にやってくるような相手だとしても、今、この瞬間の危難は美空が呼び込んだものに違いなかったから。
「少し、遅くなるって覇道さんに伝えてください」
 頭を上げると、顔も見ずに振り返る。止める機会を与えないために。
「私は、私の役目を果たさなきゃ」
 反論も許さずその一言を残し、美空は来た道を戻るべく、駆け出した。

 否、駆け出そうとした。
「いいえ、草馬様――」
 背中にかけられる、その声を聞くまでは、確かに脚は動いていたのだ。
「――。喩え急な舞台であろうとも、人形に繰り手の糸を切ることは許されぬ」
 そのどこか呆れたような、憤りと嘲りの混在した禍々しい声を浴びるまでは。
「あ……」
 声の方に振り向くことは出来ない。
 尤も、振り向いたところで何も見えはしなかったろうが。その瞬間、美空の視界から光は失われ、奇妙な落下感に包まれていた。


   5


 混迷を深めるアーカムシティを余所に、優子は未だ夢と現実の狭間にあった。
 意識の一方ではOWが部屋を出て行くのを見ながら、その一方では古い記憶の夢を見る。

 彼女の夢では、常に光と闇は斑に綾に。1つとして単色のものはあり得ない。
 それは例えば、端から見れば屋敷でゆったりと過ごしている日常にしても、その実、心の奥底ではいつ発作がやってくるのか恐々としていた日々であったし、義母から術を習う風景は親娘の絆であると同時に、死の半歩手前に踏み込む自虐にして虐待行為に他ならない。
 双子の兄についてもそう。
 響谷蘭丸は優子にとって長年焦がれ続けた同胞にして半身だが、しかし最初に出会ったとき、彼は最も憎い男の顔をしていた。
 無論、本来は別人である。
 死の際にあった蘭丸を救うため、日向亜紀は上杉秀一と契約を交わし、蘭丸の魂を5年間に渡って秀一に預け、守らせた。
 その5年間、蘭丸は自覚のないまま秀一の身体を支配することになり、蘭丸は己の力の制御法を、秀一は御子神である蘭丸の魂と長く触れ合うことで力を増大させることになったのだった。
 それは良い。それ自体に優子としても文句はない。
 だが敢えて言うなら、そのせいで優子にとっての最愛の兄の第一印象は、優子が夜ごと憎しみに苛まれて目を覚ますような、そんな男の姿となったのだ。
 つまり、蘭丸を想うことは同時に秀一を憎むことであり――
(ボクは……今のままじゃいつまでもこの憎悪と付き合うしかないっていうことだ)
 ドクターOWに誤算があったとすれば、それはこの一点だろう。
 彼は洗脳にあたり、麻薬に近い導催眠剤やペンライトの光など、さまざなな既存の技術を組み合わせ、また独自に編み出した催眠術で、優子が言葉を受け入れやすい、最もリラックスした状態へと精神の誘導を行った。
 だが、優子にははない。
 否、優子に限らず、人外には全てを忘れて何かを受け入れる心など持ちようがないのかもしれない。御子神にしろ、妖魔にしろ、魔術師にしろ、皆、いかなる時にもどこかで陰惨な何かが心の片隅にこびり付いている。
 たとえ一時でも、良い夢だけを見ていられるような度し難いまでの楽天性は、きっと人として人のまま生きることでしか育まれない奇跡なのだ。

 蘭丸を思い出せば、次には秀一をも思い出し……そして、優子はまたあの夜に囚われる。
「……っく、は――」
 眠り続ける優子の息が荒くなったことに、OWならば意味のある反応を見出したろう。
 だが、今この部屋で分娩台にも似たベッドに寝かされた優子を見張っているのは専門知識のないただの兵士であり、状況の変化には気付かない。
 洗脳という言葉の持つイメージから、なんとなく対象が苦痛を覚えるものだという意識があることや、裸の上にシーツをかけられただけの優子を直視することへの躊躇いも手伝って、若い兵士は優子の異常に気付かない。
 だが実際に優子が感じている不快感は嘔吐感すら伴う。
 全身の皮膚を百足が這いずり、さらにその内側で羽虫が羽ばたいているかのような錯覚。まるで変質してゆく細胞の1つ1つを手にとって確かめているかのように、身体の内部、その隅々までが痛い。
 夢でなければ、その腕で己の身体を抱きしめていただろう。否、それすら出来ない夢であるからこそ、その苦痛は直接心の傷となって優子を苦しめているのかもしれない。
 額から脂汗が耳の傍を伝って流れ落ち、雫となってベッドを濡らした。
「く……は、はあっ」
 荒い吐息は、悪夢の中のものか、それとも現実か。
 耐えきれずに漏れた自分の声を、優子はおぼろげな意識の中で、まるで窒息寸前の犬のようだ、と思った。
 それも喩えるなら、正しく空気があるにも関わらず、ただその胸の中に肺がないばかりに呼吸ができずにぜえぜえと意味もなく喉を鳴らす、無様な動物だ。
(ああ……そりゃ、苦しいだろうな)
 自分の想像を笑ってやりたくなる。
 まっとうな呼吸器もないのに、他と同じように息だけはしたいなんて。それを無様と言わずしてなんと言おう。そんなことをしなくても、その身体は別の方法でちゃんと生きてくれるというなら尚更のこと。
 いっそ、はじめから己はこういうものなのだと受け入れてしまえれば楽だろうに。この痛みから解放されようなんて思わないのに。
 逃れられないことは分かっているのだ。この激しい痛みは、この耐え難い不快感は、屈辱の記憶が彼女の魂に刻み込んだ、憎悪という名の精神があげる悲鳴なのだと。

 ――ご主人様と……愛し合うのよ?

 秀一の事とともに思い出される、忌まわしき女の聲。
 憎しみが深すぎて激しすぎて、そして遠すぎて、己を虐めることで早く早くと、その憎悪が達成される時を急かすのだ。
 決まって、優子をこんな身体にしたあの憎き女の次には、さらに記憶の奥にある憎悪の根源が顔を出す。

 ――君はその身体を、遥のおかげで永遠のものに出来たんだよ?

(煩い、黙れ――!)
 何を恩着せがましい口調で喋っているのか。
 何をさもこちらにとっても意義のあることのように。あれは、あそこまでの暴虐を見せておきながら、ただ――
(あんな真似をして、それはただ、ボクを――)

 ――良かったね、優子。

 覚えている。否、忘れられるはずもない。
 吸血姫を従えた、あの魔術師の男が身体をまさぐるあの感触を。
 女に噛まれて支配下に置かれた優子は自由を奪われ、感覚すらも切り替えられて、その身を貫かれる激痛の代わりに   が身体の中で荒れ狂う――思い出すたび発狂しそうな、あの体験を。

 ――初めてなのに気持ちがいいなんて、得したな。

(――――――――!)
 絶叫はしかし、声にはならなかった。ただ、空気を求めて喘ぐように、ぱくぱくと唇だけが大きく開く。
 それが、優子を衝き動かす復讐の動機。憎悪の正体。
 姉小路優子の心はきっと、上杉秀一を殺すまで、一歩も前には進めない。
 否、進む必要すらない。アレを殺すことさえ出来れば、本当は他のことなどどうでも良いのだとすら――


 昏い情念は、それだけで力を与える。
 後に何も残らずとも、満たされるその瞬間に至るまでに限って言えば、憎悪は確かに最も強いエネルギーかもしれない。
 或いは、そうして潰れそうな心を襲う記憶に、身を犯す薬物に、生命を脅かす神の毒に憎悪を以て抵抗し続けていたゆえだろうか。
「――な……のみ……あ…………」
 己の裡から響く悪夢に混じり、聞き覚えのない、小さく掠れた、ともすれば世界の全てを見渡す神ですら聞き逃してしまいそうな細い声を聞くことができたのは。



 優子は、静かに目を開いた。
 いや、はじめから瞼は閉じていなかったように思う。正しく表現するならば、目に映る世界へと意識を向け始めたというべきか。
「ボク……は…………」
 軋むように痛む身体をどうにか起こしながら、しばし、状況を理解できずに茫洋と視線を漂わせる。
 悪夢を見ていた。それは確かで、いつものことだ。ただ、目を覚ました場所は屋敷のベッドではないらしい。
(違う。屋敷にいるはずはない)
 記憶に訂正を入れる。姉小路優子は義母の言いつけで世界中を回り、最後の目的地としてアーカムへと来ていたはずだ。
 そこで妙な刀を持った退魔――否、アレはもう既に神狩りと呼んで良いレベルの危険物だ――に捕捉され、衝突。ホテルの最上階から放り出されたのだ。
 それもまあ、ある意味ではやはりいつものことではあるかもしれない。敵の力量と、敗北という結果の2点を除けば、だが。
「くそ、腹が立つなあ。好き勝手喋らせて頭に血が上った挙げ句に結局負けなんて」
 ちょっと義母や兄には話せない失態である。
 件の女には然るべき報復措置を考えておくとしよう。再び会う機会があるかは分からないが。
 さて、そこまでは良いとする。
 刀を持った女のことは気になるが、優子には上杉秀一以外に割り振る憎悪はない。このまま自分が破滅でもすれば恨むだろうが、今のところアレは降りかかった数ある火の粉のうちの1つだ。
 優子は端から人間など大嫌いなのだ、ただの敵対者を殊更に憎んでも始まらない。
(……と、いうことにしておこう)
 実は腑が煮えくり返りそうだったが、とりあえずその一言で怒りは飲み下しておく。
 しかし、そこから先のことを覚えていないのは問題だ。
 無論、あの神刀で殴られた時点で意識を失ったのだから、そこから今までの記憶などあろうはずもないのだが、しかし、目下のところ一番欲しい情報がそれなのも確かだ。
 そしてさらには不可解な現実が1つ。
(ボクは……なんで)
 
 あまり印象に残ってはいないが、確か妙な薬物を投与されて、思考を縛られていたように思う。その状態で施された催眠術によって優子は夢の中に落とされ、今に至る――はずなのだが。
「――――いや」
 他に1つ、覚める直前の夢には何か、過去の記憶ではない不純物が混じっていたような気がする。
 行動の指針に関わる、それなりに意味のある物だったように思うのだが――
(謝罪と、依頼……だったっけ)
 誰が誰に。そしてどんな。
(……まあ、今はいいか)
 そこで一度、優子は思考を切った。
 思い出すのに時間がかかりそうな物はあとでゆっくり考えることにする。
 とりあえず今は、此処で何処で、己の立ち位置がどんなもので、出口まではどう行けば良いのか等々を考えるべきだろう。
(あと……服だな)
 自分が裸でいる理由と、そして特に何より、

「……やあ」
動くなFreeze

 そのあたりについて唯一、話が出来そうな軍人風の男によって向けられた銃口の意味について、まずは考えねばなるまい。

 優子はこっそり、このアーカムに来てから何十度めかの溜め息をついた。


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